Spilt Pieces
2003年09月05日(金)  道路
通学路の途中で、よく動物の死骸を見る。
前へとばかり進んでいくタイヤが、彼らの死を汚しそうになる。
本当は、地面へ還れない時点で、そして通過していってしまう時点で、既に汚しているのだろうけれど。


道は、どこかへ続いている。
だから私は、急いでいるとき以外に迷うことが好きだ。
そして、わざとというわけでもなく、実際よく迷う。
迷っても戻らないし、路肩に寄って地図を見ることも滅多にないから、隣に乗っている友人はよく不安がる。
誰も通らないような暗い道も、田んぼのあぜ道も。
いつもとは違う風景が見えるからおもしろい。


だけど、道が続いているとはどういうことなんだろう。
人間だけが住んでいるわけではないのに、人間のための道が縦横無尽に張り巡らされている。
轢かれてしまった動物を見て、「危ないなら出てきちゃ駄目だよ」と、独り言。
動物たちが使っていた道を横切っているのは、多分私たち。
自分勝手ならぬ人間勝手な理屈だ。


血が接着剤となって、ふわふわした毛が地面に残っていた。
思わずハンドルを切る。
車を降りて埋めてやろうとしない自分は、ひどい口だけ人間。
分かっていても、直視できない。
避けるので精一杯。
車を運転し始めてから、一体何匹の死骸を見ただろう。


小さい頃、栃木の祖父母の家にいついた猫がいた。
家、といっても、台所と縁台の下をウロウロするだけで。
食事の最中、足が下までつかない椅子に座って、足元を猫が歩くのを大騒ぎしながら見ていた。
ある年、その猫は子どもを生んだ。
小さくてふわふわで、次も遊ぼうねと言って自宅へ帰った。
でも、「次」は来なかった。
家の前の道路でトラックに轢かれて死んだのだと聞いた。
運転手はそのままどこかへ行ってしまったのだと。
それ以来、元々いついていた親猫もどこかへ行ってしまったらしい。


私は幸運にも、自分の運転する前を動物が横切ったことがない。
だから出会うのは、どれも誰かが轢いてしまった後の状態だ。
気づくのが遅くてどうしても避けきれないとき、タイヤが不思議な感触を訴える。
何回転すれば、それを忘れられるのだろう。
そんなの、分からない。
そして時折、避ける様子さえなく、上を通っていく車がいる。


人間は、仲間が死ぬと土に埋める。
動物は、自然のままに還っていた。
昔から両者は、死に対する形が違っていた。
それと同じことだと思えばいいのか。
ただ少なくとも分かるのは、大抵の道は既に自然への帰り道ではなくなってしまった。
コンクリートで固められた世界で、どこに標を見つけられるのだろう。


道は続いている。
知らない道を行くのは楽しい。
だけど、ふと思い出す。
完全に分断されてしまったもの。
誰が悪いでもなく、人間の生き方が変わってしまった。
その中で生きている自分。
誰に文句を言えるわけでもない。
高らかと単純にそういう言葉を放てるのは、理想論しか言えなくなったときだと、思っている。
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