度々旅
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ええと。非常にショックでした。北朝鮮問題。世論は今回の件に関して厳しいとマスコミで言っております。ということなので、世論を調べるべくいろいろな人の日記や掲示板を見てみたりしました。その結果、世論は厳しいが、私の個人の意見ではよくやったと思うというものが多かったであります。そして、私個人的にもその感想であります。
首相は他に方法があったのでしょうか。私にはわかりません。首相は「公」であって、「私」ではありません。やはり「公」として彼は決断したのだと思います。「私」が「公」をつくるのでしょうか、それとも「公」という前提で「私」は生きているのでしょうか。難しいところです。横田さんのお母様の言葉にその両極面が非常に現れていたと思います。
もちろん遺族の方の思いを考えると、国交正常化交渉の開始があまりにも早急で、納得できないというのもわかります。自分が遺族だったら、戦争だ野郎くらい言ったと思います。たぶん。
聖徳太子は十七条憲法において、国家の理想の原理として「和」を置きました。その和の原理と議論の仕方を結び付け、客観的な理に達する道として衆論を重んじています。それは、衆論が多数意見であるからではなく、人々が私を離れ、平らな気持ちで物事を考えたならば、衆論がおのずから理に向かうであろうということです。ここでいう平らとは、民、臣が私をなくし、公を念頭に事を考えることだと思います。また、私をなくすとは、決して公(国家)に従順になれということでなく、よこしまな気持ちをなくせということであります。 この憲法は道徳的訓戒に近いものであるので、罰則を要求するものでもなく、中央集権的国家の成立の準備であり、公共的生活を行う上での人の道、国家に関する限りの人の道を説いたものであります。
さて、ここでです。かつては、君(天皇)=国家=公であったわけであります。それは、天皇の神聖性によって保たれてもおりました。よって、詔に対しては臣、民は必ずそれを承らなければなりませんでした。私見ですが、臣、民は和によって客観的な理に辿り着き、国家を築いていくわけで、神聖性を保つ君が発する言葉は、宗教家が発する言葉のように何も語らぬ語りであったのではないでしょうか。
現在の日本においてその図は成り立っていません。しかし首相という存在があります。首相は君ではありません。首相は神聖性も持ち合わせておりません。となるとです、彼の行動はどこにあるのかと。民意を反映した「公」なのか、彼独自が考える「公」なのか。そして、国民全体が「公」に関する人の道というものを考えているのかと。
少し、アナクロな「私」と「公」を持ち出してしまいました。というのも、今までの半島と日本の関係も考えていたら、なんだか私の中で今日のことがよくわからんのです。そして、国家とか国と国ということもよくわからんのです。ただ、やっぱり、首相は「公」としては評価できる行動、決断をしたのではないでしょうか。と。
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