| Spilt Pieces |
| 2003年11月10日(月) 感情移入 |
| 家の近所のゴミ捨て場に、数日前から大きな犬のぬいぐるみが置かれているらしい。 らしい、というのは、実際に私が見たわけではないからだ。 さっき帰宅した父が、「雨に濡れてぐちょぐちょになってたよ」と言う。 「ゴミ収集車では回収できないみたいね、袋に入っていないから」と母が返す。 それまでおかえりを言うのも忘れてぼんやり夕刊を読んでいたのだが、ふと気になって目をそちらへ向けた。 「ずっとそのままなの?」 「そうだなあ…野ざらしになってる」 「洗ったら綺麗になりそう?」 「そりゃ多少は。でもお前、まさか拾ってくるなんて言うなよ」 「分かってるけど。気になるじゃない」 会話はそこで途切れてしまったが、その続きは毎回同じだから大体予想がつく。 小さい頃から変わってないな、という言葉だろう。 対象が何であっても感情移入をしてしまう私は、その度に駄々をこねた。 「今までずっと家のために働いてくれたのに、どうして捨てるの?」 家電製品一つを廃棄するのにもいちいち文句をつけるような子ども。 きっと両親は扱いにくかったに違いない。 「お前みたいなことを言っていたら、何も捨てられなくなるよ」 人間がその手で生み出した人工物が、自分と同じように命や意思や感情を持っていると考えるのは、非現実だろう。 頭では理解できるのに、いつだって心が頷いてくれない。 よく物持ちがいいと言われるけれど、それは新しいものが嫌いなわけじゃなくて単に捨てられないだけ。 「自分がもしもこの物だったなら」 自分でも時折呆れてしまうけれど。 別に、ライナスの毛布のように特定のものに依存しているのではない。 色んなものに対して思い入れが強すぎるのかもしれない。 考えることを怠りたくないとよく思う。 勿論、考えてばかりで動けなくなるようでは本末転倒だが、苦しいからといって考えないことによって安定を得るのはできれば避けたいと。 しかし、考えれば考えるほど、必要なはずの非情ささえ失ってしまう。 考えれば考えるほど、他人を憎めなくなる。 だから、何かを批判したり誰かを罵倒するときには大抵自分の感情を忘れるようにしてしまう。 こうなると、責任放棄をしているかのようでもある。 そしていつも、吐き出したばかりの言葉に後悔する。 時には、言いながら。リアルタイムに。 人が非情になれるのは、相手の顔を忘れたときだと思う。 そして人が自滅していくのは、相手の顔を見すぎたときだとも思う。 机上の理論では誰も救えないし、数字の操作だけなら人を殺すも生かすも簡単だ。 だが、全ての人にとって都合のいい社会など、願ったところで所詮は理想論。 涙一つ一つを考えていたなら何もできないし、結局は大切なものを失う結果にもなりかねない。 バランスのとり方がひどく難しい。 これをうまくできる人のことを、頭がいいと言うのかもしれない。 感情移入をする人がいい人なわけでもなければ、できない人が悪い人なわけでもない。 「政治家って、色んな意味で心が強くないとやっていけないよね」 両親と会話しながら、ふと気がつくとこんな台詞を呟いていた。 全部の人にとっての幸せなんて実現できるわけがない。 妥協点の探し方が一番上手な人間が求められているんだろうか。 切り捨てられた人々の憎しみを、受け止められるほどの強い人。 一時的な利益に心揺さぶられることなく、きちんと未来を見据えられる強い人。 野ざらしの犬のぬいぐるみのことが心から離れないまま、新聞を見続けた。 今回の選挙で当選した人の顔写真を見ていたけれど、誰がそんな強さを持っているのかなんて分からなかった。 ああ、もう、書きたいことがうまくまとまらない。 |
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