2008年09月25日(木)  ロハス(LOHAS)より愛せるセコ(SECO)

SMAPのおっかけで京都から上京しているメグさんが昨日からわが家に宿泊中。宿賃代わりに家政婦を買って出て、食事を作ったり食器を洗ったり掃除をしたりしてくれている。その昔高級クラブでバニーガールをやりながら客の食べ残した皿をなめてソースの味を覚えたというメグさん。料理の腕前はそこらの名店に引けを取らず、自宅でときどき開くワンデーレストランでは味にうるさい食通京都人をうならせているとか。掃除のプロでもあり、メグさん襲来に備えて必死でわたしが片付けた台所を見て、「ひどいことになってますなー」。ヤシの実洗剤やらスポンジやらを買って来て、「こんだけ汚いと燃えるわあ」とゴシゴシやり始めた。ステンレスのシンクも重層と酢の手づくり洗剤で「ピカピカに磨き上げたるでー」と意気込む。

ダイニングキッチンはわたしの仕事場でもある。食卓でパソコンに向かっている2メートル先でメグさんが「なんやこれ?」「こんなもん使ってるんかいな」「ようこんなんでやっていけるわ」「どうしたらこんな汚れになるんや。信じられへん」「これ細菌やん.食中毒菌やで」「目的地にたどり着くまでが大変やな。チョモランマや」などと反応するたび、「しょうがないでしょ」「いいから、置いといて」「すみません」などと反抗していると、仕事はまるではかどらない。何を言われてもしょうがない惨状を招いたこちらの落ち度はあるのだけど、押さえ込まれると面白くない。汚くて散らかっていて探しものが見つからない台所を「わたしはこれが使いやすいの!」と意地を張り、余計に疲れる。ありがたいけど、ほっといて。この感覚、どこかで……とデジャブを覚えたら、ダンナ母がうちの台所に立ったときの,手と同じぐらいよく回る毒舌に当てられたときのあの感じ。13才年上のメグさんとは、わたしが大学生の頃から二十年近いつきあいになるが、いつまで経っても追いつけない手強い姑のような存在。チクチク、グサグサと引き換えに台所はくすみが晴れたようにピカピカに磨き上げられ、ガンコな茶渋もすっきり。圧力鍋に顔が映り込んだのにはたまげ、かないませんなあと白旗上げて降参した。

メグさんにはゴミ出しについても厳重注意を受け、「ここに置いてあるフタは何の意味があるん?」「捨てるんかとっとくんかどっちや!」などと突きつけられること数十回。「もったいなくて、物を使い切らないとなかなか捨てられない」と言い訳すると、「それはわかる。私もロハスな人間やから」と珍しく同意された。「そのロハスって言葉、わたしダメなんだけど」と言い返すと、「私も別に好きちゃうで」とあっさり意見が一致。ロハスという言葉が出回った頃からなんだか違和感を覚えていたのだけど、何がイヤなのかいまだにはっきり特定できていなかったわたしは、「ロハスっちゅう言葉は、なんかかゆい」というメグさんの台詞に「それや!」と飛びついた。物を無駄にしないとか、自然を愛するとか、ゆったり生きるとか、その精神には共感するのだけど、さりげなく日々の生活に取り入れていることの頭文字をつなげて「ロハス(Lifestyle of Health and Sustainability)」なんてもったいぶった名前をつけることにムズムズする。企業が「ロハス宣言」したりデパートが「ロハス展」をしたり、商業のにおいが強くなるほど、野にひっそり咲く花を額縁に飾って展覧会に押し上げてありがたがっているような不自然さを感じてしまうのだった。

「エコって言われても抵抗感じないのに、なんでだろね」とわたしが言うと、「森永なんとかっちゅう経済学者(たぶん森永卓郎?)がセコって言うてたけど、私はそれやな」とメグさん。セコいとエコをかけて、セコ(SECO)!? この言葉は、なぜか愛せる。わたしもその一員のつもりなのだけど、捨てられないものがあふれ返るだけで、「環境にええていうても、カビ生やしたら健康に悪いし」「中途半端がいっちゃんタチ悪い」とメグさんにしかられている身では、エコの部分が抜け落ちた「セコいだけのセコ」のよう。

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