2008年09月24日(水)  トマトジュースのレシピで泣かせる『味覚日乗』

「トマトジュースのレシピで読者を泣かせてしまう」。先日読んだフリーアナウンサーの堤幸子さんの本(『堤信子の暮らしがはずむちょっといい話 主婦アナのマルトク生活情報ブック』)で紹介されていた『味覚日乗』に心惹かれ、手に取った。

「かまくら春秋」という月刊誌に9年にわたって連載されたエッセイをまとめたもの。読んで、たまげた。日々の何気ない暮らしの営みを綴った文章が、どうしてこうも格調高いのか。「桜は、なんと光の似合う花でしょう」。凛とした口調に、こちらの背筋も伸びる。栽培大豆の歴史を語り、「人類は、努力家揃いですね」。料理の工夫を述べて、「頭は生きてるうちに使います」。「塩とは、なんとすばらしい物質でしょう」などという表現に、台所にあるものが、そこで営まれる家事という行為が、崇高なものに見えてくる。摘み草をする効能については、「つまり風土そのものを味わうのです。なんという印象的な一体感でしょう。風土の生理と人間の生理は、実は一つなのですし……。教育的意義に就いては、一生の幸・不幸を支配するほどの深意がひそんでいたと思います」。

「『雛祭り』それは心のふかみに、ぼんぼりで照らし出されるように、私を慈しんでくださった人々の顔がよみがえる旬日です」ではじまる雛祭りの思い出の美しいこと。「自分によきことを願う、大人達の心を子供が感じとらぬはずがあるでしょうか」と言われれば、親への感謝と子への慈しみが同時に沸き起こり、「当節“面倒くさい病”が蔓延し、重症者も見かけます。(中略)年中行事を商売の色にこれ以上染めず、私共の手許へかえしたほうがよいのではないでしょうか。かたちから入って、こころをとりもどす方法もあるのです」の提案に激しく膝を打つ。

そして、待っていました、トマト・ジュースの作り方は、「手づくりのすすめ」と題したエッセイの中にあった。「思うに、夫婦別れを胸に、梅干しを漬け、塩昆布を炊き、らっきょうを漬ける光景を見たことはなく、夫婦喧嘩の翌日炊きましたという煮豆を食べたこともなく、冷えた心で肴の煮干しを吊るす人を見たことがありません」「日常茶飯の手業の背景は、推測以上に心の深淵に属し、投影そのものと思います」「深淵にたたえられていたものへの敬意と感謝をなおざりにしていた長い歴史が、こと、ここに至って、あってあたり前とされてきた女の水源を枯渇させているのではないでしょうか」とたたみかける三つの文は、随筆を超えて、もはや哲学の領域。

夫婦喧嘩した直後に背中を向け合って梅酒を漬けた身としては肩身が狭い思いをしつつも、梅酒を漬けている間に平常心と日常を取り戻したことも思い出し、「深淵か」としみじみとなる。そして、このトマト・ジュースの随筆の締めくくりの一文は、「人が愛ゆえに、作ったり、食べさせてもらったりする日々。過ぎてしまえばなんと短いことでしょう」。これはもう手抜き主婦のわたしでもぐぐっとこみ上げるものがある。一食でも多く家族に手料理を食べさせたい、しかも喜んで。そんなやる気を起こさせてしまう威力のある、すごい殺し文句。

巻末の藤田千恵子さんの解説に「トマトジュースのレシピで読者を泣かせてしまうのは、古今東西の料理研究家では髄一、辰巳先生だけなのではあるまいか」とあり、堤信子さんの紹介文の出典を知る。著者が母であり料理研究家である辰巳浜子さんから「家庭料理を作り続けることは、単なるルーティンではなく、愛情という礎の上で行われる、『たゆまぬ努力』だ」ということを受け継いだ、と語るこの解説もすばらしい。「葉も皮も、才覚で美味に使って」大根を一本食べきる話が本文に出て来たが、野菜をおいしく食べ切るように、解説の最後の一行まで味わい尽くせた。

あとがきによると、『味覚日乗』というタイトルは、かまくら春秋社の伊藤玄二郎さんがつけたという。「日乗とは、平凡気な日常を書き重ねるという意味」というが、主婦業そのものが「味覚」を「日乗」することだなあと感じ入った。一食を重ね、日を重ね、月を重ね、季節を重ね、年を重ねる。消耗されるのではなく蓄積される響きがある「乗」という漢字に、労われる思いがする。

97年にかまくら春秋社より刊行され、2002年にちくま文庫となり、わたしが手に取ったものは2005年の6刷版。今でも版を重ねているのではないだろうか。解説にもあるけれど、「今日もちゃんと台所に立とう」という気持ちをこれほど奮い立たせてくれる本を他に知らない。

2005年09月24日(土)  DVDプレーヤーがやってきた
2002年09月24日(火)  アメリカ土産の「Targetスーパー」のカード
2001年09月24日(月)  『パコダテ人』ロケ2 キーワード:対決 

<<<前の日記  次の日記>>>