2002年10月06日(日)  正義と悪と悲しき歴史。
たまには専門的なことも書こうと思う。
今日は精神医学の話とそれに伴う善と悪について。わかりやすく噛み砕いて。
 
善と悪について。
今僕たちが常識または当然と感じている「善」は、決して永久普遍ではない。逆もまた然り。
現在の悪は過去の悪ではない。
そして厄介なのは無自覚な悪の連続。常識という衣を被った善の連鎖。
 
精神病者は、その時代の善に、悪に、ただ振り回されるばかりだった。
決定を与えられず、意思を抜き取られ、権利を剥奪された。
 
例えが前時代的になってしまうけど、精神病者は
熱湯に長く浸かると完治すると言われ茹でタコのようになり、
前頭葉を切除すれば症状緩和すると言われ抽象的な考察が一生できなくなり、
薬物を服用すれば寛解すると言われジスキネジアやアカシジアという新たな副作用を生むなど
まさに時代の実験台として扱われてきた。
 
日本で行われた精神病者の私宅監置だって例外ではない。
あの時代で、あの状況で、あの理解力で“そうせざるを得なかったのだ”
 
そうせざるを得ない。
その苦肉の策が、善悪を乗り越え、その価値観は「時代背景」という逃げ道に安易に入り込み
その対象療法的な対策は、法という名のもとに“一般化”した。
 
1950年にフランスで誕生した薬物療法に対する大衆の楽観的幻想や
日本で起きた精神病者をより闇に追いこんでしまったライシャワー事件。
情動で走る世論が、市民が、大多数の「善」となり、精神病者を精神病院に閉じ込めた。
排他性という団体心理。排他するものは善で、排他されるものは悪。
大衆は善で、病者は悪。
僕はそれを批判するつもりはない。終わったものに対しては誰だって批判できるからだ。
 
ただ僕たちがこれから決して忘れてはならないことは、
現在の時点で最良と思われるあらゆる制度や政策にも
(これは精神保健福祉法以外にもいえることかもしれないけど)
いかなるものにも微量の――今は肉眼で発見できないかもしれないけど――
悪のエッセンスが配合されているということだ。
 
だから僕たちは常識という名の皮を被っている「善」に全て身を委ねることなく、
常に大いなる希望と、ひと欠片の猜疑心を持って考察していかなければならないと思う。

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