| Spilt Pieces |
| 2003年06月28日(土) 記憶 |
| 昨日、27日付けの日記を書いていたら、パソコンの調子が悪くなって強制終了。 あと少しでアップというところで消えてしまった。 ワードなどと違って自動でバックアップが取られるわけでもないので、最初から書き直しになる。 とは言ってもそろそろ寿命かもしれないパソコンを使用している私としては慣れたもので、ああまたやってしまった…と思うだけだ。 ただ厄介なのは、私は消えたからといって同じものは書かないということ。 むしろ、書けない。 記憶はいつだって刻一刻と変わっていく。 小学生の頃、作文を書くのが好きだった。 市のコンクールに出すと言われて、放課後教室に残って結局7回書き直したことがある。 400字詰め原稿用紙5枚、小学生にとってはけっこうな量だ。 それでも、納得いくまで出したくなかった当時の私は、なぜかこだわった。 内容は確か、「あたりまえ」の認識についてだったような気がする。 私にとっての「あたりまえ」が誰かのとっての「あたりまえ」と同義だとは限らない。 我ながら、当時から考え方の根幹がよくもまあ変わらないものだと思う。 結局その作文は、小さな賞を受けて市の文集に載せてもらった。 いい意味でも悪い意味でも「子どもらしい」文章に勝てないことを、ほんの少しだけ悲しく思いながら、納得がいくまで書き直したので自分としては満足だったような気がする。 しかし思い出してみれば、7回書き直したうち、同じ文章はほとんど書いていない。 同じテーマで同じ量。 部分的にだけ書き直せばきっともっと少ない回数で終わったのだろうが、書くたびに表現したいものが変化していって困った。 頭の中に描いている構造は、一瞬だって留まっていない。 脳の不思議。 自分のもののはずなのに、時間が経てば変わってしまう。 いくら時間が経ったからといって、考え方が急に変わるということはあまりないのだから、自分の文章であることには間違いない。 それなのに、どうしてこうも違うのか。 過去の自分が書いたものには、いつだってどこかに不満が残る。 私は日記を書き直さない。 書き直そうとしたなら、同じ題名で全く違うことを書くに違いないから。 昔書いたものが記憶から消えるわけではない。 だが、書いたら最後、その言葉は私の中から消えていってしまう。 以前大学の先輩が「芝居は僕の排泄物だ」と言っていたが、私にとって外へと表現してしまった言葉とはきっとそういう意味を持つ。 表すことに意味があり、表されたものには意味がない。 目的の置かれている場所が違う。 昨日の分の日記は、そのうちまた書くのかもしれないが、昨日書いていたものとは全く違う内容になるのだろうなと思う。 毎日違う文章を書くことは、苦ではない。 むしろ、同じものを書く方が辛い。 考えることの移ろいに、手も時間も追いつかない。 人の脳は、つくづく不思議。 脳から直接メモをとることができればいいのに、などと時々冗談めいて思う。 30分車を運転をしたなら、変わりゆく風景の中で30個書くことができるような気さえする。 しかしそれをメモすることも、表現することも、言葉も、足りない。 もどかしくなる。 記憶というのは不思議なもので、その瞬間は確かに覚えているはずなのに、時が経てば脳の隅の引き出しに仕舞われてしまう。 鍵をかけろと言った覚えはない。 それなのに、脳の中の誰かが気を利かせてか、意地悪をしてか。 厳重に鍵をかけられたエリアがあって、いくら力を込めて引っ張っても開かない。 何をどこまで、どのレベルで覚えておこうなどと、誰が指示しているのだろう。 忘れたくないこと。思い出。 気づくと断片的な塊となって、どれが本当のものなのか分からなくなる。 ひょっとしたらそれは、夢で見ただけの風景だったのかもしれない。 夢だと思っているそれは、忘れたい本当の記憶なのかもしれない。 何がどこまで、本当か。 誰にも確かめる術などない。 心理学の授業でも、記憶に関するものがあった。 記憶が移ろっていくこと、本物ではない記憶さえ信じられてしまうこと。 実証的に証明されてしまうと、抵抗できない。 だから私はしばしば開き直る。 何を覚えていても、覚えていなくても、今自分がここにいるという事実が、確かに今まで何年間か生きてきた証拠。 記憶がどこかで間違っていたとしても、消えてしまった正しい記憶によってしか今の自分は存在し得ない。 確認する方法を求めるのは、答えのない難題に取り組み続けているかのようだ。 私は、生き続けることによってしか、自分を確認できない。 毎日のように日記を書いていても、例えば一年前の自分を否定したくなるときがある。 文章があるということは、そんなことを考えていた自分がいるということなのに、時の流れの中で少しずつ経験を積み重ねていった自分がそれを認めるとも限らない。 事実さえ、否定したくなる瞬間。 無責任な私。 私が責任を負えるのは、今書いたものだけ。 過去について何か言われても、説明のしようがない。 「確かにそれは、当時の私にとっての真実だった」 私はいつもそう言う。 だから逆に、否定したくなっても否定しない。 今の私のエゴで、過去の私を否定するのは卑怯だし、不誠実。 なぜなら当時の私はもうどこにもいない。 反論する術を持たない人間に対して文句を言うのは、好きじゃない。 それに、もしそんなことを繰り返してしまったなら、私はどこにもいなくなる。 嫌いな自分も好きな自分も全て含めて、今の自分がいる。 記憶力が悪い。 誰かの名前を忘れるのに、そう時間はかからない。 それはしばしば人間関係について自分への困難となって降りかかるけれど。 でも、忘れてしまったその人のことを、新しく知るための機会が増えたのだと思うのもまたおもしろいかもしれない。 ひどい言い訳。 だがそれもまた、私にとっては真実だ。 |
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