Spilt Pieces
2003年09月08日(月)  単純な
どれだけ言葉を重ねても満たされない。
多分、そこに実感が欠けているからだろう。
欲しいのは、もっともらしいロジックでもなければ優しい慰めでもない。
うまく表現できないけれど、喩えるなら、ぬくもりのようなもの。
もしくは、ぬくもりの記憶でもいい。
何もないところには立っていられないという、ただそれだけのこと。


例えばの話。
自分が一人ではないのだと、仮に幾千もの理由が背中を後押ししても、きっと私は蟻が堤防を崩すのと同じように、小さな穴を掘る。
「疑う余地はある」と言って。
我ながら、変なところにばかり頭が働く。
だから、数多くの理由などいらない。
ひょっとしたら、たった一つの理由さえもいらない。
だけど、もしも実感させてくれる手が一つあれば、それを頼りに眠るだろう。


ありもしない真実を探すのならば、せめて言葉を用いずに学びたい。
元々存在していた多くの言葉の組み合わせ方を覚えたところで、何が分かるかといえば多分「何も分からない」ということ。
誰かの言葉に反論できるほどの強さは持っていないけれど、言葉だけに騙されないほどの弱さなら持っている。
騙されてしまった方が楽なはずだけど。
そんな弱さなら、捨てなくてもいいかなと誤魔化してみたり。


自分と他人には違いがある。
違いがあることに、時折戸惑う。
あの人にできることが・その人が持っているものが、自分にはできない・持っていないと、嘆きたい日があるのも事実。
自分が必死で我慢していることを平然と行う人を見ると、何だかそれまでを否定されているような気がする。
自分が我慢し切れなかったことを当然のように耐えている人を見ると、何だかそれまでを悔いたくなる。
人と出会うたび、何かを学ぶたび、考え苦しみ、いつも何も分からない。
確固たる自分を得ていない弱さゆえかもしれない。
ゆらりゆらりと揺れてばかり。
だけど、悲しいからこそ分かる自分の立っている場所。
欲しいもの。


私は、美しい絵を描くことができない。
私は、上手に歌を歌うことができない。
私は、綺麗な言葉を綴ることができない。
「できない」と思うからできないのだと、色んなところで学んできた。
きっとこれからも何度も聞く言葉だろうと思う。
でも、無限の可能性を信じ続けることよりも、私には、できないことを認めてからできることを探す方が性に合う。
欲しいのは優しい言葉ではなく、自分を当てはめてくれる論理でもない。
定義は安心する。
それを探す人を否定する気もなければ、必要ないとも思わない。
だけど、それは自分のしたいことではないのだと思う。
「言葉は必要ない」
それは、あくまでも私が求めている実感。
ツールとしての言葉は必要だけど、ないかもしれない真実を求めたいのなら言葉に頼るべきじゃない、と。


私は、私の記憶しか持っていない。
だから誰かの記憶など、感情など、推測すれども分かりはしない。
でも、それが自分の記憶に固執するべき理由となるかは断言できず。
たくさんあるピースの一つでもいい。
小さな目から見た小さな世界を好きだと思うから。


欲しいのは、理屈じゃないたくさんのこと。
現実主義だと言われたり、非現実主義だと言われたりする。
どれもこれも本当ではなく、どれもこれも嘘ではない。
だって、そんなに単純に生きられたらもっと楽だもの。
だって、そんなに複雑に生きていたらもっと苦しいもの。
…矛盾しているんだろうか。


求めているのは、本当に単純な、優しい実感。
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