2007年08月13日(月)  『絶後の記録』映画化めざして来日

2002年8月6日の日記に『絶後の記録』のことを書いた。原爆投下後、GHQの検閲を受けて最初に刊行されたこの体験記の著者である小倉豊文氏は『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』などの著書もある人文学者で、宮沢賢治研究が縁でダンナ父と知り合い、親交を深めていた。そんなわけで、小倉氏の「恵存」のサインの入った文庫をダンナ父にすすめられ、読んだのだった。

原爆で愛する妻に死なれた小倉氏が妻に語りかける形で、原爆投下後の日々を綴る。手記というよりラブレターであり、やさしくあたたかい言葉の中に凝縮された激しい感情に心を揺さぶられる。読み終えたとき、こんなに美しく悲しい話は知らない、と思った。強く打たれた。

なのに、当時すでに脚本家としてデビューしていたわたしは、これを映画やドラマにしたいとは思わなかった。ちらりと脳裏をよぎりもしなかった。「何かいい原作はありませんか」といろんなプロデューサーに声をかけられるようになってからも、可能性を検討することさえしなかった。書かれている真実の重みにひれ伏し、書かれている以上のものを映像で見せるだけの予算も腕もない、と逃げ腰だった。それ以上に、これを何とかして世の中の人に知らしめなくては、という使命感に欠けていた。

本を読んだとき、原爆の記憶を風化させてはならない、せめて8月には思い出す時間を持とう、と誓いを新たにしたものの、それから5年間、『絶後の記録』は閉じたままだった。再びページを開くことになったのは、この本を映画化したい、という人が現れ、小倉氏の長女である三浦和子さんがダンナ父に相談し、「映画のことなら雅子に」というわけでわたしが和子さんに代わって連絡係を務めることになったからだった。

UCLAで映画製作を学び、ロサンゼルスで映画製作に携わっているKinga Dobos(キンガ・ドボッシュ)さんという女性からの手紙を、共通の方から英語を教わったという静岡に住む岡田学而さんが日本語に訳されたものを、和子さんから預かって読んだのが6月のこと。岡田さんが添えた挨拶の冒頭には「ようやく桜の花も咲きはじめてまいりました」とあり、春をまるまる待たせてしまったことを知る。キンガさんの手紙を読んで、さらに焦った。「こんなすばらしい、熱のこもった手紙は、なかなかありません。一日も早くお返事すべきです」とすぐさま和子さんに電話した。

恩師から『絶後の記録』の英語版(Letters from the End of the World)をすすめられて読んだキンガさんは、原爆投下に翻弄されて引き裂かれた小倉さんの家族に自身の体験を重ねた。祖国ルーマニアからパスポートを持たずに逃れた両親を追って一年後にハンガリーに移り住んだのが14才のとき。この辛い経験から「苦労が人間を強くする」「自分の運命を選ぶことはできないが、もって生まれた才能や個性や度努力が非常な困難をも乗り越えさせてくれる」と悟るなかで、「いつか芸術で自分を表現していこう」と思うようになった。高校を卒業後、ロンドンで住み込み家事をしながら夜間学校で英語を学び、映画製作の夢を実現するために渡米してからは七年もの間家族と会わずに勉学に励んだ。そうして叶えた夢は、自分の興味と熱意だけで勝ち取ったものではなく、出会った多くの人たちの支えがあってこそ……。手紙は映画化権の許諾を依頼するものだったが、そのためにはまず自分を知って欲しい、という熱意がまっすぐに伝わってきて、彼女と『絶後の記録』のめぐり合わせを祝福したい気持ちになった。

和子さんから岡田さんに一報入れたのと相前後して、わたしと岡田さんも連絡を取り合うようになった。ちょうど8月の原爆の日をめざしてキンガさんが来日されるということで、キンガさんとは初対面の岡田さんが10日余りの旅程を同行するという。毎年5日に広島平和記念公園で夜を明かし、翌日の記念式典を見届けて0泊2日で東京に戻られるという和子さんとキンガさん岡田さんがまず広島で会うことになった。キンガさんが和子さんの話に耳を傾け、長い夜を共にした模様は、中國新聞でも紹介された。

そして今日、東京のわが家にキンガさんと岡田さん、和子さんとお嬢さんが集まった。ダンナ両親と仕事から戻ったダンナも加わり、大人8人と赤ちゃん一人のにぎやかな夕食。映画化については和子さんは「作品が知られるきっかけになるのはうれしいが、顔を見てからでないと」と話されていたが、広島で夜を徹して言葉を交わし、この人ならば、と安心されたよう。小倉氏も写っている戦前からの家族アルバムや疎開先につけていた日記など貴重な資料をどっさり持ち込まれた。キンガさんは熱心にメモを取りながら質問を繰り返し、和子さんのアルバムをビデオに撮り、用意した食事に手をつける暇もない忙しさだった。

「『夕凪の街 桜の国』を広島で観たときも終始ペンを走らせていたんですよ」。そう感心する岡田さんの熱心さにも、圧倒された。「こういう映画がちょうど公開中ですよ」とわたしがタイトルを伝えた作品をキンガさんが来日中に観られるように調べたり都合つけたりされたのだろう。キンガさんの手紙を訳して以来、すでに数十冊の原爆関係の本を読まれたのだという。「黙祷しながら聞いた8時15分の鐘の音は忘れられないものになりそうです」「平和公園を歩いたのは二度目ですが、小倉先生の言われた『広島ではどこを歩いても遺骨の上を歩いている』の言葉を思うと、そこは一度目とは違った場所のようでした」と仰る言葉にも重みと深みが感じられた。

岡田さんとわたしが補いあいながら通訳を務めたのだけど、岡田さんの語彙の豊かさ、訳の的確さにも感心した。わたしの英語はずいぶんさびついていて、日本語にしたら数語のことがまわりくどい表現になってしまった。「大空襲」「疎開」などという使い慣れない言葉にたじたじとなっていると、察しのいいキンガさんが「Fire attack?」「Evacuate?」と汲み取ってくれた。「被爆者って何て言うんでしょう?」と岡田さんに聞いたら、「Hibakusya?」。「ヒバクシャ」はそのままで通じてしまうんだ、と複雑な気持ちになった。

これからキンガさんが脚本を書き上げ、出資者を募っていく。実現する目処が立つまではまだ遠い道のりだし、どんな規模で作れるのか、予想もつかない。「原作に忠実でありたい」とキンガさんは繰り返していた。当時の模様を再現するには莫大な予算が必要となるが、原作を尊重する気持ちがあれば、原作に込められた思いは映像に刻まれると思う。手紙からイメージした通りの、真っ直ぐさとしなやかさ、たくましさとかわいらしさを持ち合わせた愛すべき人、キンガさん。異国での孤独に耐えて映画製作者になる夢をかなえた彼女なら、どんなに道は険しくても、惚れ込んだ原作を映画化してしまうのではないか。わたしも、岡田さんに続いて彼女の熱意に巻き込まれた一人として、応援していきたいと思う。

「紙の墓」と題した小倉豊文氏の詩がある。「亡き妻に」と副題があり、妻にあてた手紙を本にした気持ちが綴られている。ノーモアヒロシマズの祈りが出版に駆り立てたのだが、印税を受け取ることに葛藤した。悩んだ末、印税をみんなに使ってもらおうと決心がついた……と語りかける長い詩は、

 お前のお墓を建てるのも
 しばらくみんなおあづけだ
 本をお墓と思つてくれ

 地上の
 つめたい一つの一つの墓石より
 も無方にちらばる
 無数の紙の墓の方が
 お前もやつぱりいいだらう
 第一、
 軽くていいだらう

と結ばれている。この「紙の墓」を広めることが、映画化への後押しになればと願う。『絶後の記録―広島原子爆弾の手記』は最初の刊行から半世紀余りを経た2001年8月に中公文庫BIBLIO20世紀から改版が出ている。

2005年08月13日(土)  西村由紀江さんの『ふんわりぴあの vol.7』

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