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2003年01月16日(木) 1・17の記憶

あの日のあの瞬間、高校2年生だった私はゴォォーという地鳴りのような音と激しい揺れに飛び起きた。起き上がったものの大きな縦揺れで一歩も動けない。これで死ぬんやな、と思いつつ必死で壁にしがみついていたら揺れが収まった。急いでテレビを付け、この時間で唯一の近畿ローカルだった「おはよう天気です」にチャンネルを合わせる。しかし画面は真っ暗で、「先程大きな地震がありました」という声だけが聞こえてくる。(あの時この番組がいつも通り大阪タワーのスカイスタジオから放送していたらどうなっていたんだろう、と今でも思う)。ついに東海地震が来たんや、この辺でこんなに揺れてるんやったら名古屋とか静岡辺りはどんなひどいことになってんねんやろ、と思っていたら我が街京都が震度5で震源地が淡路島付近という第一報に驚く。それから暫くパチパチとチャンネルを変えて地震情報にかじりつく。地下鉄梅田駅付近の漏水、セットの壊れたMBSのスタジオ、ガラスが全部割れたABC横のショールーム等が何度も繰り返し流されていた。

6時50分頃に家を出発。当時、学校をよく休んでいた自分がどうしてこの日はちゃんと登校していたのか今もって不可解だが、恐らく混乱状態の中で潜在意識が普段通り学校に行くという行動をする事で均衡を保とうとさせたんだろう。バスで三条通を通っている最中に大きな余震が来た。併走していた京津線の路面電車が真っ暗になり急停止した(地震を察知した運転士さんが急ブレーキをかけた、というよりは通電が止まってそのままモーターが停止したように見えた)。やっぱり家におったら良かった、家族は大丈夫やろか、と物凄く心配になる。

学校に付くと、殆どの人間が来ていなかった。京阪・阪急・近鉄・JRとみんな運転を暫く取りやめていたんだから当然といえば当然である。取り敢えず、ちらほら教室に来ていた連中と今朝の体験談の後、「○○のおっさん(年がら年中、もうすぐ関西に大きな地震が来るから、みんな親に地震保険に加入するように勧めろー、と力説していた地学教諭)にはよ解説してもらわなー」とか「何でも阪神高速の橋桁が落ちたらしいで」「へぇー、落ちたらどんな感じなんやろー」といった会話をしているうちに本日は臨時休校という事となった。今日はもう帰っていいのか部活の顧問に尋ねる為に校内を歩いていると、木造校舎ではガラスが割れ、図書館では天井が落ちていた。改めて地震の凄さを実感する。

そんなこんなで帰宅してテレビを見るとそこには脱線した電車や横倒しになった高速道路の映像があった。地獄絵図は何時間も何日も映し出された。時間を追うごとに死者の数がどんどん膨れ上がっていった。西宮から通っていた同級生は家が半壊し、交通が遮断されて暫く通学することさえままならなかった。

幸いにして、被災地に住む私の友人・親戚は誰も命を落とさなかった。だが、あの一連の出来事は絶対に忘れてはならない。


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