再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 『もう一人のヒト』パンフレットけいさいぶん。

演出の戯言
「20年30年後…」※ネタバレを含みます

飯沢氏は1970年の民藝初演に於いてこの作品について
「私は戦争の狂気を描くために、この最も純粋な形の皇国思想を持ち出した。それは純粋で、しかも正気なるが故に却って、狂った周囲からは狂気と見られてしまった。だからこの作品は悲劇である。しかし喜劇と悲劇は隣り合わせのものである。」
と言っている。そのお手本のような台本の奥行きと表立って見える軽妙さに、稽古場は踊っている、踊らされている。設定とその人物たちの在り様、変化に一喜一憂、泣き笑いしながら飯沢氏の世界の切り取り方と遭遇している。

戦争をめぐる劇を多く創りながら、
体験者が減るように、その言葉を姿を目にしない世代が増えてきた。極端な例かもしれないが、74年前、沖縄に地上戦があったことや、かつてアメリカと戦争をしていたことすら知らない、とゆう時代になってきた。当然、何があったのかに対する想像力を巡らすことすら、ない。もしくはさせないようにする何かが、ある。
僕らは継承する世代としての役割をちゃんと果たせているのだろうか、と思うことがある。

東久邇宮をモデルとする劇中為永殿下は、視野狭窄に陥り急進的な考えに拘泥する小沢中将に言い放つ。
「私のいっているのは、今の日本ということではなく、遠い先の日本を考えろというのだ。たしかに負けるということは大いなる恥だ。その恥を忍べないといって死ぬという人がいるが遠いその日本、例えば今日から20年30年たった時の日本を考える時、徹底的抗戦というような恥とか責任論ばかり押し進めることは果して、賢明かどうかとこれを考えろというのだ。」
初演から25年経った1995年、青年劇場での初演。そしてそれから約25年経って、今回の再演を迎える。
1945年(終戦)1970年1995年2019年ー
同じように、まるで試されるかのように、20年30年たった今、上演されるのだ。これはきっと偶然ではなかろう。

今、のことしか考えない。
都合の悪いことは忘れ、
今が良ければ、としか考えない。
あったことすら、直視せず、今の都合で忘れさせる。なかったことにする。

そんな今の選択が、未来を創っていくのだ。

最終場、まるで落語の世界から飛び出してきた様な主人公杉本とその妻サクは焦土と化した月島に立ってこう言う。

サク  東京もこんな焼け野原になっちゃってね。
杉本  こうもひどいことになるとは思っちゃいなかったな。

人は優しく愚かで、逞しい。
でもその誰もが始まりには、そんなことまでになるとは思っていないのだ。

70年の段階で希望ある未来のように描かれたラストは、
強烈な皮肉を持って僕らに迫ってくる。そこに飯沢匡とゆう人の本当に言いたかったことがあるような気がしてならない。忘れてはならないことが、ある。それでも、と思いたい。

戦争からどんどん遠ざかっている。
でも、戦争は確実に近づいている。


藤井ごう


2019年09月22日(日)



 ざっと思うこと。

青年劇場の本番が開け、
智の巨人の書いた計算され尽くした脚本を土台に、
費やしてきた分の成果と、
そんなのお構いなしに、一過性の瞬間だけを捉えて、
あきらめた、だの、負けた、だの
言われることを尻目に、
客席は、沸いている。
そりゃそうだ、と思っている。
客席の好不評が一義ではないけれど、
そうなるだろう質の稽古を積んできたし、研鑽してきた。
まだまだの部分もあるけれど。


何も言うまい、
そして評判はヒトの態度をも豹変させる。
それもいつものことだ。
客席と出逢ってやっと成立するのが演劇だけれど。
そして態度を風を見て豹変させる大人は嫌いだ。
アナログな世界をどうしても構築していく以上、
ヒトへの期待と信頼は、崩されても壊されても、もっていなくてはならない。
もてなくなったのなら、それは辞める時を意味する。
今回の芝居の中身じゃないが、味方の中に敵がいた!なんて思う。けど、これ回避するのはカンタンで、最初から味方だと思わなければいいのだよね、すると何が起きてもあまり消耗することも、ないのだから。

予想はいい意味で裏切る。そして期待には大いに応える。そうゆう作品だ。そしてこう確信を持って言える作品は、実はそう、ない。
もっと先の世界が魅せられる筈なのは、
それが「島」の時と似て、
でも、人数の多寡があるからか、
自分に相手に貪欲に拓こうとする人がいる反面、
ここ止まり、
で安定する人たちがいるのはどうしてなのだろう。

モノづくりの深淵と、自由と、
苦しさと、だからこその楽しさと。
そして現場から起こる無限大の創造を、
発見し続ける日々でいたい。


今日から3日間は沖縄での稽古。
ざっと最後まで触って、

その限りではない

ことを、しっかりと刻みたい。

2019年09月17日(火)



 マチネは完売、ソワレは余るほど。。、

あと一週間、
お陰様でマチネ公演は完売模様。
うらはらにソワレはまだガラガラ…
お見逃しなく!

青年劇場第122回公演<飯沢匡没後25年記念>
「もう一人のヒト」
飯沢匡=作 藤井ごう=演出
9月14日(土)〜22日(日)紀伊國屋ホール

終戦間際の敗色濃厚ななか、その対応に追われる一人の皇族と、
戦況を憂い、人心を一新して本土決戦に備えようとする一人の将軍。
一方、戦争に一人息子を召集され、悶々と日々をおくる下町の靴職人。
この靴職人が屑屋に売り払った「伝家の宝物」をきっかけに三人が出会うことになり…。

戦争の愚かさと残酷さを余すところなく描いた巨匠・飯沢匡の傑作喜劇に、
舞台の魔術師・藤井ごう氏と青年劇場が総力をあげて挑む!
この秋最大の話題作。どうぞお見逃しなく!

9月14日(土)13:30(✖)/18:30
15日(日)13:30(✖)
16日(月祝)13:30(✖)
17日(火)休演日
18日(水)13:30(✖)
19日(木)13:30(✖)/18:30
20日(金)19:00
21日(土)13:30(✖)/18:30
22日(日)13:30(△)

一般=5150円(当日5500円)
U30(30才以下)=3100円(当日3400円)
中高生シート=1000円(各ステージ10席限定・前売りのみ)
※団体割引・障がい者割引あり

お申し込み・お問合せ
青年劇場チケットサービスTEL03-3352-7200
ticket@seinengekijo.co.jp
https://www.seinengekijo.co.jp/

2019年09月06日(金)



 毎日新聞「もう一人のヒト」掲載記事。

青年劇場 戦争の狂気を描く「もう一人のヒト」
毎日新聞 2019年9月5日 東京夕刊

 青年劇場が没後25年となる飯沢匡の喜劇「もう一人のヒト」に、24年ぶりに挑む。戦争の狂気を、笑いを交えて皮肉る。今回は藤井ごうを演出に起用し、現代の観客に問う。

 太平洋戦争末期。悪化する戦況に動揺するある皇族一家と退役陸軍中将、そして一人息子が召集された靴職人の運命が、クズ屋に売り払ったあるものをきっかけに交わっていく。


 藤井は「被害者のようなふりをして、被害者じゃない人がいっぱいいる。人間ドラマとして味がありますが、その分、突きつけるものが強い」と手応えを語る。セリフ一言でさえ、一筋縄ではいかないという。言葉の向こうにある思惑を丹念に読み解いていく作業だ。「相関関係の持っていきかたがすごくうまい。演出にとっても教科書みたいな本です」

 初演は1970年。いまや客席には戦争を知る世代が少なくなった。「当時の時代の空気をつくり出し、客席とつなぎたい」

 14〜22日、東京・新宿の紀伊国屋ホール。問い合わせは03・3352・7200へ。【濱田元子】

2019年09月05日(木)



 タワゴト。

話しても話しても
通じない事はある。
投げかけても投げかけても
当事者としての名前が上がらない限り
自分は関係ないのだと想像を働かせない事はある。
繰り返し繰り返し
自分に向き合うことと準備について言っても
準備とゆうことの意味さえ考えない。
出番がなければ
必要ないですね
といったうえで、前後関係の芝居も、稽古場で行われるコンセンサスつくりにも耳をそばだてず、
台本に書かれた書き込まれた奥行きやら状況やらに目を向けず、言ったら意味すらスルーする。
うまくいかない事から目を背けてただ時間が経つのを待つ。
しゃあしゃあと、自分のキャラクターの説明だけに終始する。
想像の翼は人からの賞賛を受けるためだけに開かれ、閉じたまま開く身体を用意することもない。
その先立の姿勢が
如何に未来を考える若者の想像を固めてしまうのか。
限界を投げかけてしまうのか。


話しても話しても
通じない事はある。
だから何度でもこちらは投げかける。
あきらめず投げかける。
その先に広がる世界へ。
繰り返す。


想像主は自分で。
本当はクリエイティブな仕事を請け負えるだけの身体と心と頭の準備は当たり前にやっていなければいけなかった。その準備が表現として出てくるものを支えるのだ。
でも、そこを指摘されたら、仕方ない、
せめてその世界にくらいつけ。
その時からでも、人前に確信をもって立てる為の準備を始めよ。
想像することを、諦める人は、人の人生の数時間を奪う権利はない。

逃げるな、闘え
…と、今稽古している
戦時中の空襲時の
逃げるな、火を消せ!
とゆう間違った文言と、同じようなことを発しそうになる(苦笑)


最初の学校みたいなもので教わる表現の浅はか(もちろん、人前で必死に何かして、拍手をもらう瞬間は格別だけど)を、分かって、
表現者としてその先を見据えて、自分で考える能力を養うのだ、
とこの夏も請われて教えている。
方法→説明→実践→フィードバック→
を、繰り返しして、
で、台本の読み方、なり、セリフの捉え方、なりが表層でステロタイプなムードみたいなものから脱却することを目標にしている。
最終的には自分の演技は「自分で構成演出できる」表現者を目指し、その上で対応力も問われる。
もちろん理屈だけで簡単に出来ることじゃない。
「難しい」と簡単に言って、そこで思考停止する愚を避けよう。演劇なんて「わからない」ことを楽しみ、「何がわからないか」を露わにする媒体。
だからこそ自分の「なりたい自分」をちゃんと意識して、繰り返し、出会い、失敗し、怒られ、悩み、努力し、を続けていくのだ。

まだまだ、やれることはある。
自分で自分の可能性を信じられなくなっちゃいけない。


2019年09月01日(日)
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