Spilt Pieces
2003年12月11日(木)  私一人
自分の意思で自在に動かせる人間は、当たり前だが自分一人。
自身の個性を大切にすることを認められる時代であるからこその当たり前なのかもしれないし、とても貴重なことだと思う。
そしてそれと同時に、何かを成し遂げようと思ったときに、その小さな力で何ができるのだろうという無力感に苛まれてしまう可能性もある。
ゴミを拾う人間が1人いたとしても、10人が捨てていたら意味がないのだと。
そしてその無力感や、自分一人のなすことが何になるのだろうという自信のなさから、結局のところ何もできなくなる。
意味を考えることが悪いとは思わない。
行動を起こす上で結果を求めたくなってしまう部分は、多かれ少なかれ誰もが持っているのではないかと思うから。
ただ、意味がないことを言い訳として何もしないのは少し馬鹿げている気がする。
誰かに言いたいわけじゃなくて、ただ、普段の自分自身への反省を込めて。


お昼頃ご飯を食べつつテレビを見ていたら、ボランティア活動をしているという女性歌手がインタビューを受けていた。
私の好みとして、あからさまに「いいこと」を言葉にされてしまうと引いてしまう部分があるのだが、その女性と周りで演奏している人たちがあまりに楽しそうだったので、思わずチャンネルを変える手が止まってしまった。
家の近所を歩いていそうな雰囲気。
心からの表情を浮かべる人。


彼女は楽しくゴミを拾うという。
海で丸くなったガラスの欠片で鏡のフレームやキャンドルスタンドを作り、ライブのときに飾ることもあるのだと。
「環境を守るんだ、みたいな立派なものじゃないですよ。私自身が楽しんで、ついでに環境保全に役に立ったら一石二鳥、みたいな感じです」
厭味のない、自然体でのコメント。
「それが少しずつでも広がっていったら力になるのかもしれませんね」と言って笑うその顔には、余計なプレッシャーなど感じられない。
自分が何かしなくちゃという雰囲気も、活動に無関心な人を責める空気も、意味を考えて尻すごみする様子も、何一つ。


意味を考えすぎてしばしば動けなくなる私のような人間は、小さい頃から社会のことを気にするあまり、自分のやりたいことやその価値を、社会の基準と照らし合わせることが癖になってしまったのかもしれない。
社会貢献や、その中での自分の位置、「迷惑をかけない」、といった教育は、いいことばかりとは限らない。
「個性を重んじる教育」と近年よく言われているが、そのことを、もっときちんと考えてみたいと思った。


最近読んだバガボンドに「臆病を知った人間は強くなる」とあったが、それと同様に、「できないことを知った人間は強くなる」気がする。
児童期にある子どもが持つという万能感から未だ逃れられていないほど子どもではない。
だが、果たして何の影響があるのか分からないような小さなことであっても自分なりに価値を見つけて取り組む姿勢、というものを失いがちにはなる。
真っ直ぐに信じられるものを見つけられれば楽なのかもしれないが、正直言って私は、あまりにしっかりした道を歩くことが何となく怖い。
だから今もまだ、色んな道を探しては彷徨っているんだろうか。


「私一人が何をしても、結局は大して社会など変わらない」
今の社会にはそんな無力感が蔓延している気がするし、私自身その一人。
でも逆に、誰もが何もしなかったら、大してどころか全く変わらない。
知らないことがたくさんあってもいい、と思う。
一人で世の中のことを全て学び知ることができるのなら、あまりにも寂しい。
多くの分野で自分の知らないことを知っている人がいる。
自分の無知をよく嘆く。
だが、知らないことは別に恥ずかしいことではないし、知らないことを「当然」といって開き直ることさえなければ、一生学んでいける。


知らないことがたくさんで、できないこともたくさんで。
でもそれは、自分が何もしないことの言い訳にはならない。
今日テレビで見た彼女と全く同じ活動など私にはできないし、楽しいとは思えないだろう。
ただできることなら、彼女のように「楽しい」と思えることが、壊す方ではなく守る方であれば幸せだと思う。


今さらだけど、何でもいいからまずは動いてみることがきっと大切。
そういえば私がしたいことって、何だったろう。
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