2002年02月09日(土)  風景を認識するとき。
道を歩くと、いろんな人にすれ違うけど、
果たして、この人たちは、僕とすれ違う人たちは、僕が見えているのだろうか。
僕はすれ違う人を見ているのだろうか。
 
例えば、今日スーパーのレジで僕の前に並んでいたおばさん。
このおばさんの人生に僕は存在しない。
例えば、仕事帰りのプールで隣のコースで泳いでいる女性。
この女性の人生に僕は登場しない。
 
僕はレジの後ろに並び、隣のコースで泳ぐ。
 
結局、人が人を認識できる範囲は限られているのだ。
僕達は僕達に少なからず関係がある人以外は認識できない。
 
スーパーのおばちゃんとスーパーの惣菜。
プールの女性とプールのシャワー。
僕の人生には、それは、たいして変わりないのだ。
認識しない限り、それは風景の一部としての存在になるのだ。
 
今まで認識さえしていなかった風景が、突如として、晴天の霹靂の如く、
僕の視界を支配する人物が登場したとすれば、
 
それは、理解を超え、常識を超え、奇跡を超え、必然を超え、
それは、天を裂き、陸を隔て、海を割り、谷を埋め、
 
スーパーのおばちゃんが微笑み、隣のコースの女性が囁きかける時、
 
僕は生きているという実感を、存在しているという意味を、透明さを否定する意思を、
そのほかのなんやかやを。
 
例えば、セロトニンが脳内への再取り込みを拒否したときに、
 
僕の視界が広がり、世界が広がる。生の意味を知り、死の不条理に嘆く。
 
 
(タバコの灰を落とす。――トントン) 
 
――そういうわけで、キミの存在は僕にとってかけがえのないものなんです。

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