Spilt Pieces
2003年11月05日(水)  霧
数日前、とても霧の深い日々が続いていた。
数十メートル先を見るのもひどく困難で、ハンドルを握る手が思わず緊張した。
普段ならそこにあるはずの信号が、景色に溶け込んで見えなくなった。
あるのだと分かっているだけに、変な気分。
「なくなってしまった信号機」は、どことなく息苦しさを生じさせる。


山がない。
霧は、今私がここにいるその風景こそが空であり山なのだと囁いた。
見えても、見えなくても、確かなものがあればそれでいいのだと。
普段視覚にばかり頼っているから、納得できない。
突然現れた迷宮に、戸惑ってばかりだった。
だってまだ、ないものをあると信じられるほどには強くなれない。
元々、何が「ある」なのかを分かっていない私ではあるけれど。


最初に訪れた濃霧の日。
日中の太陽は雲を照らし、どこに地面があるのかを教えてくれた。
透明な空間に安堵のため息を漏らす。
空へと上がっていく自分の口から出た白い小さな雲が、また頭上を燻らせるのではないかという錯覚。
思わず手で押さえ込む。
きっと、何の影響もないだろうけれど。


夜、信号が見えなくなった。
近くに行って初めて、くゆる空気の中に浮かぶフィルターがかった光を見つける。
明日は晴れますようにと祈りを込めつつアクセルを緩めて。
信号は、赤だろう。
多分、いつもと同じタイミングで。


次の日、また朝から霧が世界を覆っていた。
何となく、もしもこのまま続いたらどうしようかと不安になった。
ファンタジーでも読みすぎたのか、やや馬鹿げた発想。
地面から雲が生えているのだと信じそうになる。
早く太陽の光が降り注ぐよう、願いながら朝が過ぎてゆくのを待つ。
昼まで寝ていたら分からないことなのだろうけれど。
こんな不安も、三文のうちに入るのだろうか。


霧が晴れ、余韻が微かに燻る山を眺めた。
いつの間にか、風景の中に山があることを自然だと思うようになった自分がいるのだと気づく。
引っ越してきたときは大分田舎へ来てしまったと嘆いたくせに、今では明かりが点々としている景色の方が私を正常に機能させるようになってしまった。
「まだ若いのに、都会に出たいとは思わないの?」
「たまにでいいんだ」
ここにいると、そのままゆるりと過ごしたくなってしまうから危険だと、友人がやや焦燥に駆られた表情で言った。
根性なしの私は、基本的には田舎がいいのだと答える。
「老後にはいい街だと思うけど」
「そうかもね」
時が流れていくことを、僅かなやり取りで感じてしまうのが嫌だった。
嫌だと思う時点で、まだ私はこの地に適応できていないのかもしれないけれど。


ゆるいカーブ、車のブレーキランプが波のようにつき始めた。
まだ見えない信号機は、多分赤を示しているのだろう。
最近できたばかりのその信号機は、カーブの向こうにあるからいつだって見えず、そして少しばかり計算が苦手らしくて変なタイミングで赤に変わる。
いつかはマニュアル操作の車を買おうと思っていたのに、3年もオートマだと左足の使い方を思い出せない。
名ばかりの免許、ひょっとしたら一生オートマしか乗らないかもしれない。
そんなどうでもいいようなことを思いつつ、私も右の足をアクセルからブレーキへと移動させる。
やはり、赤だった。


通りすがりに左側を見ると、一人暮らしをしていた頃よく行ったいつものスーパー。
店の入り口には小さなプレハブらしき建物があって、そこにはたこ焼きを売るお兄さんがいる。
以前友人と2人で寄ったときその人の感じがとてもよかったのを思い出し、信号待ちをしている間にウィンカーを出してしまった。
そこまで腹が減っていたわけではなく、あくまでも何となく。
帰宅途中ということもあり、母と一緒に分けて食べるのもいいかと思った。
「いらっしゃいませ」
注文する場所に立つと、私が何も言う前に優しい声が聞こえてきた。
6個入りのたこ焼きを一つ、と注文する。
「今お包みしてしまってもいいですか?」
前友人と一緒に行ったときの人ではなかったけれど、人懐こい笑顔は似ていると思った。
「はい、お願いします」
他に買い物をするわけでもないので、そのまま包んで下さいと言う。
「マヨネーズはどうしますか?」
「あ、かけて下さい。海苔も」
「お箸は何膳入れますか?」
「家に帰って食べるのでいらないです」
「ありがとうございます。少々お待ち下さいね」


「お待たせしました」
彼は、少し申し訳なさそうに値段を言う。
きっと、どんな客が来ても同じような柔らかい雰囲気で話しているのだろう。
小さなトレーにお金を載せて、白いビニール袋に入れられたたこ焼きのパックを受け取った。
「熱いので気をつけて食べて下さいね。ありがとうございました」
ありがとうと言いたいのは、むしろ私の方だった。
多分、見知らぬその店員さんがどんな態度を取ったとしても、そのとき私はたこ焼きを買ったろうけれど。


家に帰りつく前に一つくらい味見をしよう。
でも、彼が言った通りにできたてのたこ焼きは、家までの30分の距離の間には結局食べらなかった。
あと三つ角を曲がれば家だという交差点で、偶然にも母の車に出会う。
同時に到着し、母は私が持っているビニール袋を指差してそれは何かと尋ねた。
「一緒に食べよう」
そう言って、台所の引き出しから爪楊枝を取り出す。
少しだけ冷めてしまったたこ焼きを食べながら、母はいつものように楽しそうに笑って、「これじゃお夕飯作る気しなくなっちゃうわね」と言った。


その日の夜も、やっぱり霧は深かったけれど。
何となく、気にならなくて苛々もしなかった。
肝心なのは、物理的な霧ばかりではなかったんだろうか。
そのうちまた、何かお土産を買って家に帰ろう。
できれば、優しく笑う店員さんのいる店で。
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