Spilt Pieces
2003年09月11日(木)  絵
色んなことが、リアル。
息をするのが、少しだけ怖かった。


気まぐれに行った公園。
年甲斐もなく、友人と二人でシーソーをした。
日焼け止めを塗るのを忘れて、照りつける日差しが少し痛い。
空が高い。


足を投げ出して、ブランコを漕いだ。
何年ぶりだろう。
目の端に、たゆたう水。
日が落ちるのは早くなったものの、太陽はまだ夏。
雲も、まだ夏。
名も知らぬ白い鳥が、翼を広げて飛んでいった。
こんな穏やかな沼。
殺人があったのだと、知ったのはそれから数十分後。
少なくとも、道路上の看板を見るまでは知らなかった。


暑い。
空と自分との距離を実感する。
見上げていたら、何だか泣きたくなった。
いつの間にか立ち漕ぎをしていた。
少しでも近づきたくなったからかもしれない。


飲み物を買いに自販機へ行っていた友人が、いつの間にか戻ってきていた。
「元気だねえ」
無糖の紅茶を苦いと顔をしかめて飲む彼女は、多分私と同じ目線を持ってくれている。
「こんな幼い遊びにも付き合ってくれる人と結婚したい」
そう言ったら、少し笑いながら「そうだね」と。
優しい表情で返事が来て、何だか意味もなくほっとする。


たくさんの現実感を失って、日々がそれこそ立ち往生。
昨日色んな誘いのメールをもらったけれど、理由なく断った。
嫌いとかではなくて。
理由がないだけだから。
まだ、多くの人が集まる場所に行けるほど強くない。
いつの間にか、サバイバルでは決して生きていけないような、悲しい透明さを帯びた生活を繰り返してしまった。


我儘でいさせてくれる人たちが、黙って優しい目線をくれる。
それに甘えているだけなのかもしれないけれど。
澱みなく流れる時の中で、ただ静かに揺られていたい。
間違っているということ、分かっているつもりなのだ。
人間は、そういう生き方ができるようにはできていない。
所詮は今だけの感傷、もしくは夢。
否、夢ですらない。
望んでいない。


人間は、実際に目にしたわけではないけれど、争いを繰り返してきたという。
悲しみの連鎖を断ち切りたいと、誰もが願ってきた。
…本当に?
誰もが、の「誰も」とは、誰のことだろう。
『世界中の誰もが使った…云々』という宣伝文句をよく聞く。
世界とは、どこを指して言っているのだろう。
誇張表現などどこででも耳にするものだけれど。
先進諸国の横暴だなどと発展・非難するつもりもないけれど。
でも、そこには誰が入っているのだろう。
誰のための「世界」だ。


争うことを、憎むことを。
教育されてきた人たちは、きっとそれを当然だと思う。
私は自分の考えを自分で決めているようであるが、実際は生まれ育った文化と環境に大きく左右されている。
もしも、この国に生まれなかったなら。
もしも、誰かを憎まなければ生きていけないような日々を送っているのなら。
悲しみの連鎖を断ち切りたい「誰もが」の中に入れるのか、自信がない。
少なくとも今は、入っているつもりなのだ。
だけどそれでも、自信がない。
だからといって、争いを認めたいわけでもない。
ああ、表現が、もどかしい。


現実に押しつぶされずにいられるようなゆとりを、一体どれほどの人が持っているというのだろう。
私は、幸せだと思う。
小さなプレッシャーや人間関係で悩むことはあっても、それなりに生きているから。
綺麗な、場所だ。
澱みさえ忘れてしまうほどの、虚構と不思議なバランスで保たれて。


命綱をつけることなく底なし沼に落ちた人を助けようとしたなら、愚かだと笑われるだろう。
自分が生きる、とはそういうことで。
白く塗られたキャンバスは、多分爪を立てると下から多くの色を溢れさせる。
私が考える「生き方の模索」は、ひょっとしたら下の色を塗りつぶしたことを忘れて、白いキャンバスの上で絵を描く方法を学ぶにすぎないのだろうか。


分からない。
絵の描き方が分からない。
時間も年齢も立場も必要ない。
求めているのはただ、何が本当の絵の描き方であるかなのだ。
方法などないのだろう。
自分で方向を決めるしかないことも。
だけど、上ばかり見て溜息をつく愚かしい自分に、今いる場所からできることを何か教え込みたい。


白状を一つしろと言われたならば、私は臆病者だということを告白するだろう。
情けない話だが、思ったらすぐさま行動できるほどの思いきりがない。
踏み出すまでに時間がかかること、そして言い訳が多いことを、20年以上もの付き合いとなるとさすがに知っている。
だけど、それでも私は私として、たとえ時間がかかろうとも、考えていくしかないし進んでいくしかない。


「将来どうするの?」
「考え中」
いつもの、答え。


色んなことが、リアル。
息をするのが、すごく怖い。
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