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2003年02月19日(水) 何となく御影から魚崎へと歩いてみる

ふと、どこかの街を歩きたくなった。
日常生活に組み込まれている場所なら近距離でもクルマやバスを使うのに(だから0.1tの体重が維持され続けるんだろうな...)、見知らぬ場所だと何キロも平気でテクテク歩くのは自分でも不思議だが、時々そういう衝動に駆られる。ひとくちに近畿といっても風景は場所によって物凄く異なる。それを再認識しつつ自分の知らない土地を歩くということで非日常的な空間を体験しようとそういう欲求が起こっているのかも知れない。まあお金も時間もかけずに脳内では旅行気分を味わえるんだから得な性分ではある。1月17日に色々と書いておきながら、長らく被災地域に足を向けていないので、今日は東灘区を中心に回ってみようと思う。頭の中で大雑把にルートを描きつつ、出発。

都島から市バスで梅田に向かう。よくよく考えれば、キタに行くのもえらく久しぶりだ。地下鉄各線と接続が良く目的地にスムーズに行ける一方で梅田には直結していない、おけいはんユーザーの悲しいところである。20分ばかり揺られながら扇町、太融寺、曾根崎と移り変わっていく車窓を見ていると、本当に大阪駅近辺ってのはゴミゴミしてるなぁ、と思う。ぐちゃぐちゃな街を大勢の人がうじゃうじゃしているから余計にその思いが強くなる。これが西日本の中心地かぁ、と思うと悲しくなってくる。西梅田やヤード跡の再開発が進んでも、この何となくくすんだ雰囲気は恐らく変わらないだろう。ちょろっとヨ○バシをひやかして、阪急線のターミナルに向かう。

劇画タッチで本気なのかウケ狙いなのか判断に苦しむ春闘の看板がかかっていた岡本で普通電車に乗り換えて一駅、13時16分に阪急御影の改札を出る。駅前はまっさらだった。初めて降りた駅だが、8年前の惨状が容易に想像できる。そういえば、当時この御影から西宮方面は長らく不通になっていた。あのときテレビは長田区の様子ばかり報道していたが、この東灘区もそれと同等以上の被害を受けている。こじんまりした駅前を抜けて線路沿いに歩くと、築百年はいってそうな立派な木造家屋の隣に新築住宅が並んでいた。綺麗に舗装された参道らしき小道を歩いていくと真新しそうなお宮さんが見えてきた。弓弦羽(ゆずるは)神社と記されている。後でこちらのサイトを見ると、やはり相当な被害を受けたようだ。本殿以外は殆ど壊滅状態の写真が掲載されている。しかし、神社の横を通った際には全く気付かなかった(後から考えてみれば、由緒ありそうな名前や参道の入り口にある鳥居と真新しさの残る造りのアンバランスさに気付くべきだった)。8年という歳月の重みを感じる。この8年間で神社一帯は再建され、動きだし、それが日常として定着している。初めて訪れたよそ者にはそれが当たり前の光景に見えてしまう。でも、小綺麗な社や参道は逆にその新しさによってそこが激震地であった事を物語っていた。この近辺でも百人単位の人が亡くなられている。

香雪美術館を左に見やりながら緩やかな坂道を下っていくと駐車場がやたらと目につく。「カーポート空き有り」と書かれた小ぶりな看板が目立つ場所に掲げられている。このカーポートという表現は神戸では主流なんだろうか。以後、月極駐車場の横を通るたびに看板を確認してみたら、このカーポートと関西で一般的なモータープールがほぼ半々だった。この辺りで弓弦羽神社の参道は終わる。暫く歩道横に小さなせせらぎが流れる山手幹線を東に進み、雨ノ神公園と表記された中規模の公園から再び南下。地名は御影町郡家から住吉本町に変わっている。暫く静かな住宅地をジグザグに歩く。表札と基礎だけが残った屋敷跡が印象的だった。ただの建て替え途中なのか、瓦礫を撤去して以後放置されているのか判断できないが、コンクリに囲まれた土の上に広がる雑草が何とも言えない寂しさを演出する。やがて有馬道商店街にぶつかる。長田近辺を歩くと本当に人が少なくて街全体が死んでいるかの様な雰囲気だが、こちらは実に活気がある。JR住吉のガードをくぐり、本住吉神社を右に眺めつつR2を渡る。「西国街道」と書かれた石碑がでーんと置かれている。

地名は住吉宮町に変わった。ここもよその多くの宮町と同じく、現在ではただ住宅が建ち並ぶだけの古い街である。別に、震災の傷跡を辿りに行こう、あの惨劇を追体験しよう、というつもりで来た訳ではないが、色褪せたバス道を歩いていると、何ら変哲のないその辺の寂れた町中を移動しているのと大して変わらない。数年前には仮設住宅が置かれていた住吉公園も、現在では近隣の人々がテニスやサッカーを楽しんでいる。すっかり元の「普通の」状態に戻った訳だが、この辺りから屋根に瓦のない新しい家がちらほらと点在しだす様になり、やがて増えてきた。それにしてもこの一帯はその歴史の古さ故か路地の幅が極端に細い。その細い路地を挟んで古い家屋や最近建てられた小さな三階建て住居が密集している。どこかで出火すれば瞬く間に大火災になりそうな地域である。震災の災禍を免れた人からすれば立ち退き・取り壊しなんてもってのほかだろうし区画整理は難しいんだろうなぁ。既に新しい家も元の家があったであろう場所に建ち並んでいる。こうした路地が続く向こうに目を転じると高層マンションがにょきにょっきとそびえている。

阪神住吉から高架線路に沿って東へ。高架橋の下には商店や町工場が賑やかな音を出している。こんな造りでよく地震に持ちこたえたな、と思う。少し進むと橋桁の補強工事が行われていた。付近の高架橋の桁部分には既に鉄板がぐるぐる巻かれている。その先は震災後に高架化されたであろう、白い壁面に緑の帯が塗られた近代的な鉄道構造物が大阪方面にひたすら続いている。その上を快走する阪神電車や山陽電車をみやりつつR43へと下がる。主要国道沿いというのは大概そうだが、不快な空気が充満している。阪神高速神戸線と国道43号という阪神間のメインルートが2階建てで連なっているんだから、この空間に撒き散らされる排ガスの量は物凄いものだろう。公害訴訟の原告の方々はずっとこんな環境(一昔前なら更に劣悪だった筈)での日常を余儀なくされていたのか、と真っ黒なガードレールや何メートルもある巨大な遮音壁を見ながらしみじみ思った。一人の自動車ユーザーとして、必要以上の運転、渋滞中などの無意味なアイドリングは避けていかなければ。

この近辺は、菊正宗をはじめ酒造工場や関連資料館が多い。飲兵衛さんならば垂涎もののスポットだろうが、酒どころ伏見からやって来た下戸人間であるおいらにゃあまり縁がないというか、利き酒でもして急性アル中にでもなったらえらい事なので(というか、アルコール類を摂取すると腹痛起こす)、また今度誰か酒好きな人でも誘って来る事にするべや、と素通りする。道の途中で電柱が傾いていた。

綺麗に舗装された遊歩道に松の並木が続く住吉側に沿って南へと歩を進めていく。マンションやアパートが林立したかと思えばまた戸建て住宅が続いていく。この辺りは本当に色んな建物が混在している地域である。そこをてくてく歩いていたら唐突に目の前へ巨大な船が現れた。運搬船がするするっと碇を降ろして入港し、その向こうには阪神高速湾岸線やハーバーハイウェイの高架が何本も複雑に絡み合い、視線を上に転じるとイーストコートやウエストコートの高層建築が連なっている。ここは灘五郷のひとつの魚崎郷、初めて訪れたその地には何とも不思議な風景が拡がっていた。

六甲ライナー南魚崎駅の階段をぜえぜえとひたすら昇り、地上5階相当のホームから周囲を見下ろす。細い道一本を隔ててドックやコンクリ工場とごくごくフツーの集合住宅が隣接しているのは何ともアンバランスで面白い。やがて無人運転の電車が静かにホームへ進入してきた。座席に腰を下ろして住吉浜の岸壁に停まっている大きな船を眺めていたらあっという間に目前にいかにも人工的な街が近づいてきた。初めてみる六甲アイランド島内の都市的で無機質な景色はつい十分前まで歩いていた場所のそれとはあまりにも違いすぎた。

ほんの少しの滞在後、帰路につく。先頭車の展望席を確保し車窓を楽しむ。こうやって人工島から六甲大橋の向こうを眺めてみると、山から海へと生活空間が切り広げられていった様子がつくづく実感できる。こうした神戸市株式会社の都市開発の歩みや8年前のインナーシティ型災害について色々考えていたらまたまたあっという間に側窓は曇りガラスになり(この住宅地区間で自動的に曇る窓ガラス、その昔これが導入されるという話題をニュースで見たときからどんなもんなのか興味があったので、実際に窓が瞬時に真っ白になった時には無茶苦茶嬉しかったよ、技術大国万歳!!)電車は住吉駅に到着した。少し乗り足りなさを感じる。このまま北上して阪急電車や神鉄電車にも連絡して東灘区内を縦貫して欲しいな、まず採算取れんだろうが。まあ、乗ったのが平日昼間なので一概には言えないけれど、この路線は本数も輸送量も程良い感じに思えた。流石にあの人口規模ではバスでは捌ききれんやろうし。こういう新交通システム、我が京の街にも欲しいなー。洛西NTとか羽束師辺りの不便な地域に走ってたら便利やのに。

さて、どうやって帰ろかな、と神戸新交通の改札を出ると金券ショップに人がぞろぞろ並んでいた。ガラスケースを覗いてみると、この時間は昼得きっぷ使えます、という旨の立て札がちょこんと置いてある。そういや昼間の時間帯用の回数券ってのは安いんだよな、と京都までの切符を探すと700円でお釣りが来る値段。正規の運賃だと1050円だからこりゃ儲けもんである。アマから東西線で京橋に出て京阪に乗り継ぐのと運賃的にも大差がない。という訳で、久しぶりに全区間JRに乗るとしますか。あんまり個人的にはJRは好きでないし、昨今の京阪神競合区間でのJR一人勝ち状態を考えるとなるべく私鉄を使ってあげたいんだけれども、歩きまくってしんどい今はJRの速さという魅力に負けてしまう。

ショップのおばちゃんから受け取った2枚の切符(住吉〜大阪、大阪〜京都)は青くて大きい窓口発券タイプの乗車券だった。こういう切符を持って新しいはずなのに何となく国鉄臭の漂ってくるホームに降りるとちょっとした旅行気分になる。そんな気分だから、程なくホームに滑り込んできた通勤型の普通電車はパスして快速電車を待つ。数分後にやって来た快速は恐ろしく混んでいた。立って扉の窓から景色を眺めつつ、さっきのがら空きの普通に乗っとけば、と悔やんでる間に芦屋着。乗り換えた新快速はそれほど客が乗っておらず、あっさり補助椅子がゲット出来た。大阪で進行方向左側の座席に移る。新快速は立てば地獄だが座れば天国、後は暫く揺られているだけである。しかし天国とはいえ車中の退屈さは変わらない。窓の外は見慣れたというか見飽きた景色しか流れない。同じ新快速電車の眺めでも、明石海峡大橋や須磨の海岸を見渡したり、滋賀県内で平和堂の数をカウントしたりしてるとあっという間に時間が過ぎるんだけどなぁ。

15時57分京都着。尼崎やら高槻やらに停まる様になって気分的に高速な感じがしなくなった新快速だが、芦屋からの62kmを僅か40分で走破しているんだからやっぱりその速さは物凄いもんである。そのまま山科まで乗っても良かったが、トンネルの耳ツンが嫌だったのと同駅では京都から乗り込んできた滋賀人を掻き分けて下車しなくちゃならなくて煩わしいので、ここで乗り換えて六地蔵に向かう。既に片方のホームにはみやこ路快速が停車しているが、こちらは発車まで20分以上ある。で、後から慌ただしく入ってきた黄緑色の普通電車が先発となる。よく判らんダイヤだが、出発まで始発駅で長時間休んでいる列車というのも貫禄があっていいかもしんない、かなぁ...。それにしても奈良線も便利になったもんだ。数年前まで2両編成の電車が1時間に数本たらたら走っていた路線とは思えない。汽車が走ってた頃を知ってる人からすればもっと感慨深いだろうな。ま、言うてもまだ殆ど単線ですが。

稲荷、桃山とちょっとずつお客を降ろしては拾い、12分で六地蔵に到着。随分速くなったもんだな、と思う。途中に新駅が開業しているのに数年前の快速並みの所要時間になっている。地下鉄延伸後は相当数の乗客が京阪・近鉄から流出しそうな予感。

さて、六地蔵まであっという間に帰ってきた。この青い切符欲しいなー。でも、いい歳こいて駅員さんにくれって言うのもなんだしー。幸い切符は2枚ある。大阪からの切符だけ回収させて住吉〜大阪の切符は貰っちゃおう、と大阪〜京都間の乗車券を精算機に投入。すると、「乗車駅カラノ切符ヲ入レテクダサイ。」と機械に怒られた。怪訝そうに見つめる駅員のおっちゃん。そうか、それで車内で車掌さんが全く巡回して来なかったのか。よくよく考えれば、自動改札で出る場合は2枚一緒に入れないとゲートが閉まるシステムなんだから、当然精算機でも検知するよなー。いやー、良くでけたシステムでんな。昔、同級生だった滋賀作の某君が山科までの定期券の「科」の部分を手で隠して山崎まで乗って塾に通ってるぜい、等と自慢していた(恒常的やったから総額幾らぐらいのキセルやっとったんやろアヤツは・・・ってか京都市内の高校の制服着た人間が滋賀から山崎までの通学定期を持っている事、いやいや、駅名の一部を指で押さえていつも素通りしてるのに不審に思わなかったんかい、当時の山崎駅員は...)有人改札の時代が懐かしい...。


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