度々旅
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2002年09月18日(水) 本当はわからない

 ええと。昨日の日記は、今読んでみると少し誤解を生むような形の文章ではなかったかと、反省しているのであります。これも私の文章力のなさであり、それプラス今回のことで、私なりの見解というものがはっきり見出せずにいるというところに理由があります。

 決して、拉致問題が国家の犠牲として、公の犠牲としてとらえるべきだと申したわけではありません。

 あの場での公とは「和」の実現へと向けられるであろう視点として用いていました。昨日も言いましたように、「私」を捨てるは国家に従順であれということではなく、互いを考えよ、互いを考慮せよということでして、和から出発して考えていたのであります。となると、延長線上に国と国の和を実現するという「公」もあるのではないかと思いました。その方向へ向かうために、交渉再開は評価できるのではないかと思ったしだいです。

 今、学校では子供を叩くことが禁止されていますが、果たしてそれで教室という小さな社会は成り立っていくのでしょうか。言葉や意思が通じるようになるのは、人でも国家でも同じスタンス同じ秩序感がある場合です。子供に、社会的秩序を教える段階で、大人の秩序を最初から適用し、暴力はいけない、だから叩かないというのは、少し無理があると思います。力を使わないというのは、理想論であって、現実的ではないと思うのです。

 でも、今までかたくなに門を閉ざしていた国が、直接的な力を用いる前にどういう理由にせよ門を開いた。門が開いたならば、そこへ日本は入り込み、同じスタンスを持つことが出来る国、客観的とまでいいませんが、自国のことだけではなく、せめてアジア全体のことを考えられる国になることを希望するわけです。

 となると、やっと門を開いた国を、自国を守る視点だけではなく、周囲に目を向ける視点「公」の視点を交渉によってもたらすことをすることが、これから出来るのではないかと。そう思ったのであります。

 あの国が、そういう視点を持たない限り、拉致問題に対しても真実が語られずになってしまうのではないかと。そういう気持ちであったのです。交渉に期待するというのは楽観的かもしれません。でも、出来る限り力を使わずにこれから歩んでいきたい。そう思うのです。そのために、開いた門を閉ざしてはならないと。

 と長々と書きましたが、私が今思っているところは、少しでも開いた門を開け続けようとした。それは評価したい。そこだけがはっきりしているのであって、今後どのようにしていくべきなのかは、お恥ずかしいことにはっきり言えないのが現状です。先に国交を結んだ南と日本の関係。その他、日本と中国。現状を考えれば考える程、根っこが深くなっていって、どうしようもない。国がもともと持つ民族性まで考えだす始末で、合理的な考察な苦手な私としては、国同士の関係の理由を探しても、解決法を偏っているにせよはっきり示せないという状態です。わからないのに、こんなことを書いてしまうことに対しても反省ですが。昨日の文章を無責任に投げ出したくなかったので。
 


こげんき |MAILBBS

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