Spilt Pieces
2003年08月10日(日)  過去
近頃父が古い写真のネガをデータベース化している。
最近やり始めたような気がしていたのだが、いつの間にやら1年以上作業しているらしい。
「お前が結婚して家を出て行く頃にはCD−ROMに焼いてあげるよ」
「当分出て行く予定ないからゆっくりやっていいよ」
冗談のつもりだったのに、案外本気で心配しているのか、苦笑されてしまった。
ともかく、父の作業に伴って、家には古いアルバムがたくさん出ている。
しばらくぼんやりと小さかった頃の写真を見ていた。


「これ、どこだったっけ」
父が尋ねる。
だが、私には答えられない。
これまでに何度か写真で見たことはあるのだが、肝心の私の頭の中に入っていない。
「そんな昔のこと分からないよ」
そう言って誤魔化していたものの、実際は中学校の頃の記憶さえ覚束ない。
写真の中の時間は止まっている。
当時の自分を見ても、何を考えていたのかが分からない。
今に続くもの、過程という名の渦の中に、消えてしまった。


嫌な記憶ばかりが残るはずの時間の中でも、写真の私は笑っている。
だからだろうか、今持っている確信が揺らいでしまうのは。
悩んでいたことが、とてもちっぽけに思える。
今という時間が過去になったとき、私はやはり些細なことだったと言って笑うのだろうか。
冗談じゃない。
今は今で、私なりに真剣に生きている。
それなのに、どうしてだろう。
過去の自分が何を考えていたのかなど、もうちっとも覚えていないのだ。


小学生の頃、中学生がとても大人に見えた。
高校生など未知の世界の生き物だった。
気がつくと、私は大学さえも卒業しかけていて。
多くの人が抱く感覚らしいのだが、それでもやはり変な気がする。
来た道、だ。
本当に?
いまいち、実感を持つことができないのは、いつの間にかたくさんの時間を重ねすぎたからだろう。
たかが21年、されど21年。


古い日記を読み返すと、一応昔考えていたことの断片に触れることができる。
今とあまり変わっていないな、と思う。
そして初めて、時間が連続していることを知る。
変わっている、と自覚できるほど変わることなど、数年ではやはり難しいらしい。
堂々巡りの思考回路というのは、ある意味では当然のあり方。
ならば考えること自体馬鹿らしいと思わなくもない。
だが、それでも考えてしまうのは私が今を生きているからに違いない。
そんなことを、思う。


「綺麗な肌ね」
おばさんたちが、小さかった私の頬を撫でた。
いまいち分かっていなかったこと。
今なら分かるような気がする。
「シミがなくていいわね」
母が、私の顔を見て言った。
いまいち分かっていないこと。
年を重ねるということを、時間が経つまで自覚できないからかもしれない。


何が過去であるのか、本当にあったことなのか。
時折確信を失って、不安になる。
いやむしろ、確信など持てたためしがない。
私が知らない、私との思い出を楽しそうに語る人たち。
親戚のおじちゃんが言う。
「昔トラクター乗せてたとき、俺の背中で眠っちまったんだよな」
他人事のようなことを、私は「そう」と言って笑う、まるで覚えているかのように。
そうでなければ相手を傷つける。
そして、自分自身不安になる。
確かにあるはずのたくさんの記憶は、きっと膨大すぎて普段は引き出しの中。
私は、引き出しの鍵の仕舞い方がちょっと下手なのだろう。
いつも見つからなくて、探し回ってばかりいるから。


写真は、一瞬を閉じ込める。
脳は、一瞬ではなく全てを閉じ込めているはずなのに。
曖昧な事実が多すぎて、目を瞑ってしまいたくもなるし、自分にそんな過去が本当にあったのかと不安になる。
切り取られた時間。
考えていたことも消え失せ、ただ事象のみが残っていくかのような。
残像。


本当のことが何であるかなんて分からない。
だけど、たとえ全てが消えてしまったとしても、今ここに自分がいるということだけは信じてもいいのではないかと思う。
自分の知らない、忘れてしまったどんな過去があるにせよ、年を重ねねば私はいない。
自分自身のことであるはずなのに、確信が持てない。
それでもきっと、何かを考えていたことだけは事実なのだ。
小さな私と弟の写真を見て微笑む両親の隣で、私は、積もりゆく不安を少しずつ溶かしていこうと思う。
だって、それ以外に方法など思いつかない。
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