Spilt Pieces
2003年05月21日(水)  痛
さっきテレビで、神戸での小学生殺害事件についての特集が放送されていた。
少し遅い夕食を取っていたときのことだ。
被害者の父親がテレビのインタビューに応じていた。
言葉が途切れる。
聞いているだけの私でさえ、痛くなる。


当時の映像が流されていた。
被害者の首が置かれたという中学校。
報道陣が押し寄せる遺族のマンション。
同じくテレビを見ていた父が悲痛そうに声を上げた。
「報道も、裁判にかけられるほどの罪を犯している」
私は無言だった。


何を言ったらいいのか分からなかった。
自分も、多少なりとも父と同じことを考えている。
しかし、そうやって遺族を傷つけたマスコミから、当時の私は確かに情報を得ていた。
上空から撮影された中学校と、それを取り囲む報道陣の姿。
それを見て、「ひどい人権侵害」と思うのは当然のように思われる。
だが私がテレビで見ていた中学校の映像は、その取り囲んだ報道陣のカメラを通して得られたもの。
自分は、文句を言える立場にいない。
物の見方は、単純そうでいて複雑。
複雑そうでいて単純。


カメラを引けば、真実の姿が見えるというのか。
「ひどい人権侵害」の現場を押さえたそのカメラも、要するにそこにあったということだ。
誰が誰を責めることができよう。
少なくとも、自身が変わらぬままのマスコミがマスコミを批判したところで、正直言ってとんだ茶番にしか思えない。
仮に担当している人が違うとしても、そんなこと見ている側には分からない。
まるで、右手と左手の先にそれぞれ口があって、お互いに悪口を言い合っているかのような。
結局、その手の所有者は同じ。
ただの責任の擦りつけにさえ思えてしまう。


現場では、どのような態勢が取られているのだろう。
各自の報道精神に基づいて動いているのかもしれないが、逆らえない上と下の関係や、企業利益というものも当然のように絡んでいるのだろう。
たとえ自分のところだけ相手の気持ちを慮って報道を取りやめたとしても、他がやっている限り状況は変わらない。
その上、自分だけやめると情報が入ってこない。
だからきっと、やめられない。
こういう現状を打破する方策も思い浮かばぬまま、マスコミ被害の深刻さについて訴えるのは同じ機能を持っているはずの、たまたまそれには関わっていないだけのマスコミ。
悪いのは誰か。
より多くの情報を求めようとする一般市民か。
ならば、私には文句を言うことができない。
それでも、言いたいことはたくさんある。
結局は、これが本音。
自分の中の矛盾に困って、言葉が出なかった。


色んな立場の人が、お互いに譲り合うことのできるラインはないのだろうか。
全く報道しない、というわけにはいかない。
しかし、遺族の気持ちを尊重しない報道には、大部分の人がうんざりしているはずだ。
それはひょっとしたら、同情というよりは自分の身に降りかかった際の不幸を想像しているだけなのかもしれないけれど、それでもとにかく、うんざりしている。
途切れ途切れ、言葉を搾り出しながらインタビューに答えていた父親は、どんな思いで取材を承諾したのだろう。
自分をさらに苦しめたマスコミが、「あのときは大変でしたね」と優しい言葉をかけてきたからではないだろうことは、少し考えただけでも分かるような気がする。
彼は、裁判における遺族の権利について、活動していると紹介されていた。
ならば、きっと彼は自分のような思いをする人が減ってくれるよう、そのための訴えとなるよう、未来を見据えて取引したのではないか。
想像にすぎないけれど、そんなことを考えた。


彼は、もうすぐ仮退所するかもしれない加害者に対する怒りよりも、もっと別の力で動いているように思えた。
そんな彼の強さが、逆に悲しさを胸に伝えてきた。
愛する人を失った空白を埋めるものなどないだろう。
彼は、何を思って話をしていたのか。
考えれば考えるほど、彼が語らなかった感情が、画面から溢れていたような気さえしてきた。
痛い。
私は、考えることを中断して部屋に戻った。
何かが響いてきたというわけでもなく、何だか心が重い。
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