Spilt Pieces
2003年05月18日(日)  車
車に乗っていると、意外に多くのことが分かる。
相手が全くの他人であるということ、相手の顔がはっきりとは見えないということを除けば、人間性を色んな面から見ることのできるあの小さな空間は、時に重苦しい何かまでを訴える。
世の中の常識を声高に語っていそうな人が、信号無視をする。
どこにでもいそうな平凡で善良な顔つきをした人が、割り込みをする。
怖そうな装飾をしている人が、道を譲ってくれる。
何が本当なのか、時折分からなくなる。
ただ、予想の範囲を出ないのではあるけれど、悪質なのは基本的に世渡りのうまい人なのだろうと思う。
こういう人たちと顔をつき合わせて日々出会っている警察というのも、なかなか大変な仕事なのだな、と考えてみたり。


私が住んでいる地域では、車の運転マナーが非常に悪い。
初めてここに越してきたときは、あまりのひどさにショックを受けて、学校で出た作文の宿題にこっぴどい批判を並び立てたものだった。
悪態をつきまくった文章だったのに、なぜか市の作文コンクールで入選した。
私は当時思春期で、今よりも随分と気が短かった。
適当な賞を見繕って訴えを軽んじられたと思い、苛立ちをさらにひどくしたのを覚えている。
今思えば、そんなことは元々そこに住んでいる人なら当然知っていることであり、それでもどうしようもないものを今さら訴えられたところで笑ってしまうようなことだったのだろう。
半ば諦めたかのように違反運転手を眺め、とりあえず自分は守っておこう程度の消極的な考えをしている自分は、血気盛んな当時からすればなかなか不満を持たれるものに違いない。
いつの間にかこんな日常に、慣れてしまった。


運転免許を取ったとき、周りの運転に合わせるようにと指示されて実行したら、余裕で70キロ以上出てしまい教官に怒られた。
渡ろうと思ったとき、いつも横断歩道の上に車があった中学校からの帰り。
絶対にあんな大人にはなるまいと誓ったのはいつのことか、ひどい運転をする友人がいても、それを指摘することさえしない。
「本人の問題だからね」
こんな言葉を吐く大人になりたかったわけじゃない。
しかし私は知っている。
「言っても仕方がない」


スーパーへ行くと、車椅子用の駐車場に停めている人の姿を多く見る。
怒りより悲しみより、諦めにも似た感情が胸のどこかをよぎっていく。
黄色の信号で止まれず、しまったと思っていたら後ろから3台来た。
直進車線が混んでいるとき、左折レーンから右にウィンカーを出して入ってくる人がいる。
道を譲りたくない。
しかし、ひどい人はクラクションを鳴らしながら当然のような顔で割り込みをする。
急いでいる風でさえない、それが日常の一部というような表情。
顔を、思わず見てしまう。
そのたび、見なければよかったとがっかりする。
それはごくごく普通の、周りにいそうな人である場合が多いから。


60キロ制限の道を、100キロくらいの速度で走る人などザラ。
逆に、制限速度以下でゆっくり走って、信号が変わる直前になると急に速度を上げて自分だけ進んでいくような人もいる。
前が詰まっていてどうしようもないというのに、軽自動車に大型トラックが幅寄せ。
自分が完璧に規則を守っているかと問われれば、正直私は自信がない。
それでも、マナーだけは守っているつもりでいた。
見も知らぬ他人ではあるけれど、相手に不快な思いをさせたくない、とだけは思う。
それなのに、それを自覚していない人が多い。
どうしていつも、こうなのだろう。
顔の見えない場所では、マナーというものは存在しないのだろうか。
いい人の方がたくさんのはずだけれど、ひどい人もそれなりの数いる。
そうでなければ、毎日車に乗るたびにがっかりなどしないはずだ。


海外では、どんなに人から怖がられるような職業の人であっても、障害者用の駐車場は空いていると聞いた。
それが本当かどうかは知らないけれど、とりあえず日本は違う。
普通の一般市民が、当たり前のようにマナーを守らない。
バックしている真後ろを平気で歩く人たち。
ハイビームのまま走り続ける人。
挙げていけばキリがないけれど、ともかく交通マナーに表れた人間性にうんざりしてしまう。
子どもが助手席で飛び跳ねるような車を見てはひやひやする。
私の頭が固いせいばかりだとは、思えない。
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