母のタイムスリップ日記
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2002年08月31日(土) Oさんの送別会。


8月に 1度は触れようと思っていたが、とうとう31日。
戦後に生まれた私は、戦争を知らない世代。
戦後だって、よく 分からない。
 戦争を実体験した人が、少なくなってきた。
この夏、夫と「私たちが、戦後に体験した中から、何を
選んで伝えたらいいのだろうね。」と考えてみた。
 母子手帳には、ミルク配給。とか、今では考えられな
いような記入がある。この手帳は、娘に譲ろう。
 いろいろ考えても、説得力にかける。困った。
秋山ちえ子さんが「今年限りで、かわいそうなゾウ」の
朗読にピリオドを打った。
 戦後がだんだん霞みはじめ、世の中なんとなく変。
今の親世代は、どうやって、戦争をつたえるのだろうか。

 介護の話。
このごろ、当然のようにバスを利用してしまう。
母がいた時は、歩いて歩いていたのに。どんなに暑くても
汗を拭き拭き歩いたのに。
 あれって、母がいたから出来てた事だと思った。
夏が終わったら、少し切り替えて歩こう。
 母のように、足を丈夫にしておこう。

 今日、施設内がシーンと静まり返り人1人いなかった。
違うフロアで何かしているのだろうと推測した。
だから、掃除優先。
 3.40分して、皆戻ってきた。
どうやら、Oさんが、退所なさるらしい。
しっかり屋のOさんの存在は、貴重だった。何があったか
教えてもらったし、助かった。
記憶できる人が減るのは、淋しい。少し心配になった。
Oさんは、違う施設へと移られるらしい。
 今日は、Oさんの送別会だったのだった。

 戻った母は、「私も そろそろ家に帰りたいなあ」と。
気分を替える為散歩した。みごと、成功。

 介護士さんに、母が腰痛を訴えていたといわれた。
湿布で対応したが、どうでしょうね。ときかれた。
見てみると、時々痛む事のある場所だった。その旨を伝え
動きもおかしくないので、様子をみてくださいとお願いした。
 介護士さんは、母の生活にも触れ、「台所の後片付けが、
とても丁寧で・・・・。喜んで手伝ってくれるのです。」と
いってくれた。
 施設に、食器洗いは母の仕事だったとは伝えたが、シンク
まで、きれいにする事は伝えてなかった。
 よく、理解して貰える様になったのだと嬉しかった。









2002年08月30日(金) 今日は、少し過激かも。


在宅介護をしている時、母は、2箇所のデイサービスを
利用していた。
 1つの施設のデイの時は、失禁はない。
も1つの施設のデイでは、失禁が多かった。

 基本的生活習慣を大切にしたいと思っていたので、失禁
をしないで済むように 配慮していたので、トレパンが、
湿った状態になるとすぐ替えた。
 デイ利用の日も、必ず トイレに誘導して、きれいかを
確認。排尿、排便も促した。

 単純に比較は、できないが、2つのデイの違いは何かと
いつも、考えさせられた。
 おそらく、トイレ誘導のタイミングと、きちんとトイレに
行ったかの確認の違いなのではないかと推測していた。

 今の施設での失禁は少し多い。他での、ショートステイでも
多かった。
デイで出来た事が、施設でできないと言う事は、何が違うの
だろうかと考えた。
 介護士さんの仕事の多さによるのかなとも思うが・・・・。

 最近、1つのデイでのトイレの様子を知る事が出来た。
そこでは、痴呆の人は、流し放しや、物を詰まらせたり、
流し忘れが多いので、水を止めているというのだった。
 そこの施設を利用している痴呆でない人が直接 説明を
受けたのだから、間違いはないと思う。
 施設自体も、秘密にしようとはおもってないのだろう。
でも、デイ利用の時1度もそんな説明は受けてない。
こんな風に、施設に関しての情報は利用者から、入ってくる
ことが多い。
 それ以外にも、ある。
大きな声で言えないが、実習生の情報というのもある。
 実習生の場合、守秘義務があるので・・微妙だが。
また、資格がないのだから、正しい判断かどうかもある。
でも、人権に関してなら、資格以前の事だから、真実をみて
いるかもしれない。話を、半分に聞いても、判断材料になる。

 施設利用で1回は言われる言葉がある。
「本人が拒否したら、どうしようもないのです。」と言う事。
家族は、「そうか 拒否したのか」と受け止めてしまうが、
本当は、どうなのだろうかと思う時がある。
 施設に依って、精神誠意の結果 駄目だった。というのは、
案外伝わってくるのである。

 最近の世の中、隠蔽される事が多い。
痴呆の場合、忘れてしまうので、真実かの確認は難しい。
 そのためにも、良い事も悪い事も含めて情報を集める事は
必要だと思う。
「痴呆だから、どうせ判らないだろう。出来ないだろう。」の
姿勢は、その施設の介護の姿勢でもあると受け止めた方が良い。

 ちょっと、過激な表現になりました。
「情報を集めて、利用者に合った施設選びをした方がベスト」
と表現すべきですね。

 今日は、母の特養利用希望の確認が入った。
いよいよ、順番が近くなったようだ。
 特養は、徒歩5分程のところにある。私にしたら、近いが1番。
でも、施設を替えると母も混乱するだろうな。
また、いろいろ、長い目で考えてみる事をしなくては。
それよりも、施設見学。
古い建物は、2.3回見ているが、新しくなってからはみてない。
 グループホームとの比較も出来るようになったし。









2002年08月29日(木) 今日の失敗。


ボランティアに出た足で、母の所に向かった。
今日は、おにぎり持参だ。1度家に戻ると時間にロスがでるから。

 母は、居室で布団を被り腹が痛いと涙していた。
職員は、フロアに居なかった。
急いで、腹ごしらえをした。それから、いつものように母をトイレへ誘導。
今日は、久々にトレパンが ずっしり重かった。3.4回は 出てるかな。
 勤務者に依り 扱いが違うからな・・・・。
 硬い便がでた。それから、歯磨き。
動いているうちに腹痛は治まった。

 今日は、母の薬を貰うため 通院。
「施設では、食事とか皆で作っているの?」と医師から聴かれた。
そういうことは、やってない旨を伝える。「これから、施設が増えれば、
そういう施設も増えてくるでしょうが、まだ、この町では、初めての
施設ですから・・・。」
 母は、傍に居たが、耳が遠く 会話は聞こえなかった。
以前は、医師とのやり取りで母に聞かれて困る事は、メモにして渡していた。
今は、殆ど、その必要はなくなった。
母自身も、あまり 拘らなくなったのだ。
 今日は、血圧も安定していて 状態はよかった。

 帰路、デパートに寄った。
タクシーに 日傘を置き忘れ、探してもらったが見つからないのだ。
 娘の日傘なので、申し訳ないし・・・・。
そんな訳で、日傘を買ってしまった。( あーあっ。)
 母は、傍で日傘を楽しそうに見てた。

今日の母は、落ち着いていた。




 
 


2002年08月28日(水) お墓のこと。


母が病に罹る寸前にしきりに、気にかけたことがある。
それは、墓の事だ。
 母は クリスチャンである。
父は、所謂本家。墓を守らねばならない。
 クリスチャンになる時は、親族の了解をえていたが、
そのころ、周囲の人は、墓地の事までは 真剣に考えてはなく、
同じ墓に入って当たり前と受け止めていたと思う。
 母にとっては、クリスチャンになってから、ずっと 頭から
離れた事のない悩みだったのだが。
 それが、自分が 少しおかしいかなと感じ始めて、私に、
「遺言がある」といいだすようになった。
「遺言書を書いてのこせばいい。」と言ったら、お墓の事を
言い出したのだった。
自分が、判らなくなったり、急に死んでしまったら、
クリスチャン用の墓地に入れて欲しいと言った。
 母は、きちんと遺言書を書き、残してある。
父が遺骨となってしまい、お墓の事が、気になった。
父は、死んでしまってからは、どうなっても良いといっていたが、
クリスチャンにはならなかった。それは、長男の責任において
なれなかったのだ。
 いろいろ考えた末、葬儀の時、親戚の人に、「分骨したい」と
申し出たが、拒否されてしまった。
 知り合いのお寺の住職さんに相談したら、宗教上は問題はないと
言っていたのだが、親戚の人は、心境的に理解してくれなかった。
 仕方がないので、内緒で分骨し、準備した墓地に埋葬した。
だから、父の墓は、二つある。
 ところが、これも、難題であった。
墓地の事を弟に言ったら、「おれがやるよ」と言ってくれたので
任せたら、母のお金で買った墓なのに、建立者の名は、弟2人の名のみ。
母の名はなかった。その上、墓石に「愛」と刻んで欲しい言っていたのに、
マルマル家の墓と刻まれていた。そして、線香たてが付いていた。
 私は、自分で当たらなかったことを深く反省した。と同時に母の生き方
を理解しない弟に少し腹が立った。人の生きる道は、大切なのになあ。
 弟に、苦情は言ってないが、まだ どうするか決めてない。
実は、この夏 我が家の墓地のついて考えさせられることがあった。
これは、長くなるので後日に回すことにした。


  


2002年08月27日(火) 落ち着かない1日。


母は、居室で横になってた。また、具合が悪いかなと思ったら、
だるいから、横になってた「こんな格好してて、ごめん。行儀
悪くてね。」と謝られてしまった。
 介護士さんは、午前中腹痛をうったえていました。といってた。
まじまじと母の顔をみると、泣いた後が窺えた。
本人は、もう その事は記憶に無い様子だ。

 トレパンを替えようとトイレへ。替えのトレパンの在庫は、ゼロ。
一昨昨日、まだ、5枚あったので大丈夫と思ったが、こんなに早くに
なくなるなんて・・・。
でも、替えてないより ずっといい。
 介護士さんに頼み、1枚もらって 替えた。

Iさんは、娘さんとブルーベリー狩りにでかけた。
私は、母を連れて我が家へと向かう。
 今日は、風呂に入れたほうがよさそうだった。

 施設を出ると、母の頭の中は、すっかり帰るモードになっていた。
我が家に着いたときは、少し治まったが・・・・。

 入浴してる間、ひとつの作業(洗髪、体洗い、身体拭き等)が終わ
る度に、「ありがとう」を言った。
今日は、ちょっと いつもと違うなと感じた。
 風呂上りに、お菓子を食べたり、お茶を飲んだりしていたが、直ぐ
席を立ち片付けはじめる。時計をしきりに見て、「アー帰らなくちゃ」
とそわそわ。
空の様子もきになるらしく、「雨が降りそう。早く帰らなくちゃ。」

 仕方が無いので 気をそらすため 駅まで、歩いていく事にした。
歌をうたったり、話をしたりしたが、「帰る」気持ちはおさまらない。
最悪な事に、「帰る道を忘れてしまったみたい。あなた、一緒に
行かない?」と更に不安を増していく。「急には行けないねえ。」と
言ったり。私の予測の先先といってしまった。
 こうなると、何を言っても聞き流されてしまう。
バスに乗っても続いた。
 「明日、長男が迎えに来るから、待っててと言ってたよ。」と究極
の逃げ道に走ってしまった。
それで、何とか少し治まった。

 これほど、拘りを見せた母だから、施設内に入る時 どうなるかと
不安になったが、意外な事にすんなりと入った。
居室に戻り、本を見せた。でも、きょうは、目が輝かない。
 折り紙を出すと少し落ち着いた。

 2日続けて、尋ねなかったので 不安定になったのかな。











2002年08月26日(月) 忘れる事。覚える事。


先日から、日記を読み返している。
母が、施設に慣れ始めていることを具体的に確認してみた。
 母の「おかちゃん」とつぶやくような言葉は、だいぶ減った。
「家に帰らなければならない。」と言う事もなくなった。
でも、家に帰りたいと言う気持ちは、確実にある。
 施設全体に流れていた「帰るモード」は、始めの頃と比べて、
沈静化したと思う。
 施設を「家」と思う人は居ない。
でも、職場、寮、と認識して居るように思う。
 勿論、施設と認識している人も居る。

 痴呆の進行に拠り沈静化したかなとも、考えたが、違うと感じた。
忘れる病気とは言っても、ここで、毎日生活して居る事を学習した
ように感じるのだ。

 一昨日、外出から戻った時、建物の前で、職員の方と会った。
その時、職員と認識して、「ただいま」と母から言った。
 これも、認識出来ている事だろうと思った。

 片方で、忘れていく事もあるが、覚えていく事もあるから不思議な
病だと思う。覚えるとは言っても、通常の生活ができる人から見れば、
「何それ?あたりまえでしょ。」といった所の物なのだが、介護する身
からすれば、嬉しい事なのだ。
 若年性アルツハイマーを罹ったご主人を持つMさんから、「まだ、
できる事沢山あるし、覚えても行くでしょ。」と言われる。
「家は、そういう所を通り越してしまったわ。でもいつか、きっと・・。
急に何かができるようになるかも・・・。と希望は捨てない。」とも。

 介護に押されて、疲れ果てても、ちょっと良いことがあると特別に
嬉しく感じる物だ。
 逆に、疲れていて、困った事が続くとその疲れは倍増しても来るのだが。


 


 


2002年08月25日(日) 強烈な思い出。


今日は、「東京ZAZZ」。東京スタジアムに行った。
楽しかった。6時間もの長い時間にわたり、たっぷりとZAZZに浸る。
 私のような年齢層ばかりかな?と思っていたが、エレクトロニック
ジャズも有り、DJもあったので、若い子も結構いた。
 さすがに、若い人達の乗りは いいな。
今日のこの時ばかりは、母の事を忘れた。正確に言うなら、少し思い出した。
それは、これだけ ズンチャズンチャの音なら母も楽しめたかなと思ったの
だった。
 ビール片手なんて、最高。

 一昨日、母をお芝居に連れて出た事を書いた。
美術館、動物園、植物園は時々連れて行ったが、お芝居に行く前に、
大きなきっかけがあったのだった。
 それは、3.4年前のことだ。
夫の知り合いが、宝塚のチケットを2枚下さったのだ。
たまたま、行けなくなり、駄目にしたくないから、お母さんと出かけて。ということだった。
 それも、最前席だった。
母に「行く?」と聞くと「うん」だったのだ。
 母が宝塚に行くなんて 以外だった。
楽しめないかも・・・。と出かけたのだが、母は 「いいねえ・・。」を
連発した。席も良かったのだろうが、迫力もあったのだ。
 あれだけ、楽しめるのなら・・・・。とお芝居等に連れ出すようになった。

 私には、宝塚のチケットを買ってあげる気力はない。
売り出し日の根性の入った列に並べない。

 宝塚の事は、2年は母の記憶に残った。プログラムと冊子を取ってあり、
読み返しては、「行ってきたね」と口にしていた。
 きっと、強烈な印象だったのだと思う。



2002年08月24日(土) 季節が変わったら出かけようね。その1・その2

 8月23日(金)
  昨日、母と散歩をしている時、「どっかに、出かけようかね」
 「何処に行きたい?」と尋ねてみた。
「何処でもいいよ。あんたに任せる。」と母は言った。

 「海?山?」「うーーーん」と考えて、「海かな」
「じゃ、混まなくなって、もう少し涼しくなったら出かけようね。」

 そんな、会話を交わしたので、何処に行くか具体的に考えなければ
と思った。

そういえば、2年前までは、美術館にもよく出かけた。母も、楽しんで
いた。お芝居、寄席、コンサート、いろいろ連れてでた。
以外に駄目だったのは、お芝居や、寄席だった。
耳が遠いので、つまらなかったのだと思う。でも、コンサートはOKだった。
 植物園も、動物園も好きだった。ただ、園内をかなり歩くので、
足が疲れるようだった。此れからは、そういう場所では、車椅子を
借りようと思ったほどだ。

 ホームに入ってから、そういう場所へ行く事が、減った。
これは、私の怠慢かな。季節が変わったら、時間をうまく使って、
外出を試みてみよう。

 8月24日(土)

 昨日、朝から土曜モードになっていて、日付けを間違えた。
夫も、娘も「夕食要らない。」といった。
そんな訳で、今日は、久々母と外食。
 施設に着くと、母は居室で窓辺に佇み涙を浮かべてた。「どうした?」
「なんでもない。心配掛けるね」母は精一杯我慢してた。最近、我慢を
強いてないのだが、どっかで覚えていたかな?
 「出かけて食事しよう」「肉かな?魚かな?」「肉だね。」泣きの
モードは消えていた。
 レストランで、ボルシチ風ハンバーグステーキを食べた。私は、魚。
その後、母はショートケーキもぺろりと食べた。「おいしかった。」
らしい。
 帰り、読みたい本があったので書店に立ち寄る。
目当ての本は無かったが、TBSラジオの土曜ワイドで、紹介された「声に出して読みたい日本語」斉藤孝 著が目に留まった。
面白そうなので、母に見せた。
 母はひとりでに声を出して読んだ。
「此れはいける」と思い母に買った。
母の記憶にとどまっている言葉なので、読み半分。空半分。と言う事
だろう。
 これは、大収穫だった。
7時前施設に着き、母は、手仕事を始めた。「じゃ、帰るね。」「うん」。
別れは、スムースだった。

 明日は、私が、東京ジャズフェスタに出かける。
楽しみ。お天気程よくあってほしいな。


2002年08月22日(木) お菓子食べた?


ボランティア再開。
朝から、3時間(今日は、初めての所なので、30分多い)
ごみ捨て、掃除、尿瓶や溜まった尿の処理、買い物、食事作り
話し相手。流石に、疲れた。
 ボランティア終了後、その足で母の所に向かう予定だった。
でも、昼を回り、お腹はぺこぺこ。家に戻って昼を摂った。

 昼食後どっと 睡魔が襲った。
けれど、母の事も気懸かり。葛藤の末、自転車に乗り母の所へ。
「きてくれたの。来ないと思った。」まともとも思える母の
言葉だった。嬉しそうだった。

 母の着ていた衣類は、きれいだった。
ロッカーを開けたら、いろいろ物が移動していた。
いつもなら、触らない物まで移動していた。その中に、干菓子を
入れていた。それは、食べてしまったみたいだった。
 別に、腐っている訳でないので大丈夫だし、量も多くないので
心配はないが、これからは、そこには置けない。

 暫くして、散歩に出た。
川沿いの道を歩いた。足取りは軽かった。歌を歌いながら歩いた。
今日は、歌詞をきちんと、覚えていた。「疲れない?」と幾度か
聞いたが疲れないようだった。
一昨日の倍以上歩いた。

 戻って、歯磨き。ちゃんと、できた。
「あのね、朝起きたら、ちゃんと磨こうね。歯がぐらぐらしてくるよ」
「うん。直ぐ忘れてしまってね。そうするよ」
 一応 会話になっているが、何処まで通じているかな?

 職員の引継ぎの前に散歩に出て、25分ほど経過して戻った。
でも、まだ、引継ぎ中。(談笑中)
 Oさんが、ずっと、チョキを作って待っている。
少し大の臭いがする。Oさんの目に涙。・・・・・・・。
 私がしてあげたいけど、部屋に入る訳にも行かないし・・・・。
今回は、目をつぶった。
Oさん、ごめんなさい。




 
 


2002年08月21日(水) 妄想の世界。

 痴呆症で、妄想の世界に入り込み、介護者は対応に苦慮する
ことが多い。
 子育ての過程でも、似たような事が事があるのに、それは、
微笑ましいと受け止める。
 現に、私の娘は、幼稚園時代に、「あのね、今日 幼稚園のお庭に、
ドラエモンが遊びに来たよ。」という日が続いた。あの時、何が原因
でこういう話をするかなと考えたが、娘の話は、直ぐ受け入れた。
 でも、母が「おかあちゃん来てたのにどこいった?」と言うと、
「もう、亡くなった人でしょ。」と言う感覚で、受け止めてしまう。

 二つの事例は、同列では考えられないのだろうけど。
母の言動に、イライラした時、その事を思い出すようにした。
 母自身も、子育ての途中で、そんな自分を受け入れてくれたのかも
しれないし・・・。とも思った。

 そうやって、少しずつ母の妄想を受け入れられるようになった。
ホームに入ってからは、もっと、楽に受け止められる。
 今、在宅で、毎日毎日その妄想が繰り返され、大変な思いをしている
介護者も大勢居るのだろうと思う。疲れないように・・・。つぶれない
ように・・・。といつも思う。

 あしたは、母のとこに行けるかな?
 


2002年08月20日(火) 気が付かなかくて、ごめん。


面会に出かけると、責任者のNさんが、
「担当の者が、話があるということです。」と言った。
居室に行くと、入浴の迎えに来た担当の人が居た。
そこで、母の着替えを1日分ずつ、袋に入れ1週間分職員が、
預かってよいか?と言う事を話された。
 私も、気になっていた事なので、「うまくいくか解らないけど、
試してみてください。」と依頼する。
居室の衣類が多少減っても、本人は、あまり気が付かないと思う。
と伝えた。うまくいけば嬉しいとも伝えた。
この話は、嬉しかった。こういう関係を、求めていたのだ。
 こちらから、頼むと負担を増やす事になるかなと思っていた。
施設側から前向きの対処を聞き、一緒に母の事を考えられて、
本当に良かった。

 母が入浴してる間に、ホールで入居者の方とお茶して、話した。
お孫さんの来ていたIさんは、お孫さん話をしてくれた。
いつも、穏やかなI氏に、花火大会の事、戦時中の話をきいた。
車椅子のO氏は、お酒と思ったら、お茶だったので、悲しくて、
涙をこぼされた。その後、Oさんは、親指と人差し指で、チョキを
作り、居室をさした。これまでも、そういう仕草をしていたので、
癖なのかな?と思っていた。
 ところが、これは癖ではなく、トイレの合図だったと知った。
脳梗塞等で1人で動けなくなると自力の排泄は困難だ。
 痴呆で、脳への伝達が遅れると、排泄の失敗もある。
けれど、排泄に関しては、プライドがあって、いろいろ難しいらしい。
デイや、在宅の場合割りに排泄は上手くいく。
この辺も、プロとして、改善できるようにおもうのだが、難しいかな。

 風呂から出た母が一息つき、暫くして、外出した。
300メートルほどの所のドラックストアまででかけた。
たった少しの距離だが、疲れたと言った母。
 久し振りの散歩 風呂上り と言う事で大変だったかな・


2002年08月19日(月) 手書きの日記。

昨日の日記に、数年前の母の事を書いた物の
多少、話がぼやけているような気がして来て、
過去の手書き日記を広げてみた。
 読み返してみると、忘れかけている事がたくさん
あった。
 時に、前の物を読んで見る事も大切だなと思った。

 今日は、「家族の会」に出かけた。
月に1度のこの会でいろいろ、学ばされる。
 新しい方が数名参加された。丁度、初期の頃の
母の事を書いた日記を読み返したばかりだったので、
新しい参加者の方の気持ちをより近く感じられた気がする。

 介護の訪問が、木曜日より始まる。主に、家事援助。
掃除、洗濯、買い物、食事作り。今度は、昼をはさんで、
3時間。少し長い。週1回だからできるかな。

 何を学ぶことができるのだろう。

 今日は、台風の影響で雨と言う事もあり、「家族の会」も
ありで、母を訪ねなかった。明日は、出かけようと思う。




 


2002年08月18日(日) どっちがいい?


母が、ホームに、入所して私の生活は変わりつつある。
例えば、家事を中断しないで住むようになった事。
 キッチンのお掃除をしていて気が付いた。
換気扇を外し、レンジフードを磨いてる途中で、母のそわそわが
始まる。すると、仕事を投げ出し母の相手をした。
ボール遊びだったり、百人一首だったり、歌だったり、いろいろだ。
室内で治まらないと、散歩。
 不思議な事に、朝だけはあまり、トラブルがない。
そわそわしていたら、こちらの支度が済むまで、寝ていてもらう。
それでも、パジャマのまま数分毎に起きて来て「今日、やすむ」と
言う。「はい、わかりました。電話しておきます。」と返事すると、
また、母の部屋へ戻って行った。
 すこし、鬱陶しいけれど それ以上のことは起こらないのが朝。
昼、夕方は、状況が異なる。
 刺激しないような声がけをしていても、異常に興奮してしまう。
きっと、こちらが疲れはじめて、母の心を安定するように出来ない
側面もあると思われるが・・・・。
 興奮は、拘りを持ってピークを迎える。
「家に帰る。一人でも帰れる。」と玄関でストライキが始まる。
玄関は、チェーンを掛けているので、1人で出ようとしても少し音が
して、多少の時間もかかる。だから、徘徊は無いが。
興奮は、治まらず、母を外に出し、その後ろを黙って、付いて行く
しかなくなる。
 母の目に留まらぬように、物陰に隠れながら見守る。
時に立ち止まる母。でも、声がけ時のタイミングもある。
あまり早すぎると、同じことを2回繰り返してしまう。
 帰り道が、解らなく泣き出す1歩前が、程よかった。
困るのは、知らない人に道を聞く時だ。聞かれたほうだって、困るのだ。
「駅は、どっちですか?」ねえ、駅と言ったて、いろいろあるのだから。
そんな時は、母は、聞く人の方を向いているので、私は、母の背の方に
立ち、両手を合わせて、頭を下げた。それでも解らない時は、自分の頭
を指して見せた。すると、大体の事は飲み込んでもらえた。
 20分で済む時もあれば、1時間かかるときもあった。
そんな風に、仕事が中断していた。
 今は、そういうことが無い。
私の重荷は、少なくなった。
 でも、母自身は、どうなのだろう。
・・・・
・・・・
 施設でも、帰り支度の後があるのだから、きっと、似たような事が
起きているのだと思う。職員の人は気が付かない時の方が多いかな?
気が付いても、気が付かぬ振りをする事もあるだろうな。
 外には出られないのだから、(エレベーターボタンが違う)独りで
諦めるのかな。
・・・・
・・・・ 
 果たして、どっちの方が母にとって、良いのだろうな?
過去の事を記憶してられない母に聞けないしなあ。
私自身の事は整理できても母の気持ちは簡単には引き出せない。、+ 






2002年08月17日(土) 今日の出来事。


 私が、母と面会するのは、1日の中のごく1部。
だから、1部分しか見てない事は解る。
母のような病の人は、1日の中で、幾度もお天気が変わるのだから。

 面会時の始めは、物を定位位置に戻す。
歯ブラシ。タオル(トイレと洗面台)。パジャマ。手作業の物。
そして衣類。これらは、毎日、あちらこちらに移動している。
 そのまま、放り出した事が無いのでどうなるか、解らないが、
無いと、困って、右往左往し、心の安定を無くし不穏になる筈。

今日は、トイレのタオルが見つからず探した。置きそうな場所を、
探しても見つからない。洗濯行きかな?と諦めかけた頃、見つかった。
押入れの布団の隅に何かを包んでいる様にみえた。
広げると、大で目茶汚れたトレパンだった。
 「そういえば、トイレ大の形跡あったな。」と思った。
トイレタンク上の手洗いに茶色の汚れが、転々とあったな。
ひとつひとつの事をつなぎ合わせると1つの出来事が見えてくる。

 介護士さんが来て、「今日、入浴してます」と言った。
汚物があったことを、知らせた。入浴の時はきれいだったという。
 母を、トイレに誘う。汚れは無い。と言う事は、起床前か朝食前後
の時間にしたのだろうな。
取り敢えず、完全ではないけど、1人で処理できる所まで出来ている
のだから、良しとしよう。
 でも、在宅なら、此れは無いな。

・・
・・

 入浴してると言ったので、美容院に連れて行こうと思った。
母の頭の中は、「家に帰る」モードになっている。
バスに乗り、でかけた。
 いつも、来ているので、違和感はないが、すこし混んでいた。
待っている間に、「もう帰ろう」が始まった。指相撲をしたり、
お菓子を食べさせたりで、気を紛らす。
やがて順番が来たが、パーマ液を定着させる時 また、始まった。
薬が、目にしみる。(たれては無いようだが)首の辺りがちかちかする。
等、様々な訴えが始まった。
 持参のお茶を飲ませたり、キャンデーをあげたり、ジャンケンを
したり、本を見せたりとして、ようやく、終わった。
「今日は、ご機嫌 すこし悪かったね。」とオーナーは笑ってた。
・・
・・
 必ず、そうだ、と言う訳ではないが、本人が強く混乱すると、
こんな風に、1日尾を引いてしまうことが多い。
軽めの痴呆だと、1日以上尾を引いてしまう。
 この辺が、介護の難しい所だと思う。
・・
・・
 いつもの事だが、美容院を出て、帰路のバスを待つころには、
頭をきれいにした事など忘れてた。
今日は、美容院もあまり楽しくなかったのだろうから、母のとっては、
面倒な1日だったかな。

 





2002年08月16日(金) デイの盆休み。


昨年のお盆は、夫の友人が7名ほど来訪、母は、デイが休みで、
忙しかった。
 今年は、夫も、娘もお盆休みがない。
いつもと、同じ様な生活が続く。
 盆、暮れは、デイが休みになる。職員の人もその頃、休日が
必要なのだろうと思う。
でも、介護が、大変になると、デイの休みは、堪えた。
母の場合、週4回のデイだったが、普通の休みに盆休みが加わると、
1週間の在宅が続いた。
 よく歩けて、話も通じていたら、あちこちに外出できるので、
ちょうどよいのだが、重くなると、外出して疲れたと思っても、次の日
休むことなく世話が続くのだ。
 後半は、デイの始まるのを、指折り数えた。
以前にケアマネさんと話した時、デイがお休みだと、介護放棄する家族
もいて、それはそれで悲惨で、休日なしにしようかと悩むと聞いた。


 それで思い出したのが、月曜利用のデイは、休日振り替えとなる回数
が多く、3連休が増えた。
 こういうことは、だんだん解消されるのだろうが、まだ残っている
のだろうと思った。
 今の私は、こちらの都合で母を見る事が出来るようになり、助かるが、
在宅介護を続けて居る人は、大変だったのだろうと思った。
 だから、家族に盆休みが無い位、大した事も無いと思った。


 介護保険も、だんだん見直されてくるが、利用し易い、また、各家庭
にあった利用が出来るように、メニューが増えればいいなと思う。
こういうことは、行政や、施設に訴えていく事が、必要だと思う。
 私たちが利用するまでにいいものに育てなくては・・・・。



2002年08月15日(木) キーボードでも持って行こうかな。


久々に母を、家まで連れてきた。
バスを降りた時、「見た事のある景色」と眺めていた。
 家の近くに来ると、もう解っていた。
いろいろの事忘れてしまう母だけど、地理的なことは、
記憶に残るようで、嬉しい。
 でも、一人で歩き廻れるわけではないのだが・・・・。

家では、お稲荷さんを食べてもらう。それと、ナスの漬物。
これは、母の好物でもある。母の口に合うように作ったので、
「おいしい」と言われると、やはり嬉しい。

入浴後は、デザートのアイスクリーム。
おそらく、此れも久々の筈。残すかなとおもったがぺろり。

 その後、歯を磨いてもらう。
入れ歯を外し容器に入れた。ブラシに磨き剤を付けてわたす。
母は、磨きだした。コップに水を入れ洗面台に置く。
磨き終わると、水道で、ブラシを洗った。そのご、コップの
水で、口を注いだ。
 その間に、私は、入れ歯を磨いた。
母は、今日は、ちゃんとできた。入れ歯もこの調子だと、
自分で磨けるなと思った。在宅の時は、出来ていたのだから。
 やったね。

暫くたつと、そわそわ 始めた。
「どうしたの」と尋ねると、「かえらなければ・・」と言う。
ホームをさしている訳ではないが、ホームに向かうことにする。
 
 家の玄関を出る時には、ここで、何をしていたかは、
きれいさっぱり忘れていた。瞬間が、楽しく過ぎれば、それで良し。

母は、夜 1人トイレに起きる時がある。
在宅の時は、そのため、1晩中、トイレの電気を付けて置いた。
 ホームで、夜 トイレに起きると電気を付けずに入り、出られなく
なってしまうと聞いた。在宅時のことを話し、それでも、明かりを
きる時は、お醤油のボトルキャップでスイッチにカバーをつけてみて
下さい。と数日前頼んだ。
 今日見たら、ちゃんとキャップがしてあった。
言った事が、此の頃良く伝わり、改善して貰えて嬉しい。

 歌の譜面を届けた。
今度は、譜面を見て弾けるかな。母は、もうできないけど、出来る時に
出来る事を楽しめるのが1番だもの。いや、母も刺激を受けて弾くかな。
弾ければ、楽しいだろうな。
 今度、キーボードでも持っていこうかな。





2002年08月14日(水) 期待してみる事。


昨日、何気なく母の歯を磨く手順を見ていた。
ブラシで、残りの歯を磨けた。その後で、コップの
水で、ブラシを濯いでいた。
今まで、コップの水で、口を濯ぎ、ブラシは、水道
で流し洗いをしていた。
「口」と声を掛けても、気が付く様子が、なかった。
手順を忘れてしまったか?
 この所、何かおかしいと思っていたが、ここの所が
おかしかったのだ。
 ま、磨く事を忘れてしまった訳じゃないのだから、
気にしない事にしよう。
ただ、磨く手順は、思い出してもらおう。
 できることなら、自分で歯を磨くことを思い出せる
ように、何か工夫してみようと思う。
 習慣性の物だから、ひょっとしたら、出来るように
なるかなと期待している。
 まだ、暑い日が続く。北海道の友人のはがきに、
雨が多く、気温が低いと書いてあった。
 暑いのは、こっちだけなのかな・


2002年08月13日(火) 止まらないんだよ。誰か止めて。

 
 最近、耳にしないが、「私馬鹿に成ったんだね」と母が時折
口にした。ふとした折に、自分がおかしいと気が付くのだ。
 デイに来ている人で、ホーム内を徘徊する人が、徘徊を続けて
居る時に、「止まらないんだよ。情けないね。誰か止めて。」と
涙を流していた。とケアマネさんから聞いた事がある。
解らなくなった人なのだけど、ふっと解る時があるのだよね。
と言う話になった。すぐ、其の事も忘れてしまうのが、救いでも
あるのだけど・・・・。

 仕方がない事なのだけれど、やっぱり悲しい。

 今日は、母が外出している所に行ってしまった。
様子を見て、家まで入浴しに戻ろうと、お風呂を程よい湯加減に
して出てきたのだが・・・。無理みたいと思った。

 下のフロアのYさんの所に面会に行った。
Yさんは、同室のOさんの事をくどいた。
気が利くOさんは、いろいろご指導下さる様だった。
 仕方ないね。と言うより他なかった。
ホールから、キーボードで、何か弾く音がした。
出て行くと、母と同じ職業だった人が、弾いていた。
Yさんと、一緒に歌ってみた。リクエストもした。
 忘れかけていたメロデーを思い出した様子でだんだん弾くのが
上手になった。
そうなのだ、時折繰り返せば、昔の事は、思い出せるのだ。
 今度、譜面を持っていってあげようとと思った。

母が帰ったと言うので、居室に戻った。
疲れ果てて、いた。でも、甘いお菓子と飲み物には、目を輝かせ、
食べた。看護婦さんが来て、Yさんの事など話し込む。
入浴に誘いに来たのだったと言った。
 暑くて、大変と思い、「私が入れます」と入浴させた。
母は、疲れて気乗りしないようだったが、入浴後は気持ちよいと
言った。
 
 しきりに、時間を気にしているので外に出る?と聞くと
いや、疲れたからいいと言った。聞いた限りではそう歩いた訳でも
ないようだが、最近歩いてないので疲れるのかな?



2002年08月12日(月) また、新聞読めるかな・


 今日は、曇り空だった。幾分涼しめ。
7月に寝込んだ分の仕事が気になった。
家の周りの草取り、落ち葉の片付け、鉢植えの移動。
 それっと、動き出し、可燃ゴミ回収までに、2つほど
纏めた。それから、伸びた、竜の髭を少し刈り込む。
家の周りの木下に、蝉の抜け殻が幾つもあった。
 ひき蛙は、涼と湿気を求めて移動してた。
あまりに乾燥していて可哀想なのでシャワーをしてあげた。
ブドウや藤のつるが飛び出して伸びていたので、整枝した。
そんなこんなで、今日も、3時間程かかってしまった。
 少し要領が悪いかなと思う。
若いころ、夏の暑い日に汗びっしょりで草取りをする母に、
「もう少し涼しくなるまで待てばいいのに・・」と思った
事があった。あの時の、母の心もこうだったかな?と思う。
 母は、私に、手伝うように言った。渋々手伝った記憶が
ある。
 私は、其れが言えない。小さい頃なら、言ってきたが、
もう、言って、させる年齢でもないと思う。
いつまでも、親の傍に居るとも限らないのだし、だとしたら、
さっさと子離れしていく方が懸命と思う。
 間違いかな。
 ・・ ・・
 ・・ ・・
 この所、母が新聞を読まない。
この病の不思議なのは、いったん出来なくなった事でも、
急に、また出来るようになる事がある。
 私は、しゃにむに、継続させようとした事もある。
でも、そんな時は、決まって出来なかった。
こちらが、息を抜きかけ、忘れてしまいそうな頃、ひょっこり、
出来てたりした。そんな時、とても、驚き、母の両手を取り
「やったね」と小躍りした。
そんな事を幾度か繰り返すのだ。
 これは、介護者に喜びを与えるための配慮かなと思ったりする。
夫いわく「、しらばっくれているんだぞ。」
 そう言う訳でも無いと思うが・・・・。
母は、また新聞を読んで、悲しい記事に涙を流す時が来ればいいな。



2002年08月11日(日) 不覚、寝てしまった。


 あまりの暑さに、面会に出かける気力を失う。
昨日、玄関前のレンガの目地の汚れをゴシゴシと掃除。
炎天下、2時間近くかかって作業した。
腕の疲れはさほどでなかったが、かなり疲れたらしい。
昼前、ウトウトしたら、お昼を飛ばして、2時ごろまで
眠ってしまった。不覚だった。
こんなこと、あまり経験がないので、自分で驚いて
いる。
 
 それでも、母のことが気になり、夫の車で送ってもらう。
夕食前で、テーブルについて、皆、ぼんやりしてた。
母の頭を撫でて、「来たよ」と合図したつもりだったが、
私の顔見て、「あー」と言う風だったが、動かなかった。
 私は、居室に入り、荷物の整理と、トイレと居室の
掃除をした。それから、母を呼び、体をタオルで拭き、
着替えさせた。入れ歯の洗浄をしてる所に、介護士さん
が「夕食ですよ。」と迎えに来た。
「今日は、きがえています。入れ歯も、これからは、
磨くようにします。」と言ってくれた。
 入居時の聞き取りの時、「支度してあれば1人でやれます。」
と言ったら、「こちらでも、やります。」と言っていたのだが、
やはり、して貰ってなかったのだなと思った。
 母の歯は、僅か数本残っている。グラグラなのだが、
磨いて、残す方向で抜かずに居る。これは、歯科医と、相談の
上決めた事。
 でも、磨かないと、膿んでくるので、困るのだった。
指摘するのも、憚れて、面会の折、磨いてきた。
 Oさんが、同じフロアの時は、ちょっと声を掛けてくれて
いたので、磨けていたのだが・・・。
フロア全体が、人の事まで配慮できない人ばかりになると、
困った事も出てくる。
 母の重ね着が、気になっていたが、よく見ると、みんな、
長袖を重ねて着ていた。室内は、冷房も強くない。
どうして、その辺のコントロールしてあげないのか不思議だ。
見て、2枚と解ったら、「暑いねえ」と1枚脱がせてあげれば、
お終いなのに、裸にならないでもいいし・・・。
 たった、7名。難しいのかな?


2002年08月10日(土) 介護者の安眠って。


 母が施設に入り、私の生活の中の変化の1つに、

睡眠途中で、起こされなくなった事がある。

 最終トイレ誘導が、午前1時前後、私も其れを機に、

眠りに入った。

 でも、母は、2時から3時、若しくは、5時前後に

「お腹が痛いよ」とか、「おかあちゃん」とか叫び

その声で目覚めてしまった。

 始めのころは、「静かにしてね。皆眠っているから」

とか、「怖い夢見た?」とか優しく対応してた。

でも、長く続くうち、もう、機械的にさっと飛び起きて、

トイレへ連れて行ったり、背中をとんとん叩いて、

眠りへ誘導した。毎日続けば、疲れもたまり、その後も、

コテッと寝てしまった。

 時には、目も覚めなくて、夫より「ばあさん、泣いてるぞ」

と起こされたりする始末だった。

 朝用のお目座に、飴を2・3個置いたりもした。

うまく行けば、飴をなめて、静かにしている事もあった。

 よく、眠ってもらう為に、散歩、寝る前のストレッチ体操。

気持ちを安定させるために、歌を歌ったりも毎日続けた。

 いろいろやっても、眠らなかった時には、呼ばれても、

傍に行かず、放っておいた事もある。

いつも、いつも、100パーセント満足な介護を続けることは、

とても、難しい。病気でなくともけんかしたり、言い合ったりは、

多少あるのだから、仕方ないねと自分に言い聞かせた。

 結局の所、母に都合の悪い事をすれば、母は安定せず、

ますます訳がわからなり、落ち着かせるのにそれ以上の労力が

掛かってしまうのだから・・・・。

 その付けは、自分に返るのだった。

 今は、途中起こされる事もない・・・。

今、24時間介護で、深夜のオムツ替えをしてくれるサービス機関

があるが、そういう時って、物音で、介護者は目覚めないのかな?

と思う。どんなものだろう?







2002年08月09日(金) ビールもう1杯。えっ?


朝、Y さんのお友達から、電話が入った。

昨日、施設にYさんに会いに行ったとの事であった。

Yさんは、前日に、知り合いが会いに来てくれた事を話してくれ、

今日も、あなたがきてくれて嬉しいと言っていたらしい。

 その友達は、Yさんが、元気で本当に良かった。と言った。

Yさんの、家族が、面会者名簿の中にその友達の名前を入れていた

と、今日職員から聞いた。

家族から、友達に施設入所の知らせは入ってなかったので、不思議な

事だなと思うと同時に、良かったなとも思った。

 お友達は、足が弱って、直ぐには行けないかもと言っていたので、

暫く、面会もないだろうと思っていた。

 かなり、気になっていたのだなと解った。

 ・・
 ・・
 ・・
 母は、居室で泣いていた。

お腹が痛いらしかった。

いつもの事なので、トイレへ誘導。少し便が出たので、排便通だと

解った。水分を取り、おやつを食べる。

 甘い物に目がなく、「おいしい。」と言ってよく食べた。

入浴した形跡がなく、風呂に入れたいと思った。

そこに、娘と同じ年の職員がちょうど来た。

「明日は、入浴あるかなあ?」と聞いてみる。

「明日は入れます。」「お風呂に入れてあげたいけど、この暑さでは

連れて出てもね・・。」と言うと、時間を見て「わたし入れますよ」と

言ってくれた。

他の仕事も有りそうだったので、浴室を使わせてもらう事にした。

 「ありがとう。」「気持ちよい」と母は、幾度も言った。

入浴後、責任者の看護婦さんが用があってやってきた。

 この所の母の様子などを話してくれた。

その中で、驚く事があった。

 なんと、母がビールを飲んだと言うのだ。

「えっ?」と聞き返すと、お祭りで、みんなが飲む時母にもコップを

渡したら、乾杯の前に一気にぐびぐびと飲み「もう1ぱい」と言ったと

言う。職員も、酔ってしまった母をみて、「麦茶」に変えてみたが、

「アルコールが入って居るのがいい」と言ったと言うのだ。

若いころ、家族がビールを飲んでいると「私も少し貰う」と飲んだり

したが、お代わりするほど飲んだりしてないし、最近は、安眠出来れば

いいなとビールや梅酒などを勧めても「アルコールが入っている」と

いって、口にするのを嫌がっていたのだった。

 だから、本当に、驚いた。

デイの忘年会でも、飲んだと聞いたことがあるので、「そうなんだ。」

と思った。きっと、わーっという雰囲気で飲むのだろうな。

 それも、いいね。と思った。





 








2002年08月08日(木) 独断的思考。その1.


 昨日、母のところで幾人か、顔見知りの人に出会う。

おそらく、以前、母と同じデイに通っていた人だと思う。

敬老会等に参加した折、同じテーブルだった人とか、送迎バス

で見かけた人と思う。

 以前のケアマネさんから、「同じデイから、入所する人割りに

いるのよ。」と聞いていた。

あまり、他のフロアに行かなかったので、解らなかったのだ。

 それ位、プライバシーが守られている。

けれど、利用者の家族が分断されているようにも思える。

夏祭りも、「それぞれの家族が集まってもねえ・・だから、家族

は呼びかけませんでした。」と責任者の人が言った。

 前の利用していた、デイでは、新年会。敬老会。と家族が、顔を

会わせる機会を作ってくれた。

職員と利用者と協力して、箸置等作ってた。

 職員の人と普段の様子を話したり、家族と情報交換したり、

お互い連絡を取り合うまでに親しくなった。

 職員の人も大変だと思った。時に行事等で、利用家族にボランティア

をお願いする事もあった。

参加、不参加自由。参加しない人が外される事もなかった。

そこに、助け合いの精神があった。

 利用している時も「いいな」と思ったけれど、今でも、あれは、

お互いを認め合え、介護つながりで支えあえる良い機会だと思った。

 施設の職員は、プロかもしれない。でも、介護と言う面では、

家族だって、1人に対してはプロだと思うのだが。

家族のあり方も、人様の様子を見て、自然に学べる事だってある。

 よりよい介護を達成するためには、プライベート重視型よりも、

開かれた施設の方がよいとおもうのだが・・・・。

どんなものか・・・?

私の独りよがりかな? まだ、いろいろ言える立場じゃないし、

また、そういう雰囲気もないしな・・・・。

そうだ、暫くお休みだった介護ボランティアいよいよ再開しそうだ。
     


2002年08月07日(水) この暑いのに・・・。

 

 昼食が終わるころ施設を訪ねた。

職員の人が、「いいんですか?」と尋ねた。

「はい、もう感染する事はないそうです。」と答えた。

職員の人が、母を呼んでくれた。母は、不思議そうな顔をして、

やって来た。「どうしたの?」と問うと「帰るの」と言う。

居室に入ると、そそくさと荷物をまとめ始める。

 私は、母を見ながら、部屋を整理。

この数週間の空白を今の母は感じてない様子だ。

 母の中では、毎日お天気が変わるのだろうから、今日のように

すごしていた訳では在るまい。

 部屋の隅に、クロバーとウツギの花がコップに挿してあった。

腕を見ると、日焼けしていた。散歩に出たのだとわかった。

 あれもこれも、と母は、袋の中に詰め込む作業を続けた。

押入れの中に、使ったトレパンが入っていた。娘が、「なんか臭うの」

と言っていたのが、此れだったかな?と思った。

娘は、探しきれなかったのだろう。

 パジャマの上がなかったり、タオルがなかったりいろいろ消えて

いるものがあり、また、母の物でない物が紛れ込んで居たりした。

 それらも、職員の人に渡す。

母をトイレに誘う。ぱっと見は、半袖Tシャツで夏の姿だったので、

気にもしなかった。でも、トイレで下着を下げたら、長下ズボン。

トレパン汚れた物を2枚重ねで着用。やれやれ、と上も脱いでもらう。

すかし編みのカーデガンの下に半Tシャツ。その下に長袖シャツ。

その下に、半袖シャツ。うーん。納豆になってしまう。

 見極めるのは、大変かもしれないけど、どうなのだろう?

全部着替えた。体もタオルで拭いた。洗髪してあげたかったが、

つれて出る元気がないので、ブラッシングで勘弁してもらう。

 昨日は、施設は、夏祭りだったらしい。

浴衣を着たと職員の人はいった。

 今日は、皆で、フルーツポンチを作る。と言う。

母を外に連れ出す元気がなく、そちらに参加してもらう。

その間、居室とホールに掃除機をかける。

 そして、あのYさんと対面。

前もって、職員の人が面会を予告していたらしい。

誰かなと待っていた。私の顔をみて、あっと声を挙げ、目には涙。

しばし、2人抱き合った。「よく、ここがわかったね。」と彼女は

言った。それから、ひとしきり此れまでの事を話してくれた。

 正しい所、そうでない所あるが、概ね合っていたのでほっとした。

急激な進行は、なかったみたいだ。でも、私の名前がわからない。

それでも、ふいに、娘の名前を口にした。関連は、解っていたのだ。

職員の人が、冷たい飲み物を出してくれた。

 その後、母の居室に行く。「あー」とお互いに言ったので、解る

のかなと思ったら、昨日の夏祭りで顔を合わせていたのだった。

今まで、我が家、彼女の家と何回か出会っているが、記憶には、

残ってなかった。

暫く遊び、話して、Yさんを部屋に送る。Yさんは、よくお話をして

くれるOさんと同室だった。

世話好きのOさんだし、母よりはまだまだわかるYさんなので大丈夫。

と勝手に思った。

そう、Yさんは、「ここで、残りの人生を送る」と言った。

 それ位、今は、判断できるのだ。よかった。

母の帰りたい願望は、最期まであったが、「暑いから、涼しくなって

からにしよう。」の声がけに納得し、編み物をはじめたので、帰宅。



2002年08月06日(火) 全快です。花火です。


 通院。

血液検査、レントゲン検査。異常ありません。

まだ、多少、咳は続くでしょうが、もう大丈夫です。

 この言葉待ってました。

「こんな風にならない内に・・・。」と言いながらドクターは、

カルテを見た。きっと、その次の言葉は、早めに通院と来るのだろう。

でも、ドクターは、次の言葉を飲み込み、「この度は、最悪の状態の

一歩手前だったのです。こうならないように、ねっ。」と言った。

 そうです。良い経験をしました。何事にも、隙間があるのです。

今度は、注意深くします。若くない事も自覚しました。

 と言う訳で、今日は、地元の花火大会。

例年なら、母、娘と3人で、近くの高台で見物するのであるが・・・。

 通院が思いの他時間がかかって、母のところまで行く気力なし。

娘は、朝帰りの勤務続行中。

夫も、仕事立て込み状態で、私一人花火見物。

 いつもの所にでかけたら、背丈程に草が伸びて、花火は見えなかった。

場所を変えて、高台の橋へ行く。

 そこは、地元の住人だけでなく、わざわざ観に来た人もいた。

普段は、人影などないのに、今日は、すごい混雑だった。

 下を、車がわんさか走って少しうるさい。

自分の事を棚に上げて言うのもなんだが、この暑い平日の夜に、

実際の場所から少し離れた所で、お店も何もないのに、よく集まるね。

 でもね、これって、夏 て気になるんだよね。

猫の顔、ニコニコマーク、近代的なアレンジ花火を取り入れながら

花火は展開した。1人なので、柄にもなくうるうるときたが、充分

楽しんだ。私は古典的花火が好きです。色もない火の色の花火が。

 近所の人とも久しぶりに出会い、言葉を交わした。

ま、明日からは、ぼちぼち 行きます。

まずは、母のところに、GO.









2002年08月05日(月) 病院に入所したYさんのその後。


 Y さんの事が、解った。

Y さんの近所で、サポートしてくれていた友人から、

電話が入った。

 どうやら、母と同じ施設に入所できたらしい。

目の前にある病院なのにどうする事も出来ずにいたので、

ほっと一息。

 これからは、母に面会に行く度様子が見られる。

面会の手続きと言う面倒なこともせずに会えるのだから

嬉しい。

 おそらく、息子さんは、忙しい方で、住まいも遠いので

面会もあまり出来ないだろうから・・・。

 良かった。

明日は、通院。さて、どうなるかな?


2002年08月04日(日) 無理のない介護って?


面会に備えて、手芸糸を買ってきた。

綿の糸で丸く編めば、それ1個で、鍋敷きにも、鍋つかみにも

使え、花瓶敷きにもできるのだ。

編みきりなので、母には、手ごろな糸である。

 在宅の時も、せっせと編み、1シーズンで相当数仕上がり、

バザー等に出品してた。

編み物好きの母には、程よい材料だ。

 今も、夢中で編むと言っていた。

今まで、近くの店になく、電車に乗り30分余かけて、

買いに行っていた。それはそれで、母も楽しそうだったが、

今は、時間の制約や歩く早さなども考慮すると、なかなか出来なく

なっていた。

だから、近くに、扱う店が出来て、助かった。

 夕方、買い物にでたら、久しぶりにMさんと出会った。

M さんは、お父さんとご主人を在宅で介護しているのだ。

今、お父さんは、入退院を繰り返し、ご主人の具合も気懸かりな

状態のようだった。ご主人を、とても大切になさる方なので、

「無理しないように・・・。」と声を掛けたら、「あなたもね」と

言われてしまった。どうやら、此度の事、伝わっているらしかった。






2002年08月03日(土) ちょっと、気弱に。


 夏のバーゲンで、来年用の物を買うのが我が家のパターン。

お洒落な服は、別として、定番の物、下着、パジャマ、等購入する。

今年も、母を連れて出かけようと思っていた。

けれど、こんな状態で、バーゲンどころではなくなった。

 バーゲンも後になれば、値引率も高くなるかなと思っていたが、

秋物が並び始めると、そわそわ。

2日に1度位、買い物に出て、足慣らしを始めているが、少し、

疲れる。

これで、母を連れての買い物は、かなり堪えると思った。

 母の喜ぶ姿も見たいけど、自分の体も大事だし・・・・・。

だんだん気弱になってしまった。

 それで、通院ついでに、母のパジャマ、Tシャツなどを数点

デパートで、調達。

 他もみたいけど、欲張らず、それだけで帰路に着く。

買えたから、いいやあ。


2002年08月02日(金) 父の愛。

 
 ある日記を読んで、ふと 父の事を思った。

私が、まだ小学生だったころ、母は入退院を繰り返していた。

特に病名などないので、きっと、自律神経から来るものだった

のだろう。

 3人の子供を抱え、仕事をしていた父。

洗濯機のない時代に、洗濯をして、衣服にアイロンを掛けたり、

ご飯を作ったり、してくれた。

周囲の人は、驚いていた。

 お休みには、パーコレイターでコーヒーをいれたり、

カスタードクリームを作り、パンでブランチだったり。

 どこかで、楽しみながら居たように記憶している。

仕事の分担も、割り当てられ、夕方は、父の帰宅前まで、

ご飯を炊くのが私の仕事だった。

 また、母のところまで、荷物を届けるのも私の仕事だった。

親戚のものは、見かねて、子供たちを預かってくれる

と言ってくれたようだ。

でも、父は、兄弟を分散することは、出来ないらしく、

手放さなかった。

 周囲の人や、親戚の者、祖父などが、時折見に来てくれた。

この年令になり、父の思いがどんなものだったのかと気になった。

 余計なことは、しゃべらない父だったので、解らない儘だ。

母のタイムスリップが始まったころ、父の体調は、最悪の状態と

なっていた。

母の病名を告げるのにためらいも会ったが、混乱期の母を

理解してもらうには、正直に告げるしかなかった。

 父は、黙って聞いていた。そして、何も言わなかった。

日中は、両親二人だけなので、助け合ってもらうしかなかった。

 母が、動けなくなると、父は、母の薬を取りに病院まででかけた。

普通に歩けば、5分とかからない所だが、父は、1時間かけて、

休み休み出かけたようだった。

 母が心配して、私のところに電話してくるのでわかった。

後で、近所の人からも聞いた。

 そんな状態なのに、父は、母とともに私のところにやってきた。

2週間は滞在し、母を置いて帰って行った。

母も父の事が気がかりで、間もなく帰ったが、その後、「母を頼む」

と電話してきた。

その2ヶ月後、父は入院し、数ヶ月後天国へと召された。

父は、先に召される事を覚悟して、後の事を考えたのだった。

 

 父は、母を、そして家族をとても大切にしてくれた。

母も、「我侭な自分なのに、怒らずにいてくれた。」と感謝してた。

 ・・
 ・・
 ・・
 そんな優しい父の事が、今の母の記憶には、残ってない。

ちょっと悔しいが、仕方がない。せいぜい、写真をみせたり、

父の話を繰り返しして、瞬間思い出してもらおう。

 それが、娘としての努めだなと思う。


 私は父を超える事は出来ないかもしれない。









 



 
 





2002年08月01日(木) 向こう3軒両隣。


この町に住みだして4年目。

この町は、隣近所と少し距離感がある。

隣の家の人が何をしている人なのかあまりわからない。

でも、顔見知りでは有り、あいさつや、立ち話程度は、

そこそこある。

 でも、深入りはしない。

これぐらいの距離感があるほうが、住むのは楽かなとも

思う。

 でも、この先、何か起きたときに助け合う事は、出来るか

と考えると わからない。

 この度、私の病で、お向かいの奥様に助けていただいた。

具合が悪いと解ったら、お粥さんを炊いて、おかずを添えて

運んでくれた。

夫もお粥さんを炊いてはくれ、それも美味しかった。

 でもお向かいの奥さんのカニ入りのものもおいしかった。

それより、気に留めて、もらった事の方が、もっと嬉しかった。

お向かいの奥さんは、買い物もして下さった。

生協を使っているとはいえ、熱の高い状態だと、食べたいものも

変わり、また、家族の食事も手を掛けられず、簡単な物に逃げた。

 だから、毎日の買い物は、とても助かった。

今でも、買い物に行く前には、声を掛けてくださる。

 本当に有難かった。

以前に住んでいた団地では、子供つながりの友人がおり、お互い

助け合った。

 ここでは、子供つながり等出来ないので、お友達も出来難い。

母が在宅のころは、毎日散歩していて、名前も解らない人から、

挨拶をされ、母がしきりに羨ましがられた。

 お年寄り世帯の人が多かった。

社会はこれから、高齢化に拍車がかかる。

そして、介護も在宅中心になっていくのだろう。

ここだって、例外ではない。

 もう少し、横との繋がりを整備しなければならないと感じる。

新参者の私に出来る事は、少ないが、せめて、お向かいの奥さんと

ちょっと、考えてみようと思った。

 うるさくない程度の助け合いは、案外難しいかもしれない。








 







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