Spilt Pieces
2003年05月13日(火)  正義
13日〜16日は、日記をつけていなかった。
というわけで大きく日付が空いてしまったのだが、もったいないので何か思うことがあったときに書く欄にしてみようかと思った。
ちなみにこれを書いているのは、18日。


この前遠藤周作の「悲しみの歌」を読んだ。
読んだのは14日のことなので、何だか日付がややこしいけれど。
就職試験に行く途中、電車の中で読み始めた。
不覚にも、泣き出しそうになってしまった。


就職試験に行く途中に読んだ、と書いたが、その試験はとある新聞社のものだった。
あまりごちゃごちゃ考えるのも嫌だったので、一通りAERAを読んだ後、文庫へと移行したのだった。
登場人物は、中年の開業医とエセ文化人、ぐうたら学生、愛を与えてばかりの外国人、そして新聞記者。
なぜ新聞記者を最後に書いたかというと、先に書いた通り、私は新聞社の受験に行く途中だったからだ。
最初に結論を言うと、私はこの本を帰りに読めばよかったと思った。
行く途中に読んでしまったのは、失敗だった。
思惑とは逆に、考え込みすぎて作文が書けなくなったからだ。
私は、嬉しいのか悲しいのか、表面的な言葉を連ねて誤魔化すことなら多少はできる。
しかし、この本を読んだ直後の試験では、どんな上っ面の言葉も出てこなかった。
自分の中にある真実しか書けないと思った。
そしてその真実に、疑いが生じてしまっていた。


遠藤氏の描いた新聞記者は、記者の実態を知らない私なので何とも言いがたいが、それでも多少の誇張はされているのではないかと思った。
正義の御旗を掲げた彼の言葉は、きつすぎるし相手への愛情もない。
そして何より、自分の正義を相手に押し付けすぎている。
間違いだと本能的な部分では分かっているのかもしれないが、それを認めるだけの勇気もない。
だから遠藤氏が話の構成上脚色した部分があるのではないかと思ったし、思いたかった。
そう思っても、私は憮然とした表情でいたに違いない。
彼と同じような間違いを自分が犯したとして、私はそれに気付くことができるのだろうか。
自分は本の中に出てくる全体を見渡すことのできる立場にいるためあからさまなくらいに皆の感情がよく見えるが、そうではなくてもし記者の立場にいる人間だったとしたらどういう思いで老いた開業医を眺めたろう。
自分がそれだけの機微を備えた人物だとは思いがたい。


若い新聞記者は、他に拠るべきところがなかったのではないか。
「正義」という言葉でしか、自分の考えの基本を置くべき場所を見つけられなかったのではないか。
きっと、彼はこれからも同じ道を行くだろう。
間違いに気付くとしたなら、それはもっとずっと後のことに違いない。
優しく生きるとは何か、問われても私には分からない。
以前誰かに私は厭世感を持っていると指摘されたことがあるが、否定しがたい。
何となく、確実に悪い誰かがいるとは思えないものの、誰もがどこも悪くないとも思えない。
新聞記者は、悪い人ではない。
ただ、大切な何かをまだ得ていなくて、それに気付こうとしていないという点において悲しい人であると思う。
そして自分がそうならない保証などどこにあるというのだろう。


新聞社での試験、作文で挽回しようと思っていたのに全く駄目だった。
思わず、上に書いたようなもやもやを吐き出す場所としてしまった。
何を正義というのだろう。
正義という言葉が今の時代にふさわしくないのならば、他のどんな言葉でもいい。
ただ、自分の考え方が誰かを傷つけていると、それを分かっていないと、指摘するのはこんなにも容易なのにどうして自分のことになるとこうも分からないのだろう。
難しい。
そして私はそう言いながら、同じ世界に身を投じたがっている。
ふと、疑問が生じる。
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