un capodoglio d'avorio
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2003年03月27日(木) 青年団「忠臣蔵OL編」


@駒場アゴラ、16時からの公演、上演時間短くて50分ほど、でもチケ代は映画くらい。


←駒場アゴラ劇場への道。滋味溢れてイイ感じ。こんな下町に、世界最先端の演劇表現が具現化されてるんだから・・・おそるべし。


そんなに期待はしていなかった。青年団の本公演ではなくて、プロジェクト公演ということだったし、時間短いし、まあパロディなんだろうなあってゆうのはタイトルで明らかで、フフッと笑えて楽しいかなーって。・・・甘かった。面白すぎ。50分間、ずーっと笑いっぱなしだった気が。クスクスクスクス、止まらない。


どこまで「忠臣蔵」を解体してくるかなあっていうのがまず興味あって。例によって開演前から舞台にたたずむ役者はOLの制服を着ている。「ああ、やっぱりね」と一人ごちるけど待てよ、彼女が座ってる椅子にかかってるのは、プラスチック製のおもちゃの刀。そうこうしてる内にOLが1人増え2人増え「お家断絶」だの「おとりこわし」だの「吉良が」だの「大石様だの」会話の中に挿入される、お約束ワード。

ビックリしたことに、背景は十全に「忠臣蔵」だった。ちゃんと「忠臣蔵」で、で、お殿様が吉良に斬りかかってしまい、それで切腹させられて、でも吉良にはおとがめなしで、ああ私たちこれからどうすればいいのーっていう赤穂藩士、ではなく、赤穂カンパニーのOLたちの昼下がり。そうこうしてると「ご家老」大石サンが登場。めいめい昼食をとりながら、ゆるーく、ミーティングが始まる。「私は籠城したいっ」とか「いや仇討ちおぉ」とか「でもやっぱり仕官もしたいしぃ」とか「じゃああなた、切腹したらどうなのよぉ」とか。もう、楽しくって仕方ない。どか、ズーッと笑ってた気がする。

かつての赤穂浪士を、そのまま保存するのではなく、赤穂浪士のかつての「とまどいや憤り、切なさ」自体を丁寧に抽出して、その「メディア」を浪士からOLに換装して再現してみせる。オリザの才能は、その<本質の抽出>と<メディアの換装>の的確に他ならない。そして<本質>が捉えられている限り、表現は浅薄陳腐に堕すことは決して無く、どれだけパロディに笑わされようとも、閉幕後のあとを引く「化学反応」はじわじわ、観客1人1人のなかで進行してくの。

「ご家老」大石サンのキャラクター設定が秀逸。あらかたOLが部屋に集まってめいめい言いたいこという中で大石サンは登場する。強力なリーダシップを発揮するんかしら、やっぱり。って思ってたら逆で、腕押しのれんな味わいのへなへな具合。「はあ」「そうねえ」「ま、そこを、これからみなさんで、話し合って、ね?」って感じで。楽しくって仕方ない。「それが武士道ってもんでしょお」と田中サンが言えば、「ほら、武士道を問題にし出すと、もう、わけわかんないから、ね?」とやんわり大石サン。ラヴー。で、まあ大石サンは初めから真っ直ぐ「論理的」に話を進めるのは、無理だって、じつは悟っていたというのが最後のセリフで分かるんだけど。

とにかく、はたから見ててみんな議論・対話がヘタクソで、でも、ああ、自分もかつて、こんなだったよなあってしんみり思ったり。それでね、大石サンが最後、ぐるぐる回っていた場の流れを、なんとなーく、やんわーり、まとめてくのね。とっても日本人的に「じゃあ、そんな感じですか、ね?」って。


  もう関ヶ原から100年以上経ってるのよ、
  みんな「武士道」なんて生まれたときから押しつけられたけど、
  それ、なんだか、もう、訳わかんないじゃない。


とか、

  
  仕官の道に進むのも良し。
  とちゅうで脱落してしまうのも良し。
  その時点で残っている人だけで仇討ちに行きましょうよ。


とか、なぜだかフフっと笑ってしんみりジーンなせりふたくさん。

他人と分かり合えて100%シンクロしていくことなんて、ハナから無理なのよ。って言葉で言うのは簡単だし文字に書くのも簡単だけど、その言葉や文字からこぼれ落ちていく「切なさ」だとか「悲しさ」だとかを、演劇という表現手段はかろうじて掬うことができる。とくに「武士道」のクダリはとても意味深長だなあって。江戸時代から、日本人はなにも、成長してない、変わらない。だからOLが話していても、リアリティがあるんだわここに。って。

日本人のコミュニケーション能力の低さが、石原「三国発言」慎太郎を生み、小泉「米国大使」純一郎を生んだ。強権発動をリーダシップと誤解しているディクテイターは、あのOLたちが見せたミーティングの緩さ具合から発生した鬼っ子だ。論理的に話すことを辞めたデマゴーグ。ただ論理的に話し続けるコメンテーター。日本人はその合間でキョドってしまって、自分のあり方を決められない。でも、じゃあどーすればいーのか。オリザは、方向を指し示さない。希望も提示しない。オリザはただ、そのキョドった自分たちの姿をわかりやすく、見せてくれるだけ。ただ面白く、ただ切なく。そこで笑って、そこで泣くところからしか、始められないでしょっていう、上目遣いの独り言。薄目で自分たちを見ることを、みんな、して見ようよ、まずは駒場アゴラに行くべし。いま、このたった今の日本の絶望の縮図を、きれいで楽しい寓話にしてくれてるんだからさー。

・・・他人と分かり合うのが不可能だと知ってから、じゃあ、何をすればいいのでしょう。芝居最後の場面、基本路線は<仇討ち→切腹>で、と決めた後の「ご家老」のセリフ。テキスト手元にないから、ごめんなさい、正確じゃないけど。


  いきなりお家断絶とか・・・もう訳分からないじゃない。
  そもそも武士道とか、なんで私たちがここにいるのか、
  そんなことから、もう、分からないじゃない。
  だからさ、もう、運命としてさ、
  なんとなく、やってくしかないでしょ。
  

どか、最後にきて、半泣き。また、やられた・・・。さんざん笑わされて、最後にほろり。切ないぞ、オリザ。このときの大石サンの表情。素晴らしかった。哲学者の論文や作家の著作が及ばない、総合芸術としての演劇の凄み。そう。私たちは、こんなにも情けなく意気地がなくだらしがなく節操もなくてはかないんだけど、こんなに哀しくて切なくて、優しく、なれる。


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