あたろーの日記
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「本物」と「成功」という言葉の意味がよく分からない。 最近このふたつの言葉がやけに流行っているようなんだけれど。 「本物」は主に商品とか、モノに対して。「成功」は・・・先日とある店の店主のおばちゃんが「あたしはこの目で成功する男を見分けられる。くだらない男連れてる客にはあんな男と早く別れちまいなって言ってやるんだ」と豪語してた、そんなような使い方でよく登場(その店にはもう行きません)。 お店で本物志向、という言葉を耳にすると、押しつけがましさを感じてしまう。なんでだろ。 なんでかなあとずっと考えていた。本物があるからには偽物、本物でない物もあるわけで、ある集団の中から本物を選び取ったらあとは本物でない物達が残るわけで、そういう1点至上主義的なところがなんとなく好きになれない。生産に従事しない人間が、生産された物に対して本物とかそうでないといった評価を下してレッテルを貼ることに対しても不快感がある。 最近は雑誌でも、ショッピングのカタログでも、デパートでも、「本物」という言葉があふれていて、「本物の・・・」とつけば安心して買ってしまう消費者の心理をよくついているような気が。。。 誰にとっても同じ価値基準があるわけではないのに、「本物」とか「逸品」といった類の言葉で半ば強制的に共通する価値を決められてしまうのは、その物にとっても、他人にとっても迷惑。でも、今は何故か「本物」流行りで、「本物」とさえつけば、皆安心してしまう。 「本物」しか買わない、使わない、「本物」だけに囲まれて暮らしたい、という人もいる。それが、その人にとっての「本物」ならばそれでいいと思う。でも、その「本物」はその人が決めた「本物」ではなく、他人が貼り付けた「本物」札のついた品物だったら、滑稽だ、と思う。 無農薬で作られた野菜が「本物野菜」で、農薬を普通に使った他の野菜と区別されて売られていた。私から見たら野菜はどれも野菜で、本物もなにもあったもんじゃない。私もスーパーでは減農薬や無農薬で作られた野菜を中心に買うけれど、それが「本物」だから買うんじゃなくて、体のことを考えてと、味がいいから買うだけだ。 本物の器とか、本物の酒、というものも私の部屋にはない。私にとって良いもの、大切にしたいもの、作った人の顔が見えるもの、手の技が感じられるもの。そういうものを大事に使っていきたいと思う。でも、「本物の」と世間で評価されたものが果たして自分にとってよいもの、魅力的なものかは分からない。 「成功」という言葉もしかり、で、何が「成功」で何が成功じゃないのかなんて、当人でなければ分からないもんなんだから、他人を評価してあの人は成功した、しないとか、成功する奴だなんて言うのはまったくのナンセンスだと思う。成功の人生か失敗の人生かじゃなくて、その人が自分の人生について、毎日の暮らしについて、ほかのいろんなことについて、どんな思いを重ねて生きてきたか、ただそれだけが人生であるし、本人が最後に満足しながらあの世に往生していくのであれば、他人から見てどんなに貧しくどんなに孤独に見える暮らしでも、それで十分いとおしむべき人生だと思う。
「本物」も「成功」も、本来なら個人個人がどう思うかをそれぞれの内面に照らし合わせて判断すべき対象を、いとも簡単に、半ば暴力的に、絶対的な基準の下に置いてしまうという、いわば手抜き用の用語で、枕詞にそれさえくっついていれば安心してしまう側の安易さが怖い。 「本物」や「成功」からのあぶれものの中にも、光を放つものは沢山あるはず。 自分にしか分からない、それで十分だとも思う。
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