再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 ちょっと芝居を観に…

初体験である。
なにが初体験かというと、芝居を観るために、わざわざ新幹線にのり、現地まで行って見るという行為がだ。
地方に仕事で行ったりすると、東京でやっている芝居を観に、飛行機に乗ってきたり、船に乗ってきたり、同上新幹線に乗ってやってくる人たちがいてびっくりすることは今までままあった。
そういう人たちは、われらの芝居にもそのようにして観に来てくれる。ありがたい、非常にありがたい。足を向けて眠れない。
のだが、例えば飛行機の場合、正規で買わない場合であっても、往復にうん万円である。プラス、折角芝居を見に東京に行くなら、一劇団だけじゃあれだから、と二泊三日くらいにし、宿もとって、二泊三日で四本位見る。宿代を考えても、ちょっと万円で、芝居も、小劇場から大劇場まで色々見れば、それだけでうん万円なわけである。つまりうんうんちょっと万円のお金が出て行くのだ。これはすごい、ぶっちゃけ外国に行って、近いところならば、少なからず豪遊することだってできるのだ。
その情熱、ずっと東京にいて、いつでもいけるから、と言いつつ、よっぽどいいからと言われないと、なかなか足を向けなくなっている私には正直驚きに値する。そして、半分反省する。
そして「よくやるよなー」と思う。
そしてそれで「つまらなかったら?」と思う。
そして「私なら、旅行にする」と思っていた。

そんな私が、誘ってくれたKさんの援助はあったものの、大阪に芝居を観るために、上京(?)したのだ。
と、言いつつ、じゃあ行くならどうせなら三四日泊まって、と、色々遊ぶ計画も考えたのだが、そのお芝居の公演日程は、水曜日まで。私が空いていたのが、月曜日夕方までNGの火曜日オールフリーで、水曜日午後から仕事。だったので、火曜日しか、ない。

ので、こんなスケジュール。
月曜日夜―次の日に備えて、予定を詰める。という名の乾杯。前夜祭(現に今日は明日もあるし、十時には帰りましょうといいつつ、気がついたら……。この日から始まったと言っても過言ではない)
火曜日朝―十時に待ち合わせ、新幹線に乗車(実際には十一時、理由不問)乾杯(むかうとも言う)。一時前には京都に到着(大体、予定が一時間おしになる)。それから電車を乗り継ぎ、嵐山へ。
火曜日昼―二時前、嵐山。雨の渡月橋を見ながら、豆腐料理を食す乾杯(日本酒)。総年齢百歳を超えた男三人で、失楽園気分を味わう(安いと言われたことはこの際、おいておく)。ついでに美空ひばり記念館を、入場料は高いのでおみやげコーナーだけ閲覧。
火曜日夕刻―大阪南港を目指し、嵐山を出発(その前に、足湯温泉と、噴水を間違える)。
火曜日七時前―南港に到着。雨の中、あまりにも静かで人がいないので不安になる。
火曜日七時―現地到着。維新派「キートン」。野外で、駐車場を劇場化、入場前には、昭和を彷彿とさせる屋台街(手作り!これも初体験、持込も歓迎、これも初体験)、寒くなってきたので、汁物を食べつつ乾杯(ビール、お湯割…)。ここで、驚くべき、地方の人間(そうやってよく見に行っている人間)とばったり出会う、凄い、ちょっと感激。
火曜七時半―「キートン」開幕。上演時間二時間半。寒いので、カイロ、カッパは無料配布。到着時、雨はやんでいたが、本番中ちらと降り始め、プラス、海風が寒い!雨の中の観劇、初体験!しかし、セリフはこれでもか、とないにもかかわらず、とてもよかった。芝居を始める前の小劇場を見た衝撃に似て。感激。
火曜十時―終演。体の芯まで冷えたので、温かいものを食し、あったまるお酒で乾杯。
火曜十時半−豪勢に輪をかけてタクシーにて「鶴橋」へ。
火曜十一時―「鶴橋」に到着、ということはやはり「焼肉」を食しつつ、マッコリで乾杯。
水曜零時半―現在大阪在住の昔R−viveにでていた奴と合流し、次の店へ。
水曜一時―Kさん行きつけの上本町の引き出しがいっぱいのお店で乾杯。
水曜二時―本日宿泊予定のH城さん実家へ。(非常識な時間であることはよくわかっているが、その時はあまりわかっていない…)
水曜二時半−H城さん宅で、お父さんお母さんを交え(こんな時間に…)乾杯。
水曜三時―まだ呑んでいる。
水曜三時半−まだ呑んでいる。
水曜四時―一人二人と落ち始める。
水曜四時半―就寝。(のはずが、私は諸事情により、未だ眠れず…)
水曜七時―起床予定。のはずが、誰も起きず。
水曜七時半−H城さんとわたし、お母さんだけ起きる。(八時には出発予定)
水曜八時―もう一人起床。(八時には出・発・予・定!)
水曜八時半―Kさん一人起床。(八時には出・発・予・定!!)
水曜九時―京橋駅出発。東京帰京予定のわたし、H城さん以外、三々五々。
水曜九時四十九分―東京行き新幹線のぞみ号出発(ギリギリ現場に間に合う電車であった)
水曜九時十分―爆睡……

滅茶苦茶である。(キートン山田風)
以上のように、大分予定はずれたり、慮外(?)乾杯が多かったりしましたが、これはもう…、祭りだ。
祭り以外のなんと表せばいいんだろう。
芝居が面白かったのも、メインはあくまで「芝居を観に」いくという意味で、大変結構でした。その土地柄に触れないと、楽しめないもの。そんな感じがシタ。
土地柄に触れてみてのイベント、やっぱり、これは祭りだ。
初体験。
初体験。
初体験三昧。
楽しかった。
ちょっとだけ、遠くから芝居を見に行く。という気持ちがわかった気がしたこの二日間。

ただ、今度は是非、ゆっくりといきたいなと思った彼らなのであった。(キートン山田風)

※作品「キートン」と「キートン山田」は関係ありません。駄洒落でもありません。

P.S またやりましょう、Kさま。

ごう


2004年10月30日(土)



 sakamoto9

もう書き飽きるくらいの言葉、「今年は異様に台風の上陸が多い」
これはもう先々週、期待はずれ(と実際に書いたわけではないのだが)的ニュアンスで書きなぐったことを後悔せよ、とでもいうのか…
台風はいく。
あまりに被害が甚大で、これはもう、驚きに値した。
バスの上で、「上を向いて歩こう」を歌い励ましあって、バスの上に避難しているのに、さらに膝上まで水につかりながら一夜を不安なまま明かした32人の人たち。
いや、美談である。これはもう相当、美談である。
そこで歌うのが「上を向いて歩こう」であるのが、更に美談を増長させている。
なんとシチュエーションを鑑みて、これぞという選曲をしたものである。
そう話が上手すぎると、疑ってみたくもなるのである。
はたして「上を向いて歩こう」である。
これが「雨に濡れても」でもいいかもしれないし、「あーめあーめふーれふーれ♪かあーさんがー」と歌っても、周りから睨まれないならいいかもしれないし、「最後の雨」でも、森高の「雨」(個人的に好き)でも、いいんだろうさ。
そこで井上陽水の「傘がない」を歌うくらいのウィットが欲しい(例誌:…、だけども〜問題は〜今日の、あめ〜、傘が、ない〜)ところだが、別にそんなものは誰も求めていないし、それ以上にウェット(駄洒落)であった訳だから、求めても仕方ない。しかし、しかしながら、もしかしたら歌ったかもしれないじゃないか。
そりゃあこんな歌詞があるのかどうかはしらんが「雨に沈む〜」とか「涙にくれる〜」とか「涙の洪水〜」とか、こういうのはちょっとどうかと思う。
また、この美談が、『バスの上で、「祭り」を歌い励ましあって〜』では美談が美談にならないで、ちょっとドンチャラ祭りになってしまうんじゃないかという危惧もあるし、『バスの上で、「嫁にこないか」を歌って〜』では美談よりは、嫁不足の農村の惨状、というか悲壮感が漂ってしまうし、『バスの上で、「きよしのズンドコ節」を歌う』では、わけがわからない。もうそれはただ単に、氷川きよしを好きな人の集まりになってしまうかもしれないし、『バスの上で、「piece of my wish」を歌う』では、今井美樹と歌詞をしらなければ、「あ〜反戦運動ね」なんて片付けられてしまうかもしれないし、「リンダリンダ」ではバスの屋根は壊れなかったかと心配が別のところにいってしまうし、ましていわんや「おら東京さ、いくだ」では、もう意味が全くわからない。
閑話休題。
都合何時間だろう、そして、何曲、歌を歌ったのだろう。そんな状況だ、テンションがおかしくなって「おら東京さ、いくだ」を歌ったかもしれないし、「上をむいて歩こう」だって、何曲も歌った上の、たったの1曲なわけだろう。夜から、朝を迎えるまで、永遠に「上を向いて」を歌い続けたとはちょっと考えにくい。なのに、どうしても「上を向いて歩こう」を歌って励ましあった。のだ。
別に坂本九の曲が嫌いなわけではない。
というか、好きだ。…なんのカミングアウトだ…
美談は美談で確かにいいのだ。最悪の事態にならなくて、本当によかった。そう思う。
しかし、なんか演出、または装飾された匂いを感じてしまう。
当然、それを書いた人もそうだろうし、その件を報道した方もそうだろうし、もしかしたら、助かった本人たちも、自分たちが助かるとわかった上で、美談を演じようとしていたのかもしれない。(決して非難ではないですよ、無意識下のこともあるし…)ましていわんや、聞いてすぐの私もそれで、ああ、いい話だと思ったし…
決して事実を捻じ曲げたわけではないのだし、事実の断片を切り取ったとすれば、それはそれでいいのかもしれないが、これでは、その時、人間が何を感じ考えたのか、本当の興味は薄れてしまっていくように思える。美談というのを隠れ蓑にして。

『バスの上に取り残された32人は、互いに励ましあい、たまには歌を歌い、朝になり救助が来るのを待った』のである。歌の題名、まして内容は関係ないのだ。(とここで散々自分が題名と内容にこだわってここまで書いていることに気がつく)

美談の主人公たちは、来るかわからぬ助けを請い、窓ガラスを割って足場にしてまで屋根に上り、それでも増え続ける水に、恐れを抱き、しかしその恐れや不安もほかの31人といられること、歌い励ましあうことで、朝を待ったのだ。


だがしかし、わたしはそのバスの横にあった大型トラックの荷台にいた一人の男が気になってしかたがない。彼は、画面で見たところ、毛布かなにかをかけ、横たわっていたようだった。美談の蚊帳の外に、一人、寄り添っていたのだ。

彼はきっと同じように不安な夜を独りで過ごしながら、真の闇の中、聞こえてくる話し声に希望の光を見出したかもしれない。そして真の闇の中聞こえてきた「上を向いて歩こう」をどう聞いただろうか―

ちょうどこの間再放送をしていたから思う。
わたしは、タイタニックを好きではない。
だけど、別につまらない。とこの場を借りて宣言したいわけでもない。
ただ、沈んでいく船の中、それでも演奏を続けた、楽団の方に、よっぽど興味がある。
その内面に興味があるのだ。

ごう


2004年10月23日(土)



 奇妙な沈黙。

そこは所謂ファーストフード店。柔らかなMに象徴される店だ。舞台はその店舗の二階、喫煙okの階である。向かい合って座る男(モヒカン男)と女(微妙に可愛いかもしれない女)、その横のテーブルに、一人の男。男女、なにやら話をしている。一人の男は食事中。

モヒカン男  おいかけられるのって初体験でさあ。
微妙女  そうなの?。
モヒカン男  そうなのそうなの、俺、基本的に追いかける方でさ。追いかけてる 自分に酔っちゃうみたいな? 
微妙女  あ、それわかるわかる。振り向かれた途端に冷めちゃったりするんだよ ね。
モヒカン男  そうなのよ、だから追いかけられるとさ、自分の気持ちがわかるも んだから、ここで振り向いていいのかー、なんて考えちゃったりしてさ。
微妙女  それでどうなの?
モヒカン男  結構刺激的。
微妙女  へぇ〜。
男  ……。
モヒカン男  (唐突に微妙女に向かって)ほんとかわいいね…

沈黙。男、食べる手が止まる。

微妙女  …まじ言い過ぎだって。
モヒカン男  スカウトされたことない?
微妙女  え〜、そんなことないよ。一回だけ。
モヒカン男  へぇぇ。まじかわいいね。
微妙女  そんな……、もっとかわいいこ、いっぱいいるよ…(とメンソールタバ コを吸う)

沈黙。モヒカン男も、タバコに火をつける。

モヒカン男  最初に吸ったタバコってなに?
微妙女  え?……キャメル。
モヒカン男  まじ!
微妙女  まじ、おやじ〜!らくだーみたいな!
モヒカン男  らくだ〜!おやじだな、おやじ。
男  ……。(と自分のタバコを静かにしまう)
微妙女  ちょー、おやじでしょ。にがいよっ!って(笑)
モヒカン男  俺はね、キャスターマイルド。
微妙女  あー、微妙。
モヒカン男  微妙だろー。
微妙女  でも、なんかいいかも。
モヒカン男  そうかぁ?
微妙女  うん、ラクダより、数倍いいよ。フィルター甘い!
 みたいな。
男  ……。(と、吸おうとしたタバコもしまう)
モヒカン男  (とこれまた唐突に)まじ、かわいすぎ…
微妙女  え〜…

沈黙。男、余りの展開に思わず二人を見てしまった。暗転。

なんなんだこれは。
これは90パーセント以上実話である。
違うとすれば、男は二人を見はしなかったことだ。プラス煙草はキャメルではないということか。
この後も、くだらない話から、「まじかわいいよ」トークは展開し、初めて吸った「タバコ」から、「何歳」から吸っているかになり、両人ともに「中2」で吸い始めたことを確認し、「じゃあ、もしかしてヤンキーだった?」「ちょっとだけ」等と続き、「じゃあ、ひかないよね」とモヒカンの中高時代の武勇伝が始まり、絶対にありえない話が展開されているのに「あ〜あるよね〜」と無意味な相槌は打たれ、その会話の間間に「まじかわいいよ」「そんなことないよ」を挟み続け、その時だけ、奇妙な沈黙が訪れるのだった…。

前提として、彼らは予備校生である。何の予備校生なのかは上記の会話からすっかり推測することはできなかったが、青春とはおそろしい。ということは、どう考えても未成年なわけだが、中二から煙草を吸っているということだし、それはよしとして(絶対によしではない)、上記の内容だけを見る限り、特に突飛でもないし、その頃の年齢ならば、やってしまう会話であるような気もするし、明らかにわかる話の装飾も若気のいたり。ということで済ませてしまうことができるし、そう思えば「微笑ましく」聞くこともできる。モヒカンが彼女がいるにも関わらず、微妙にかわいいかもしれない女に好意を寄せている(←いつの言葉だ)のも男という生き物の性質上容赦できる。(明らかに差別発言であることをここに陳謝いたします)

しかし、しかし、「まじかわいいよ」のいれる場所、間違ってませんかね?
これが追いかけることに酔っているということなのか…
二人の会話はとりあえず盛り上がっているわけである。いちいちはさまなくてもいいのではないだろうか。
しかもあろうことか、言われた女も女の方で、その前までの会話から察する所、「ちょっとやめてよ」やら「きもいよー」やら言いそうなものなのに、その瞬間だけは何故だか素直に言葉を受け入れたりしている。
事実は小説より奇なりとはよくいうけど、こんなことを台本化したら、役者からお客様から「この人分裂してますよ」とか「下手だよね、流れの作り方が」とか「こんな奴いねーよ」とか「無理やり沈黙つくってそんなに面白いですか?」とかとかとかとか、色々ありがたい意見を頂戴することだろう。
しかし彼らは挟むのだ。
まるでその言葉を挟む為だけに「別の話」をとりあえず並べたてておく。そんな行為とも言える。
(「別の話」も相当に深いのにである、例えば―
どうして女が、「そんなことないよ〜」と言いながらも、「スカウトされたことない?」というのに、「ない」で良いはずなのに「一回だけ」と答えねばならなかったのか。
そしてその挙句、話を振った本人であるはずのモヒカンがそれに「へぇぇ」と答えるだけで、じゃあ興味ないんなら振るなよ!と冷静に考えれば突っ込めなかったのか。
「もっとかわいいこ…」って、つまりは私はかわいいということをちゃんと認識してしまっているのだな。←この場合、本当にかわいい必要はないものと想像される。
「おやじ〜」ってキャメル吸ってる若いやつの立場はどうしてやったらいいのだろう(←これには「激しく同意」なのだが)。そして「微妙」と微妙な女に言われてしまったキャスターはどうなのだろう。大体フィルターが甘いのはガラムであって、キャスターは甘くはない。(←真意不明)そういうことで言えば私が最初に吸わされた煙草は「echo(エコー)」だが、それはどのように料理してくれるのか。その場合、「なんかいいかも」と言ってもらえるのか…)

いきなり考えられないタイミングで放たれた「まじかわいいよ」
それに付随して訪れる奇妙な沈黙。

私的に、かなりやられた。
私的に、かなり笑った。
私的に、かなり考えさせられた。
しかし、大人だから表情には出さないで。
私は本当のところ「……」のところで、ケータイにメモってしまったのだ。
これは犯罪ではない。断じてない。知的所有権とかいうやつがいたら、決して「知的」ではなかったからと、話をすりかえることだってできる。できるさ、できるんだもん!……

奇妙な沈黙。

幕。


こんなことで、私を含め、日本の未来は大丈夫なのか!?
先行きを案ずる事、しばし…

ごう

2004年10月16日(土)



 怖いのは、「ちょっとな」

もう十月ですよねえ…
いや、すごい雨と風でした。
電車止まってたし。
こんな日に出なくちゃいけなかったし。
今現在は東北を北上している台風。
外はなんだか心地いい風が吹いているのみ。
今日はR-viveの内田晴子が出ている芝居がありましたが、お客さんは入ったのだろうか…

しかし、台風が行ってみるとどうなのだろう、なんか、物足りなさを感じる私。
どうしてか、今年の夏(秋も多いが)は台風上陸が多かったが、やはり、こまったもので、近づいてくればくるほど、ドキドキしている自分がいたりする。無論、実際に被害にあった事がないからなのだろうが(ええっと、直接被害に遭われた方、悪意はないのです)。風が信じられないほど強く吹いている。または、轟音で、雨が屋根を降り叩いている。そんな非日常、思わず、

ちょっとな。

と扉を開けて外に出てみたり、窓を開けて風を感じてみたり、してしまう。そして

うぉー、すげぇー

とのたまわってみたりする。
自然の脅威を体感したいから、なんてことは言わない。
明らかな、怖いもの見たさ。プラス興味本位。そして野次馬根性。
よくニュースで高波にさらわれた。なんてやってますが、「こんな日に海辺、波打ち際なんて行くからだ、自業自得」やら、どうして「一番風雨強くなっている時に屋根を修理してしまうのか」やら。人間の不思議、と言うか、家の中でじっとしていれば起こらなかった事故が多くなる。しかしかくいう私も、家の側に海が在れば、あれ程、テレビやラジオを通して、「外出を控えましょう」とか、「波が高くなっているので、海岸には近づかないように」とか注意しているにも関わらず、

ちょっとな。

とかいって、波の高さに恐れおののき、あっという間に高波にさらわれるか、

ちょっとな。

とかいって、風に煽られ、雨で滑って、屋根から落ち、理由を聞かれてそう答えているかもしれない。

どうしてだろう。この「やっちゃいけない」事に対する、「やってみたくなる」感覚。勿論、そんなことを言いながら、台風情報を伝える現地の記者の代わり映えの無い映像が助長させているだろうことには目を瞑って。
未経験なモノに対する、無知の欲。

ちょっとな。

と、台風の直撃、しかも関東に上陸すると最大級だと言われる、要するに、関東圏にとって初の規模の台風を待ってしまうのだ。
ニュースに釘付け、予想進路がまさに東京めがければ、「いやだねー」とか言いながらワクワクしている。やれ電車が停まった、飛行機が飛ばない、高速道路通行禁止だの情報が増えれば増えるほど、その期待は嫌がおうにも高まっていく……、そして雨も強くなったし、風も強くなったのに、上陸しなかった避けて行ってしまった台風に、「あ〜あ〜」と思う。
自分の乗っている電車が停まらなければ、それでいいのだ。
ちょっとだけ体験できて、己の身にふりかからなければ…

愚かだなあ…

しかし、実はこれこそ人間味。

……なのか?
ただ一つ許せないのは、おっきなカバンの中の、台本たちがグショグショになってしまっていること。

旅行を中止した方、明日はきっと台風一過。
これほどむかつく「よい天気」はないことでしょう。

これは決して三連休が私にないからではない。

ごう


2004年10月09日(土)



 守ってやりました。。

前回確認したとおり、本日の土曜日はやはり間違いなく、十月になった。
秋ですねえ、秋。
なのに今週はまた台風が上陸したり、九月の最後の日は○城さんのお誕生日だったり、色んなことがありました。

さて、何を守ったのかって…

今週は水曜日、まさに台風の大雨、風のなかの出来事。

私は、雨が降っているにも関わらず、駅からの帰り道、自転車に乗って帰ろうと決めたのだった。思えばこれがイタイの始まり始まり…

私は普段、人から「なぜそんな一週間くらい旅行できそうな重量のカバンを持っているのか」と言われる。実際に重い。かなり重い。それはまるで苦行なのかもしれないくらい重い。そんなカバンを肩から提げて、渋谷なんか人の多い所を暫く歩くと具合が悪くなる。わかってはいるのだが、いつも重い。どうしても重くなる。

ちなみに本日の内容物を…
台本、四冊。(←読んでおかなければいけない、修了公演の為)
ノート、二冊。(ネタ帳だったりして、普通のB5よりも大層なもの。←気分の問題)
今書いている脚本の資料、三冊。(←大きいのから小さいものまで)
その元ネタとなる小説。(←難儀なやつだ…)
その初稿。(気が気じゃないもの)
小説というか、エッセイ(小冊子、基本的にくだらない、リフレッシュとリラックスを含む。最近はまっている)
漫画。(浦沢直樹と手塚治のコラボレーション。プルートウ)
ファイル。(詳しくは触れない)
電子辞書。(必需品、昔高価にも関わらず買ってしまった。今その価格を出せば、辞書五十冊分のやつが買える…、替えたい)
CD三枚。
財布。(現金は入っていない…)
折りたたみ傘。
そして、パソコン。

改めて思う。そりゃあ重いだろ。
だけど、言っておこう、これを持って、一週間の生活はできやしないさ。
大半を占める本たち。
こんなに入れてたって、全体読むのかどうか。
多分読まない。いや、読むにしろ、読めるにしろ、一日のうちでできることは計算すれば考えられそうな物なのだが。そうする気配も無い。自分のことなのに。
つまり、私はそうやって、きっと、安心を持ち歩いているわけだ。
たった一回でも「あれ、あの資料のあの、あそこ、えっと…、あー、持ってればわかるのに」という数少ない経験のために。
持っているという、安心を買うために、渋谷なんかで具合を悪くしているのだ。
この場合、普段散々学習能力がないようなことを書いているのに、そんなことは気にするのか。とか、言わない。
そしてカバンの中は、まんまるさんの言う、「ちょっと珈琲でも飲んでいかない?」とは決して言えない状態なわけである。
違いがあるとするならば、パソコン、そう、命よりも大切なパソコンが入っていることである。スケジュールから、台本から、何からなにまで、そこに入っている。管理している。だから、そんなカバンでも、粗雑にはゾンザイには扱わないよう、日々心がけている。

そしてかの雨の日―
駐輪場は二階にある。
二階にあるから、一階まではスロープを下りなければいけないのだ。
そして、張り紙もしてある
「自転車を降りて、押して、下りてください。」
…わかっている。わかっているのだ。だがしかし、しかしである。
雨が降っている。だから、カバンの中で無駄と思われた折り畳み傘が役に立つ。
片手にはひらいた傘である。そして、自転車の籠には、それだけの重量を持ったカバンが鎮座している。右手しか空いていないし、その右手すら、カバンのストラップを、籠から出ないようにハンドルと供に握っている。それはつまり、押して下りる方が遥かに難儀に思われた。
というか、二階にいた段階で乗っていたのだが。

スロープは金属である。
雨の日はことさら滑りやすい事は誰にでもわかる。
だが、大体の場合、すべるーと思ってから、「やはり」となるわけだが、
案の定、私の自転車はそのスロープ、雨のふるスロープにやられ、前輪を滑らせ、思い切り転がったのである。詳しく言うと、前輪が結局持ち上がるような形になった。
あ、まずっ…
そう思った。それから完全着地までの間、それはもうスローモーション。
このまま倒れると、腰を打つ。
そういう感覚は運動をしていたからわかる。
だから受身の態勢に移る。
そしてまあ、こけたけど、雨の日はやっぱすべるよねーとか言いながら、照れ隠しをした…
で、終わるはずだったのだが、そのとき、上がった前輪(つまり籠部も当然持ち上がるわけで)に、私はカバンの存在を、結局の所「パソコンさん」の存在を見てしまったのだ。だから私は、しっかりとカバンを抱きこむ、そして仰向けに、受身も取れないままに倒れる、または落ちるという選択肢をひいてしまったのだ。

完全に腰から落ちた。
私の全体重、プラス自転車、プラス、その重すぎるカバンを腰一点で受けた。
金属部のスロープの横に並走している階段は勿論コンクリート。
これはもう軽い交通事故だ。
死ぬかと思った。
しゃれにもならない。 


しかしパソコンさんはと言えば、今これが書ける位だから、しっかり守ってやりました。

現在の私は背中痛、軽い感じのムチウチ、腰痛、三重苦である。
それでも、重さの変わらぬカバンを提げて、これはもう四十苦である。
やはりわたしはマゾなのか…

ごう








2004年10月02日(土)
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