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2003年01月17日(金) 震災8年、誓いの一日

今年もまたこの日がやって来た。

はや8年なのか、まだ8年なのか――98年にこのウェブサイトを開いて以来、この日の雑記では毎年この表現を使っているが、8年が経過した今でもやはり“はや8年”であり“まだ8年”でもある。この8年間で阪神間の街並みは物凄い勢いで復旧を果たした。でも、ちょっと表通りを逸れてみれば空き地は目立つし、街の雰囲気もどんよりと暗い。ぱっと見では震災の爪痕というものはなくなりつつあるけれど、その地に暮らす人の数だけ震災の災禍は複雑多様化している。勿論、自らの手で復興を果たした人は多く、中には罹災による“焼け太り”をした人すらいる。けれども一方では自助努力も虚しく未だ復興を果たせない人も少なからずいる。せめて、何らかの公的援助法ぐらい出来ひんもんなのか、とつくづく思う。

これまで毎年1月17日には新聞各紙を買い込み、震災関連のテレビニュースを3局同時に録画していたが今年はそれをすっぱりやめることにした。扱いが少なくなった事もあるが、毎年同じような構成ばかりだから、というのが主な理由(除く地元メディア)。そりゃ8年もすれば「目で見える震災」なんて見つけづらいし、メディア映えする様なネタも少ないだろう。でも、震災そのものは続いている。地味でもいいから「目で見えない震災」を深く追って欲しいものである。

いや、それ以上にそろそろ震災の闇の部分を大々的に報道してもいい時期なんじゃないかな。外国メディアが驚愕した様に被災地で人々が落ち着いて行動していたのも、日本人と在日外国人が助け合っていたのも、みんな事実だけれども、全てが全て感動的な事ではなく、誰しもがお行儀良くやっていた訳ではない。震災から8年、そろそろ美談の影に隠れている話(敢えてここでは詳しくは触れないが)も表に引っ張り出してくるべきなのではないだろうか。例えばダイエーの様に自らも被害を受けながらも店を開いて通常価格以下で物資を販売したところがあるかと思えばカップ麺やおにぎりを数千円で売りつけていた輩もいたということ等々。そして、当時の人災的側面の検証もそろそろ本格的にやるべきなんじゃないだろうか。救助に当たった自衛隊のヘリ使用に制限を加えたり救助犬や空母に代表される外国の救援申し入れをつっぱねた当時の政権の姿勢など、今一度表舞台に引っ張り出すべきだろう。これらの記憶も風化させてはならない。

もし、あの地震が野島断層の方からではなく花折断層の方から発生したなら、自分はどうなっていたんだろう、とふと考えることがある。京都市内は大概がそうだが私の住む伏見醍醐近辺も狭い路地を挟んで家屋は密集しているし、すぐ南には黄檗断層が走っているし、それでなくても旧巨椋池干拓地を筆頭に地盤の緩い場所が多いし、もし運良く命が助かっても家屋倒壊や地域一帯が火の海となる可能性は非常に高い。東海・東南海・南海地震がいつかは発生し、近畿の活断層が活動期に入ったといわれる昨今、阪神・淡路大震災の忌まわしい出来事は決して人ごとではない。喉元過ぎれば、ではいけない。震災の教訓を忘れてはいけない、と改めて肝に銘じる事がこの日被災地の外にいる我々の義務といえるのではないだろうか。勿論、この震災だけでなく各地の災害・紛争でそれこそおびただしい数の犠牲者が出ていること、我が国だけで毎年一万近くの人が交通事故で命を失っていることも忘れてはならないのは当然の事だが。

改めて8年前の1月17日に亡くなられた6,433人の御霊のご冥福をお祈りします。


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