母のタイムスリップ日記
DiaryINDEXpastwill


2002年09月30日(月) 今日は例会でした。


 月に一度、痴呆老人を抱える家族の会に参加させて貰っている。
この会には、地元の支援センター、介護士、相談員、保健婦、医師、
保健所職員、介護福祉の公務員、そして、主役の介護家族が集う。
 こういう集まりは、貴重だと思う。
家族の悩みを吐き出せるのも良いが、どう対処したらよいかの知恵が
いろいろの方向から集められるからだ。
 みんな、それぞれ苦労なさっているのだと思うと少し気持ちが楽に
なったりもする。
 あわせて、この先自分に降りかかるだろう老いの波の予測と準備も
当然 学べたりもするのだ。

 母が、こちらに来た頃は、この会は無かった。
家族の会が欲しいなあ・・・。と訴えてみた。
それから、数年して、ようやく出来た。
 
 普通と違うのは、行政主導型の会なので、会のために家族が動き
回らずに済む事だ。
当の病の人を連れてきた場合、ボランティアの人が別室で見て下さる。
これは、後から導入された。
 
 今日も、様々な話が交換された。

 帰路、偶然 同じ処でボランティアをしてきた人と会った。
その方も、義母さんの介護を為さっておられる。
今は、ヘルパーさんとして活躍中。
介護の事、最近の施設状況等の話になった。
 とにかく、支援センターにしても、施設にしても、人手が足りないね。
と言う事で一致した。
それと、直ぐに対応できない事や、時間の制約などがあるけど、これから
は、その辺の隙間を埋めていくようになるといいね。と言う事も一致。
 いろいろ、情報集めて、人も集めて、お金に頼らない団体を作りたいね
と言う事でも一致した。
 それにしても、年齢と、経済的な事と、時間と中々思うように行かないね・・・。と言う所でも一致。
 行動できる頃に、私たちは体が付いて行かなくなるのではないかという
事で笑ってしまった。

 ボランティアの会が出来て10年近く経ち、あの時分のパワーがあれば
いいのにな・・と感じるのは、私だけではなかった。

 

 


2002年09月29日(日) 昨日は皆とでかけた。



「昨日は、どこかにいった?」と聞くと
「皆で出かけたような気がする」と言った。
「何かみた?」「わからない」
「三味線や太鼓?」「わからない」
母の記憶は、昨日外出した所までしか解らなかった。
 でも、よく覚えていたね。
今日は、「腰が痛いなあ」とメソメソしていた。
酷い痛みでは無い様なので、薬局に行き湿布薬を買い
貼ってあげた。
数日後には、通院予定なので 様子を見る事にした。
 職員の人にもその旨を伝えた。
就寝前に、湿布薬を剥がして欲しい旨もお願いした。
 
 散歩から戻ると、エレベターホールに排尿してあった。
こんなことは、初めてだ。
きっと、入所者の誰かがしたのだろう。職員は、引継ぎ
の時間だったが、滑って、転倒したら危ないのでお願い
をして、拭いてもらった。

 母は、トイレ以外の場所で用を足す事は無い。
パンツを下げて、うっかり汚した事はあるが、基本的に
トイレで用を足せる。
自分で始末しようとして、周囲を汚す事はあった。

 でも、痴呆では、トイレ以外で用を足してしまう人も
いる。母の場合 一時は、心配したが、トイレで用を足す
意識は、いつも、鮮明だと思う。
 
 このごろ、外出できない人の表情がなくなって入る様な
気がする。気のせいだといいのだが・・・。




2002年09月28日(土) また聞かれました。


靴箱に母の靴が無かったので外出してるなとわかった。
F氏の家族が面会に来ていたが、全体に静かだった。
 母の部屋で整理した。多少の物の移動はあったが、
比較的安定しているなと感じた。
 そうこうしていると、職員の人が「お母様、三味線を
聴きに遠くまで出かけています。帰りは、夕方です。」と
言った。
暫く前に、日にちは言わなかったけど「行く」と言って
居た事を思い出す。
 仕方が無いので、母のへやを掃除機で掃除をした。
ホールもと思ったら、職員の人が「次使います」言う事で
ホールはかけなかった。

 また、衣替えの事を聞かれた。この人は、母の服をよく
見ていないようで、「長袖は・・・?」と聞いてきた。
衣類を見てもらい、確認して頂いた。
「今日、半袖もちかえりましょうか?」と尋ねたら、
「こちらで、整理しておきます」と言う事だった。
でも、入所時に、持ち物をチェックして書類に書くように
言われて、提出しているのだが どうなっているのだろうか。

 家族評価表も提出した。
数箇所を評価して、後は入所して間もないのでわからないと
書き、提出。希望としては、職員の休息室と家族の交流の場
を設けて欲しいと書いた。
勿論、日ごろ
お世話になっている御礼も忘れずに付け加えた。

 他の施設に問い合わせをしてみたが、家族評価は実施して
居ないと言う事だった。
そのかわり、直接お伺いをしている。と言う事でもあった。
 果たして、どちらが良いのだろうか?

 処で母は、この気温が下がった日に 何を着ていったのか?
長袖のブラウスは残っていたし、外出用のカーディガンも
残っていた。
普段着で、人の大勢集まる所に出かけたのだろうか・・・?
 なんだか、哀しいなあ。
靴は外出用のものを履いて出かけたようだが・・・。
 これも、仕方が無いのかな?





2002年09月27日(金) すっきりとした対応。


昨日、これからの服装の希望を聞かれた。
先日、「そろそろ 衣替えでしょうかね?」と尋ねたら
Nさんが、「いや、まだまだ、です。」と言われたが、
今度は、違う人が、希望を聞いてきたのだ。「・・・。」
 取り敢えず、ノースリーブのシャツ、半そでシャツ、
「半袖のブラウス、薄手のカーディガンで対応して下さい。」
とお願いした。
 しかし、今日の涼しさだと長袖ブラウスの方が良かったかな
と思う。
 「頻繁に面会していますが、母は どうでしょうか?」
と尋ねてみた。
「日を空けたほうが落ち着きを失うようですので 面会は
多い方が良いと思われます。」と言う事だった。
 その介護士さんが「今日、歯を磨いてません」といった。
これが、さり気無く他意が無く 余計な詮索をしないで済む
適切な、言葉だった。
 こういうのは、とても 気持ちが良い。
だから、母の歯を磨く時 後ろめたさも無かった。
 こちらも、責めるのでなく 足りない所を補おうと思っている
それだけなのだから。 
 


2002年09月26日(木) 紙一枚を剥ぐように。


 3年ぐらい前までは、母の記憶は、写真で、手繰り寄せる事が出来た。
出掛ける度に、写真を撮り、其れを基に思い出を探った。
思い出せない事が、時にあったが概ね思い出す事が出来ていた。
 今年あたりから、めっきり、思い出せる事が少なくなった。
写真を見て、「あれっ、此れは私。いいねえ。」とは言うものの、記憶を手繰る寄せる事は無くなった。
 紙一枚を剥ぐように 記憶力が無くなっていく。

今日は、久しぶりに農家の人が開く市にでかけた。
顔なじみの人が、母をみて 「お元気ですね」と声を掛けてくれた。
母は「お蔭様で。」とにこにこ挨拶をした。帰るときも「気を付けてください」と言われ「有難うございます」とお礼をいっていた。
 こんな風に、その時 その時の会話はきちんとしてるのだが・・・。

それから、昨日 面会に行かなかったお詫びに、甘味処にいった。
 白玉ぜんざい。コーヒーゼリー。トコロテン。の3点セットを頼んだ。
トコロテンは、私。あとは、母。
 しかし、これが風変わりな食べ方だった。
ぜりーをすくって、ぜんざいを載せて食べるのだ。
確かに、今までも多少はあったが・・・。私も悪かった。まず、ぜんざいの器を置き、無くなったら、コーヒーゼリーを置いてあげれば良かったのだ。
 そうすれば、風変わりな食べ方をしないで済んだのだ。
幸い、「おいしい。」と言っていたのでいいかとおもったが、こちらも、配慮が足りなかった事を反省した。

 その後、美容院へ行った。
比較的空いていて、カットだけなので、母には良かったようだ。
 今日の記憶は、ばっちりで、ホームに戻っても、美容院に行って来た事は、
覚えていた。「さっぱりした。」と鏡を覗き込んでいた。

 こんな風に、母の病は、緩やかに進行している。

 


2002年09月25日(水) 失敗。良かったのか悪かったのか?

涼しくなって来た。
チョロチョロしていたヤモリに最近会わない。
昨日、椎茸がそろそろかな?と見たら、お化け椎茸になっていた。
あわてて、採る。すると、近くの地面が掘り返されているよう・・・。
目を凝らすと、蟇蛙がいた。どうやら、冬眠準備らしい。
 デジカメを急いで取りに行き、シャッターを切った。
ワーイ、やっと撮れたぞ。夏の間、ずっと、撮りたかったなかなか
チャンスが無かった。
 *****  *******
 今日は 大失敗。
どうしても、今日買い物に出かける必要があり 早めに家を出た。
いつもより、ちょっと、お出かけ風だったので、バックも替えた。
靴も、ヒールにした。
 買い物をすませ、会計に向かった時財布が無いのに気が付いた。
買い物をしている時、「お手持ちのバックくれぐれもご注意下さい」と
何回も、アナウンスされていたのだが、自分は大丈夫と思った。
 でも、「財布が無い。」焦った。
交通費用の小銭を大きな財布から移したので、大きな財布は、ここまで、
必要なかった。
 「・・・????」
仕方が無いので、クロークに荷物を預けて、まず家路に着いた。
電車に乗りながら、無かったら、まず 銀行に電話だな。郵便局も。
とあれこれ考えた。
 駅からはタクシーを飛ばし家に着いた。
ありました。テーブルの上に。「ほっ」でした。
ガス、電気、戸締りと点検したのに・・・。
 お昼を摂り、また、買い物へ。
「今日は、母の所へは行けないな。」とあきらめたら、見たい所をよく
見ておこうと居直ってしまった。
 あちらこちらと、久々に ゆっくりとウインドウショッピング。
今時のファッションを勉強した。でも、ついてはいけない。
久々のヒールも堪えた。
 夕方のラッシュにもまれて帰宅。
急いで夕食の支度。もう、条件反射。夕食なんて、私一人なのだから、
焦る事も無いのに・・・・・・。
 あーーあ。良かったのか 悪かったのか?
 摂り合えず おかあさん ごめん。
*****
掲示板のお返事せずにごめんなさい。
まだ、出来ません。もたもたしてます。
メールは、機能してます。



2002年09月24日(火) 「困ったなあ」


  昨日、施設に対する家族評価の提出はまだですか?と言われた。
「他のご家族の方は、如何ですか?」と尋ねると、「ぽちぽちです」
と言うことだった。
「ちょっと、判らない事が多く どうしたものかと、思案してる所です」
「皆さん、そうおしゃってます。判らない所は、飛ばしてもいいですよ。」
「私達にだって 判らないところがあるのです。」
「この結果を集計して 入り口に張り出すのです。」
 「はい、出来る限り早く提出します。」

 とは、言った物の 相変わらず迷っている。
訪ね先から、答えが返ってきた。
「正直に書かれて良いと思います。そこは、他にもホームを経営していて、
家族が、遠慮して言ってないのではないか・・・と思われる。」と言う
物だった。

 職員にもわからない事があると言う言葉に、くらくらした。
ここは、職員の方のために、書くべき所は書いてもいいのかな?とも思う。

 本当は、白紙で出そうと考え始めていたのだ。
「始まったばかりの施設、入居したばかりの当方。まだ、評価できるほど
にありません。職員も家族も、だんだんわかり掛けて、良い方に動き始めて
居る様に思います。」と添え書きして・・。
 でも、これってずるいのかなあ・・・。

 もし、他の人が、正直に書いていたら、ずるいよなあ。
昨日、娘が「家って、他と比べて面会断トツ多いのでしょう?おそらく、
他の人よりいろいろ見えているよね。」と言った。
 そうなのだ、だから 良い所悪い所が判る。
きっと、あまり来ない人は、悪印象を持ったら其の侭だろうし、その反対も
あるだろうし・・・。

 これは、厚生労働省の指導なのだそうだ。
回収方法までは、指導が無かったのかな?
「困ったなあ」






 
  



2002年09月23日(月) 9月23日って?


 曇り空の下にトンボはいなかった。
涼しくなったせいかな?晴れてないせいかな?
 歩いていたら、不意に甘い香りがした。「ん?」
金木犀だった。
先週、生協のお兄さんと「百日紅も終わり、今度は、金木犀ですね。」
と話したばかりだったが、すっかり、忘れていた。
 そうなんだ。秋に入りはじめたのだなあ・・・。
今日をどう過ごそうかと朝から考えていた。
 植木の手入れには、丁度良い日和なのだが、それは諦めた。
散歩。入浴。お萩。これをどう組み合わせようかと考えた。
結局、散歩(乗り物移動)お萩 入浴の順にした。
バス、電車、バス、電車 徒歩。
 乗り物が変わるたびに、母は、キョトキョト。うきうき。
「何処に行くのか」と実に楽しそうだった。
大きな大きな欅の並木に、母は溜息をついて、「いいねえ」と言った。
戻り道は、大きな川を身を乗り出すように眺めていた。
 我が家で、お萩のおやつ。小さめの物を2個半。「おいしい。」と
いって食べた。
残念ながら、9月23日と言っても何の日か思い出せなかった。
 仕方ないんだね。
入浴して、つめを切って、お茶を飲み終わる頃には、時計と睨めっこ。
そんな訳で、帰路の途についた。
 施設に着くと、お茶碗を並べてる音が聞こえてきた。
日が暮れるのが早くなると、食事の時間もはやくなるのだな・・・。
母のお腹は、まだ、夕食気分にはなってないだろうな。


2002年09月22日(日) 判らない事。

 介護の話から外れるが・・。
数日前の夕方5時ごろ、洗濯物を取り込み忘れてベランダに出た。
綺麗な青空に目を奪われていたら、トンボが視覚に入った。
「今年は、トンボの数が少ないなあ。」と思っていた所だったので
暫く、空を眺めていた。
 はじめは数匹だったのに、どんどん数が増えてきた。
気が付くと、皆、同じ方向に飛んでいくのだ。「そんな馬鹿な事」と
更に見ていたが、やっぱり 皆同じ方にに向かっている。
 「かぜのせいかな」とも考えたが、風もそれほど無い。
「近くに大きな、公園があるから、そこで夜を過ごすのかな?」とも
考えた。
でも、家の周りだって、木は多い方だ。
 トンボのねぐらって・・・・・。???????。
生まれるのは、川だから・・・。近くには川の合流地点が2箇所ある。
その周辺に、草や木がある。そして、林も。
 そこが、ねぐらとなる筈ではないのか・・・?
こんな年になるまで、何も知らない自分がなんだか 恥ずかしく、
そして、哀しくなってしまった。
 その後、気を付けてみているが、昼のトンボは、それぞれ違う方を
向いて、気ままに飛んでいた。
 夕方は、曇り空なのでトンボに目にあわない。
******   ********

 昨日の午前中、母は「故郷に帰る」とかなり不穏だったと言われた。
そういえば、荷物はあちこちに纏まって置いてあった。
 母は、何故、纏める物と纏めない物があるのだろうか?
おそらく、母の所有物とそうでない物に分けているのだろうと推測する。
 だから、折りあげた作品は母のものだ。
でも、持ち物全てに名前が付けてあるのに、なぜ、分けるのだろうか?
 母は、帰ろうとする時、着ている洋服さえも「自分のではない。」と
脱いでしまう。それが、数年着ていたものでもそうする。
次に着る服だって、数年着ていたものなのに。
 時には、「私の物ではないけど、お借りします」と言い出す。
ずっと、昔にタイムスリップしているのだから、母の記憶の時代の服等
あり得ないし、今の周囲の人の服をみれば、判りそうな気がするのだ。
 母の頭の中は、昔も今も同列になっている部分があるようで、そこに、
違和感は生じない様子だ。
以前は、気になり、「ほら、あの時買ったでしょ。」と思い出探しをした
ものだが、今は、そうした事に拘らない方が良い時期に差し掛かっている。
 だから、その事で母を探らなくなってきているので、余計に纏め分けの
判断基準が判らないのだ。


 家に帰る症候群は、母にとって必要な時間なのかもしれない。と此の頃
感じる。
だとしたら、荷物を纏める事も仕方無いのかもしれない。
 だけど、在宅で無いから、こんな風に思える事なのだよなあ。
目の前で毎日展開され、そうならないようにあれこれ動かなくても良いの
だからなあ。
 施設で、母が「帰る」と訴えれば、それは 大変なのだろう。
どの辺で、納得して行けば良いのだろうか・・?
 


 


 



 


2002年09月21日(土) 足りない物は?



 施設内が静かだった。
Hさんが、一人ソファーにいた。「こんにちわ」と声を掛けると
「誰もいないねえ。あんたのおかげで目が覚めたよ。」と言われた。
「ごめんなさいね」と謝りいろいろ、話し込んだ。入浴介助していた
職員が、出てきて、母は、違うフロアでお団子作りをしていると言った。
Hさんとの話は、多少のずれが有り、繋がった話が成立しないが、Hさん
の頭に残った単語をキーポイントに、会話はつながる。
今日は、お団子がキーワードとなった。
 話が途切れた所で、母のいるフロアに行ってみた。
フロアでは、茹栗を剥くYさん 金魚をながめるFさん、だんごをこねる人
茹でる人。それぞれ作業していた。
 キッチンでは、職員が、出来ただんごを器に盛り付けていた。
どうやら、数が足りないらしく、てんやわんやだった。おやつの時間も迫り
みんな、お腹が空いているようだった。
 みかねて、助っ人に入らせて貰った。
今までは、ガードが固かったのだが、今日は違った。
お団子を同じ量に器に分けた。みたらしを作った。それを、またかける。
母は、使用済みの物を片端から洗った。
 なんとか仕上がりおやつとなった。
職員が若いと言う事もあるが、手順が悪いかな?と感じた。
 「ススキや萩等ある所 ご存知ですか?この辺無くてね。」と尋ねられた。
「私のテリトリで無いので、何処って言えないですが、あった様な気がします
よ」と返した。
おやつ後、散歩に出ると、玄関前から通り向こうにススキが見えた。
裏に回って行くと空き地にもススキがあった。「・・・・・。」
ススキを探して、車で出たらしいが あるじゃないですか・・・。
 更に歩いていたら、萩だって、咲いていた。「・・・・・。」
あまり、近隣を散策しないのかもしれないな・・・。
 母は、こういう事を一番嫌った。「指導者たるものは、きちんと計画を企て
準備をし、ネライを持ち、留意点を洗い出すべき」と言った。
仕事をしている時も厳しかったけど、痴呆になっても、デイでの作業等で、
「何を想定しているのか・・・」とこぼす時もあった。
こちらは、ハラハラしていたが、母は毅然と職員に言う時も在ったようだった
 連絡ノートに、「ご注意受けました」と書かれている事が何回かあった。
ここでも、きっと 言っているのだろうな。
 今日の作業で、「学校」と勘違いをしていたからなあ。
作業風景を写真に収めていた職員だった。
 栗剥きをしていたYさんだが、渋皮や毀れ栗で膝の上が汚れていて立ち上がれそうになかったが、職員は気が付かない。Yさんは、おろおろして・・。
みかねて、掃除機を出して吸い込んだ。Yさんもほっとしていた。
 足りないのは、人手?準備?経験?
みんな、落ち着いて過ごしていたので、今日の行事は楽しかったのだろうな。
お月見したかな?










2002年09月20日(金) 物覚えの能力。


 今日は、出かける気力がなくネットで、施設を検索した。
今時の施設だなと感じたのは、ネット上にショートの空き情報が
載っていた事。
 「これは、便利だな。」と思った。
わざわざ、ケアマネさんの手を借りなくても、自分でチェックする
ことが出来る。そうすると、早めに予定を立てることもできる。
こういうシステムが広まればいいのにと思った。
 残念ながら、私が利用できる所には ないのですが・・・。
施設によっては、掲示板がある所もある。
これも、斬新だと思った。
 すべて、見る事が出来る(もしかしたら、調整はしてるかも)。
これは、かなり情報公開度が高いと思った。
 介護の質は、直接たずねてみるしかないのだが・・・。
此の頃、施設を見る時職員の休息室の存在をチェック項目に入れた。
やはり、職員の労働条件が悪いと介護の質も劣ってくるような気が
して来るのだ。介護する家族だって、疲労度が高くなると、ついつい
イライラとして来るものだから・・・。
職員だって、人間だもの・・・。
 デジタルな施設は、IT化。アナログな施設は電話かな?。
パソコンが、介護者にどの程度浸透しているかも気になるが、仕事
に就いて介護しているなら、欲しいだろうなデジタルな施設。
 *****
 母は、昔から、漢字の書き間違いや歌詞の意味等にかなり拘りを
持っていた。最近は、その認識度も緩みかけているが・・・。
でも、かなりの物だと思う。
私は、母の介護に当たる様になってから覚えた歌も在るほどだ。
 最近、自分の記憶が曖昧になる時があり、母のように、老いては、
行けないかな?と思ったりする。
 先日、家族との外出の折、お隣の車の話題となった。
たまたま、1週間度、車が無かった。それも、その日の夜まで。
 隣を走る車が、隣の家の車と同じと思い、「あれ、同じだね」と
といったら、「色が違う」と指摘された。
毎日見ているので、間違う事はないと思ったが、娘が「違う」と
言うので、自分の記憶違いと思った。
 次に今朝、お隣に車があった。と言う夫。
私は、前日の夜までなかったので、「ない」といった。
すると、今度は、娘と夫から、「この所おかしいよ」と口を揃えて
言われてしまった。「・・・・・・・。」
 ちょっと、自信をなくすと、反論できない。
戻ってから、自分の記憶度を確認の為、隣の車を見た。
 車はあったので、これは、夫の正解。車に色は、私の正解。
ちょっとほっとした。
 記憶する能力を高める為には、何をすればいいのか・・。














2002年09月19日(木) 友人の揺れ、私の揺れ。

 
 揺れているには違いないが・・。
友人が ご子息の結婚式の準備で、揺れていた。
 それは、式の時にの服装。
双方の両親が、洋服と決めかけていた。
私も、相談を受けて、服を選ぶお手伝いをする事に
決まりかけていた。
 それが、友人のご主人のお姉さまの一声で、
母親は、着物。父親は、モーニング。と決まったそうだ。
「偉い」私に、そういう即断は下せない。
ちっと、見習わなければ・・・・!
 その上、友人の友人で在る和尚さんが、式に着用する服
の事を心配しているらしい。
 和尚さんの礼装か普通の礼装か?と。
へえー!。
 披露宴での席が、どうやら 私と近い席らしく、話題作
りのため、わざわざ、友人が知らせてきた。(笑)
::::::::   :::::::
::::::::   :::::::
 さて、気の重い 揺れ。
施設側から、出された「家族の施設評価」
今の所、誰に尋ねても、「正直には書けない」と言う返事のみ。
 そうなんだ。私もそうなんだ。だから、人に聞いてしまうのだ。
でも、施設全体が良くなるのなら、正直に書いた方がいいのだ。
今、136項目と決まっているのか。また、施設に本当に義務付け
されているのか、調べて貰っている。
 うっかり、書いて、施設職員が窮地に陥ったりしたら本意では
ない。誰かを責める為ではなく施設自体が、痴呆の入居者の為
より良い介護を家族と共に作り上げると言う目的なら、納得出来
るのだが・・・。
 残念ながら、施設利用の家族とは、連絡の取りようが無い。
後数日、こうやって、「どうしようか」と揺れるしかなかな?
 そういえば、期限の事何も言わなかったなあ・・・。
:::::::     ::::::::
 今日の施設は、外出組みがあり、静かだった。
母は、と言えば、ベランダで外を眺めていた。
ドアは、内側から鍵をかけていた。母自身がやった筈。
鍵は、私でも簡単に開けられる。
 居室に入り、ベランダに行き、母の頭を撫でた。「あっ」といい
顔を拭いた。今日も、おかちゃんの事を思っているようだった。
「故郷に帰りたい」とつぶやいていた。
どうも、排便による腹痛も在る様子だった。
 外に出た。近くのファミレスに入った。
私は、ボランティアの帰りで、昼食を摂ってなくお腹がぺこぺこ。
母には、クリームあんみつ。
 「おいしいなあ。」といいながら、腹痛は消えていた。
一回りして戻ると、おやつの時間だった。
母は外で食べたので、おやつは抜いてもらい入浴させて貰った。
その間、Fさんとお話しをした。
「甘い物はいいねえ。あんこならもっといいのに・。」と言った。
Fさんの妹のHさんは、以前スキーが得意だと言っていたが、Fさん
は、スキーは得意でないと言う。カマクラ等で遊んだと言う。
 やはり、同じ姉妹でも、好きな事は違うものだと感じた。
風呂上りの母に襟巻きを編んでもらった。
目数の増減の無い分、襟巻きの方が編みやすいと思った。
 母は、編む事に集中したので、そっと帰ってきた。
午前からの外出組みは、まだ戻ってなかった。
職員も、入居者もきっとくたびれて戻るのだろうなあ・・・。







2002年09月18日(水) 家族の揺れる心。

 
 今日、いろいろ、尋ねたい事があり知り合いに電話した。
69歳の彼女は、老健にお母様を託されておられる。
 私の用は、後回しにして、話し込んだ。
彼女の方から、「同じ町内から、彼女と同じ世代の方が入所
されてきた。自分は、介護者。相手は、入居者。視線が合った
だけで、向こうは、下を向いてしまう。その辺が辛い最近」と
話された。
 そういえば、母の痴呆が始まったと思われる微妙な時期に母
は、人と会うのを嫌がった時期があった。
散歩を薦めても、出る事を躊躇った。だから、人目を避けて、
早朝など、人に会わない時間での散歩を薦めた事もあった。
 また、家に篭りきりなので、友人に「来て」と頼んだらと
言って見たが、「会いたくない。」「相手に迷惑掛けたくない」
と拒否された。友達はとても気にして、「いつでも行くよ。」
と言ってくれたのだが、暫くは駄目だった。
 「駄目になった自分を曝け出したくない」と言っていた様に
記憶している。
痴呆の入り口は、非常にデリケートな感情があり、家族や周囲
の対応が大変な時期である事を再認識した。
:::::::::
:::::::::
 さて、気の重い事。
今日は、特養の見学をさせてもらった。
 施設内は、とてもきれいだった。
職員の対応も手馴れていた。
日々の行事の様子などの写真も張り出されていた。
少人数の施設とは異なり、100名収容なので、ホールやリハ室
等あり広々としていた。
個室もあるが、個室利用者は、今の所、「完全自立の人」
「人の物を収集する人」「大きな声を出す人」等と限られている
ようだった。
後は、4人部屋である。一部ロッカーで仕切られ、他はカーテン。
確かに、古い特養施設よりは良いのだが・・・。
 掃除は職員とボランティアのかたがして下さると言う。
床は、多少汚れが目立った。
夜間の職員の配置は、100名に対し、5名の勤務者。1対20.
 夜間不穏の母は、かなり迷惑をかけるかなと思った。
健康な人だけなら、まだ良いが、具合の悪い人がいたら、かなり
大変だろうと思った。
 今のホームと比べてみると一長一短ありであった。
少人数故に、見える事、して貰える事等があるように感じた。
けれど、面会に行く家族の身になれば、徒歩5分と言うのは、
とても助かる事なのである。
 どちらに、比重をおくべきか暫くは揺れるだろう。
母を連れて、再度 見学させて貰おうと思った。
:::::::
もうひとつの気の重い事。
それは、施設の家族評価。
 今日は、長くなるので、次回に回そうと思う。
あなただったら、正直に記入できますか?と問うてみたい。
誰に?・・・・・・。





2002年09月17日(火) 葉の裏のカタツムリ。



今日、施設側から、施設の家族評価と言う一覧表を渡された。
これは、施設の義務であるらしい。
 134の項目があり、それらすべてが、「できている。要改善。」
でチェックする。
 また、要改善の場合、理由や原因を記入するようになっていた。
これを、施設の責任者に出すのだそうだ。氏名は、匿名 可。
 
 項目の中には、家族が知りえない事もあった。
例えば、体重管理。緊急時の管理。個別の記録。チームケアのための会議。
等、見た事が無いので、やっているのかすらわからない。
 いろいろ、疑問に思っても、尋ね難くその内に聞こうと思っていた
項目だ。

 言いにくそうに、「正直に、記入なさってください。」と言われたが、
その辺も、微妙だ。
でも、ここで、正直に記入して、改善されるならそれに越した事は無い。

 そして、はっとしたのは、最近の職員の変化は、此れの影響かな?
と言う事。
だとしたら、私は、どう記入すればよいのだろうか?
 しばらく、考える事にした。
家族での、横のつながりがないので、他の人にもなかなか聞けない。

 今日、母が「おかちゃん」とちいさく叫ぶ声を久しぶりに聞いた。
少し、お腹が痛むようだったし、心も不安定な様子だった。
手仕事をした様子も無く、その道具もなく、手持ち無沙汰ふうだった。
小雨の中、散歩をした。ぎしぎしの葉裏にちいさなカタツムリを発見。
発見者は、母。小指の爪ほどで、それも、葉の裏側なのに、よく探せたと
感心してしまった。歩いている時の観察力には、いつもいつも驚く。
 でも、彼岸花は思い出せなかった。
今日新たに、「ひ・が・ん・ば・な。」と教えた。
水引と、コスモスの一輪を摘み居室に飾った。
  
 


2002年09月16日(月) 入所の基準?


施設入所の扉。
気になる事があった。最近、徘徊の酷い人は、特養の入所を断られる場合が
あると言う。
特養は、徘徊防止扉等で、バリアが作られている所とバリア等無い所がある。
古い所は、バリアのない所が多いかもしれない。
 「断られそう・・。」と言う情報を知って、施設勤務の姪に聞いてみた。
どこかの施設で、徘徊する人が施設の外に出て事故死して、遺族が訴訟を
起こした事で、そういう 流れが出てきたらしい。
 徘徊者の事故死は、在宅でも起きる。
施設に入れば 徘徊は無くなる訳でない。従い 事故の無いようにと配慮されても、外に出てしまう事はあると思う。
 
 どう言う理由での訴訟だったのか、詳しく知らないので先走りは避けるが、
なんとも、悲しい現実だなと思う。
 最近の特養は、補助金もなくなり、経営自体もかなり厳しく、正職員より
パートの介護職に切り替えて維持している所が増えていると聞いた。
これは、老健でも似たよう物であるらしい。
 なにか、切実な理由で施設入所せざるを得ない時、何処にも頼れなくなったらどうなるのだろうか・・・。
 痴呆者の行き場がなくなってしまうのだろうか・・・。
いささか、心配になってきた。

 介護保険の行き着く先は、どう言うものだろうか。

 事故を起こした介護の当事者の心の痛み、家族の悲しみ、両方の痛みが理解できるから、切ない。

 今日は、母の所に行かなかった。
折角、日帰りしたのに どうにも、頭が「ぼーっ」として気力が出ない。
そのくせ、眠る事も出来ずに過ごしてしまった。
 日記も書いていながら、頭が回らない。
今日は、早めに眠ろう。でもなあ。家族の帰宅が大きく関わるから
皆が、早めの帰宅となるように祈るのみかな。
 「おーい。みんな。早く帰ってね。」



 




2002年09月15日(日) 私達のタイムスリップ。


夫の故郷へでかけた。
夫の兄弟とその家族が皆、集まった。
 世の中、3連休とあって、道路の混雑はすごかった。
妹家族と、私達家族は、渋滞に巻き込まれながらも なんとか法事の
時簡に間に合った。
 亡き両親の思い出話や子供たちの成長した話、私たち世代のタイムスリップ
の時でもあった。
 長兄が、話した事です。
亡き父の親の兄弟は、既に皆他界しているが、一番下の方の奥様が存命だと言う。92歳でお元気だと言う。今、娘さんとすごして居られるが その娘さんも70を越えておられる。独身を通されたらしい。
 先日、お会いした時、蔵は、まだ残っているかと聞かれたそうだ。
長兄は、建て直しを考えていたが、どうしたものか・・・。と思ったそうだ。
こちらを訪ねて来る事等 殆どないが、その方の郷愁を思うと無くしてしまうのもなあ・・・。と言う事だった。
 自分たちの事が 手一杯で過ごす事が多い世の中 こういう話を伺うと
心が温められます。
 夫の兄弟、その家族は、こんな風に皆、あったかい。
子供たち世代も皆、成人しているが、みんな 法事のために集う。
それぞれの世代で、それぞれに 話に花が咲く。
 私も、夕暮れ時に兄嫁と一緒に散歩した。
 









2002年09月14日(土) えのころぐさで、皆と遊ぶ。


明日は敬老の日。
本当なら、母のために1日使いたい所だけど、夫の実家の法事に
あたり、面会に行けない。
 急に涼しくなった事もあって、長袖を持って、面会に出かけた。
秋、冬への移行期、母は少し寒がる。
季節に慣れてくると大丈夫なのだが・・・・。
 今日は、差ほど寒がってなかった。
散歩に出たら、秋祭りの神輿が出ていた。しばし、眺めた。
小さな田んぼの畦に、彼岸花が、咲き始めていた。「これなんだっけ?」
と聞くと「・・・・・。」「ひ・・。」とヒントを出したら「ひまわり・・
じゃないねえ。」と来た。昨年までは、直ぐに判ったのだけど・・・・。
「9月23日」「んー。お彼岸」「そう。だから、ひ・・・。」「ひまわ・・
じゃないものねえ。」しばらく、繰り返した後「彼岸花」と教えた。
 ちょっと歩いて、「この花は?」「彼岸花」思い出せた。
「全部咲いたら 綺麗だろうね」と母は言った。
 えのころぐさを摘んだ。穂を逆さにして握りこぶしで包みぎゅぎゅと締める
と、ひょろひょろと穂が顔を出す。しばらく、そんな事をして遊んだ。
おみやげに、ホームの人の分も摘んだ。
 ホームに戻り、みんなにそれを渡したあと、その遊びをして見せた。
思い出した人もいた。思い出せない人には、握りこぶしの中に穂を入れてあげ
「こうやってね」とぎゅぎゅとにぎってみせた。手が鈍ってなかなか動かせ
無い人もいたが少しすると、皆それぞれ、試していた。
 一人Hさんが、違う世界にタイムスリップしていた。聞けば、朝からだと
言う。「勝手に電気を引いたのが悪い。今から、検査に来るって。電気止められるよ。だから、みんな、帰った帰った。」と追い立てている。
 追い立てられる人も可哀想であり、Hさん自身の不安定さもまた悲しく。
職員は、会議中だし・・・。その場を離れがたくなり、Hさんを、母の居室に連れ入った。そして、「Hさんの、ふるさとは 何処だったかしらね。」から
入り、子供のころのスキーの話や、山菜取りの話を伝授した。
Fさんは、すっかり、その頃へと戻り、「今度、お出でよ。その代わり寒いよ
いろいろ教えてあげるよ。」と言ってくれた。「よろしく、頼みます」と
Fさんにお願いした。
 その後は、Fさんも落ち着いて、山の話を皆にしていた。
Fさんは、結婚してないので、面会もとても少ない。きっと、今日は寂しかったのかもしれない。 幸い母は、落ち着いていたので、良かった。

 ここに、話を引き出してあげるボランティアの人が入ったら、いいのにな。
と思った。



 


2002年09月13日(金) 職員の嬉しい変化。


最近、私の母への思い つまり 「大切だけどやむを得ず施設入所に
踏み切った」と言う事を、施設の職員の方が判りかけて来て下さっている
ように感じる。

 母に対してだけでなく、個々への対応の変化を肌で感じられる様になった。
今までだって、ある程度 配慮されてはいた。でも、個よりも、「痴呆の人」
という一派一絡げ的な感覚が何処かにあった。
 そして、見てあげているという感覚もかすかにあった。
でも、今は、入居者の家族の背景にも、目が届き始めているように思う。

 例えば、母の入れ歯。この所、磨いてある後が、みえる。
母の意識にも、磨くと言う感覚が戻ってきた。これは、私が手を掛け始めた
せいだけでなく、背後に職員の手による誘導があるおかげだとわかる。
母のぐらぐらとして残っている歯をどうするかと職員から聞かれた。
 入居時に話してはあったが、聞き流されていると感じていた。
歯を磨いた形跡もなかった。
手を掛けてくれているからこそ、歯茎からの出血にどう対処するかと質問
されたりもする。
 残念なことだが、ショート利用の際にも そう言う質問はなかった。
ショートは短いし、気が付かないかも知れない。でも、毎日、歯磨きに
立ち会っていれば、ぐらぐらしている事も、出血のあることも把握できる。

 また、トレパンが汚れた儘になっている回数もかなり減った。
持ち込みパンツも「おっー」というほど消費が早い。
これも、手をかけて貰っていると判る。
 母だけでなく、他の人のトイレ誘導も、度々見かけるようになった。

 気懸かりだった、基本的生活習慣の部分で改善されつつある事は、本当に
嬉しい。

 残念な事だが、家族が関わらないと、見えない儘ということもある。
面会の少ない人は、対処に多少の迷いがみえる。
 家族の望む介護を施設に求めるのなら、やはり、面会を多少多くすべきと
思うのが、正直な感想だ。
家族の 介護姿勢をはっきり認識し、家族が面会に行ける体力を保持して
要る内に、入所に踏み切る事も入居者のためには、とても 大切になって
くると思う。

 娘とも話したが、母の場合、ありがとう。すみません。ごめんなさい。
と言え、痴呆が進んでいる割に、集中もできるから、ここまで、気が付いて
貰えるのだよね。と言うことになった。
 
 どうやら、娘も 痴呆の何たるかに気が付き始めている様だなと思った。
続編は、次回に。








 



2002年09月12日(木) 地べたに寝転びたい。


今日、施設の責任者の方から、「お母様を、少し遠くのホールまで
お連れして大丈夫かしら?」と相談された。
娯楽会(歌を聞く?)らしかった。
 「母の知ってる歌なら大丈夫と思いますが・・・。」と答えた。
「そうなのよねえ・・・。お母様は、ずいぶんいろいろの歌をきちんと
歌えるし、足もしっかりしていて・・・。」
「連れて行っても楽しめる人は、少なくて、お母様くらいかな・。」
と言われた。

 確かに、足の丈夫な人は 限られているように感じていた。

 母の足は、ずっと丈夫だった訳ではない。
痴呆症になる前、歩いて5分足らずの所への買い物に行くのに「辛くて、
途中、地べたに寝転んでしまいたくなる。」と言われた時期があった。
 帰省して、買い物で休む所を見つけて、「ここで一休みしてね」と
目安を付けてあげた。
 長距離電話を毎日かけて、買い物に行った時どうだったか話しを聞いた。
そして、「今、歩くのはとても大変だろうけど、足が弱ってしまったら、
だんだん歩けなくなり、寝たきりになってしまうから・・・。少しでも
良いから、ゆっくりで良いから歩いた方が良い」と話続けた。
 痴呆症が、出始めた頃、鬱ぽい日が続いた。
その時も、外を歩くようにすすめた。
 電話で、「どんな花が咲き、風の冷たさはどんなだったか、」等を
毎日毎日聞いた。
 母は、幸いな事に そのことを励みに受け止めてくれて、せっせと散歩
をしてくれ、楽しい事を見つけ話してくれた。
 そんなことを繰返している内、足が痛い、地べたに寝転びたいという
言葉が母から消えた。
 いつの間にか、外での気分転換も上達していった。

これは、おそらく、数年かかったと思う。

 途中からは、本当に足が弱ってしまった方の介護も多くなり、訪問した
時の様子を伝えて、「歩ける幸せ」の話もより具体的に伝えられたと思う。
冬になると、雪が降り、路面も凍結する故郷。
そんな時は、家の中を歩いてと言ったし、ストレッチも薦めた。
 素直な母(笑)は、言われた事をそこそこやってくれた。

 これも、昨日の友人からヒントをもらったのだ。
病で鬱状態になった時、歩く事で気力を付けていったのだった。
 
 全ての人に当てはまるとは思わないが、母には、良かった事だ。

 私自身も、夫も、足だけは、かなり気をつけている。
今、夫は、車通勤を休み、徒歩30分+電車利用の通勤。帰路 千鳥足で
20分上り坂を帰ってくる。
 私は、時にバスも利用するが、涼しくなったら、また、歩く生活に
戻るつもりだ。
 「老いの構え。」は、若いうちから・・・・。
何より母が証明してくれているのだから・・・・。





 

 



 



2002年09月11日(水) 友人から学んだ事。


 私の友人の中に、癌になって15年の人がいる。
病に気が付いた時お腹に子供がいた。
出産してから、治療を始めた。手術はできず、放射線の
治療のみ。それから、1回か2回放射線の治療をして、
あとは、治療を拒否した。
 その後、双子の赤ちゃんを出産。
彼女は、6人の子持ちとなった。
 今も、彼女は、自宅庭を耕して 農作物を作っている。

 治療の拒否、子供の出産、宗教入信、等いろいろの事が
あった。
頑固な彼女は、宗教の事以外は、自分の意思を通した。
 治療は拒否したが、食べ物や、民間療法などは、次々と
試した。危なげな療法もあったが、効かないとわかると
さっさとやめていくのでどこかで安心して見てた。
 医療職だった彼女は、データをとったりもしていた。
有名医大付属病院勤務だった。 
 結局、彼女は仕事をやめた。身体が大変だったことも
あるが、彼女自身が 納得できない治療を見ていくのは
嫌だったらしい。
 私は、彼女のような信念はなく、熱が出そうになれば通院。
調子が悪ければ、通院。そんな 普通の考え方だった。
 長く彼女を見てくるうちに、だんだん 考え方も変化した。
彼女のような、思い切った生き方は出来ないが、
              
「病を受け容れ、病と共に生きる」

「体力が落ちても、生活の質を下げずに生きていく事」

それだけは、実践して行こうと思っている。
そんな教えが、母の介護にも役立っている。
 正しいか、どうかは判らない。でも、生き生きと生活して
行く事が、いいんだと思う。

 強そうに見えても、実は弱くて、お互い窮地に陥ると、
「大丈夫か」と電話したり、ファクシミリしたり。
時には、飛んでいったり 来たり。全くおかしな間柄。

 これからも、彼女との交流が長く続くようにと祈っている。
それにしても、某医科大に勤務するご主人も彼女を見守って
行くのは、大変だろうなと思う。
 


 


2002年09月10日(火) 1人暮らしの方の介護。


今日、9月10日は1番下の弟の誕生日。
「今日は、誰かの誕生日だけどな・・。」と言ってみるが、
一向に思い出せなかった。

 在宅の方を訪問、介護するボランティアの活動が10年程。  
今まで、出会い、別れを繰り返した。
初めの頃、別れは辛いだけだった。でも、今は、その方達が
「終末期の有りかたを学ばせてくれた。」と思っている。
悲しみや寂しさは、残るが・・・。
 この仕事(?)は、そういう意味で貴重な体験をしていると
私は思っている。

 今、訪問している方は 1人暮らしの男性。
痴呆は無いが、身体が少し不自由。私の訪問の他に、デイ利用
ヘルパーさん等の訪問がある。
私は、今回、家事援助で入っている。
でも、流れで身体の清拭や薬の塗布等も依頼される。
今の所、家事援助の中でそれらもこなしている。
 この辺の割り切りが難しい。
また、軽い麻痺なので、リハビリをかねて、動いたほうが良いと
思われるのだが、まだ、信頼関係が成り立ってないので言えない。
私個人だけでなく、全体のことも考慮しなければならないので、
コーディネーターの方とよく話し合いをしなければならない。
 気になっても なかなか思うように出来ず、動き始めた時には
遅すぎたと言う事もあるので難しい。
 同じ失敗をしないようにと今、痛切に思っている。

 本人の意思の尊重と自覚を促す事は背中合わせになりそうだ。

 今日も母は、比較的落ち着いていた。
涼しかった事も有り、散歩の距離を延ばした。
1時間30分ほど歩いた。萩の花、川の水が多い事などに目が止まり
見る目の正しさがあると思った。
 施設の責任者の方が、母の夜間様子を話してくれた。
また、母に編み物を仕上げさせるにはどうしたらよいだろうかと
相談された。
他にも、いろいろ話してくださった。
 見えないところの母の様子を教えて貰えると安心できる。
それも、在宅の頃と同じ行動だったりすると、「そうそう」と共通
の話が出来るようになる。そして、一緒に母の事を考える事が出来る。

 お互いの信頼関係が育つ事は、母にとってもよいことだから・・・。










2002年09月09日(月) テレビの中の事が・・・。


耳が遠い母。
どれくらい聞き取れないかと言うと、せみ時雨の中を散歩しても
全く判らない。蝉が、鳴いている所から1メートルの距離でも
聴こえない。
 でも、会話はできる。聞こえているのだ。
ヘリコプターの飛ぶ音も聞き取れない。
 でも、サイレンは、聞き取れる。
全体に向けた話は、聞き取れない。
 こんな風に聞き取れる音と聞き取れない音が母にはある。
「聞きたい」と言う気持ちがあり、聞こうと努力はしているのだが・・。
補聴器を薦めてみたが、断られた。
なにか、プライドが在るみたいだった。

 そんな風な母なので、字幕付きのビデオを借りた事があったが、
長すぎて、飽きてしまって駄目だった。
母には、今時の、うるさいと思われるほどの、バラエティ番組の
テロップが入るのが、どうやら丁度良いのだった。
 でも、品性も母の基準にあり どれでも良い訳ではない。

 テレビといえば、母は、テレビの1場面のみが記憶に残ってしまい、
あたかも、現実の事と思い込んでしまう事も多かった。
それは、ドラマでも、ニュースでも、天気予報でも・・・。
 あまりに激しいドラマは、見せないが、ちょっとした脅し等の場面
でも、「これから 悪い人が来る」と騒いだ。
私たちから見ると、何でもないので忘れていて、でも 余りに不安が、
酷いので、「なにかあったかな・・・?」と記憶をたどるとドラマに
行き着くのだった。
 台風が来てると判ると、「大水になる」と言って騒ぎ出した。
暫くは、母だけの症状かと思っていたが、近所の人も同じような事を
言うと聞いた。

 施設で見ていると、殆ど聞き流し状態でテレビがついているが、
じっと、見入っている人は無い。
きっと、集中の度合いでそうなるのかもしれない。

 そんな訳で、母と過ごす時は 見る番組をかなり選んでいたし、
危ないと思った時は、テレビを切った。
唯一安心できたのは、懐メロ特集。
歌詞も出て、母は、一緒に歌ってた。テンポが、ずれるのは愛嬌だった。
 
 


 


2002年09月08日(日) 夢の話。


最近、 怒ったり、泣いたりする夢を見なくなった。
  夢の中で、かなりの勢いで怒り、目を覚ます。
  目が覚めると、涙で枕が濡れていた。 
そんな夢を見た後は、自分の心の中を覗いたようで、とても
嫌な気分になり、どっと 疲れてしまった。
 母を怒っている夢は 1度も見たことはないのであるが・・。

 今見る夢は、とても日常的で、思い出しても笑ってしまうような
夢ばかりだ。

 昔から、日常考えた事の切れ端が 夢になる事が多い私。
そう考えると、私の生活は、落ち着き始めているのだなと思う。

 母は、ぼんやりと景色を眺めていた。
悲しそうな顔はなかった。本当にただただ、ぼんやりとしていた。
「きてくれたの。」と今日も言った。
引き出しを覗いたら、敬老会のプログラムがあり、昨日出かけたのが
わかった。「昨日どっかに行った?」と聞いたがやはり「?」だった。
 夕食まで、少し時間が有ったので 散歩に出た。
腕を組み、うすピンクに染まった空を眺めながら、川に沿って歩いた。
お決まりの歌も口ずさんだ。
 母の手にお遊戯の動作が付いたので、心が安定しているとわかった。
ホームに近付くと、窓辺でIさんとHさん(若い方の)が手を振って
きた。知っている人とわかるのだな・・・。
 母も気が付き手を振り返していた。
荷物の移動も少なかったので、生活が落ち着いているのだとわかった。
 帰り際、母は、別々になる事を察知できた。
暫く、もごもごと私の傍を離れなかった。
 今日は、意識がハッキリとしているのだった。
タイムスリップボタンは、押されてないようだった。

 

 


 


2002年09月07日(土) 過去、現在の混在する空間。


昨日の事。母は、夜勤に入る男子職員と玄関で出会った。
「こんにちわ」と挨拶をして、「誰?」と尋ねると「私のいとこ」と
紹介された。「じゃあ、わたしは?」と聞くと「私のおばさん」と言われて
しまった。
 母は、比較的落ち着いて 穏かなのだが、時間空間が過去も現在も入り
混じって、タイムスリップボタンが半押し状態となっている時が多い様な
気がする。
 例えば、居室で、洗濯した物を収めたり、荷物の整理をしたり、掃除を
したりと動き回っていると「あなたは、そうやって、1日中私のために
動き通しで、すまないね。少し休みなさい。」と言う。居室での、私の
すごしている時間なんて、30分足らずの事なのに・・・。
 訪ねた直後は、「あー来てくれたの」というのだけれど・・・。
数分前の記憶が消えている事は在宅していた頃から判っていたけれど、
生活を共にしている事は、ある程度本人もわかっていると私は 捉えていた。
 母は「家に帰りたい。長くお世話になったね。」と言っていた。
でも、この施設にいても「すっかりお世話になって。あなたの家は、きれいね。」と私に向かって言うのだ。

 今、振り返って見ると、どの程度の認識があったのだろうかと思う。
1年前は、スイッチの切り替わりが表情、言動である程度感じ取れていた。
入居前も感じ取れていたようにも思えのだが、正確にはわからない。
 今に限って考えると、1日中一緒ではないのでスイッチの切り替わりが
どの程度なのか はっきりとは わからない。
 やはり、ゆっくりと気が付かない位に 病が進行しているのだろうか。

幸い、こんなに忘れっぽくなっても、他の人と比べると、作業に集中出来、
穏かでいるらしい。
歩行も、まだ安心できる。
 この時期が長く続きます様にと祈るばかりだ。
 
 

 



2002年09月06日(金) 驚きの4連発。

 金魚の水槽に入れる水草を持って施設に向かう。
おととい、ホールテーブル上にあった水槽はキッチンに移されてた。
誰かが、水槽をひっくり返したりしたかなと思った。

 今日は、「おやっ」とおもうことが3つあった。
 一つ目は、一人の介護士さん。
この人は、面会に行くたび入居者を入浴させている。
暑い時には、汗まみれだ。1日に何人も入浴させているのだ。
 今日もそうだった。
そんな訳で、「お風呂の係りってあるのですか?」と尋ねてみた。
そういう事はなくて、「入浴のチェックをすると、今日あたりが良いな
と言う日に たまたま 勤務日に当っているのです。」と笑ってらした。
 ここでは、1対1の入浴だ。大きな浴槽に大勢ではいる訳でなく、
入浴ごとにお湯を替えてくれる。良い所だなと思う。
 彼女の入浴に当る回数は、他の人より かなり多いと思う。

 2つ目は、母と同じくらいの病の進行具合かなと思っていたFさんだが
入浴して暫くの時間を経過しているのに「ふろに入ったから、眩暈がして
でも頭も洗ってすっきり。」等きちんと理解していた。
意欲は、母よりないのだが、記憶は、少し前なら思い出せるのだと知り
「おやっ」と思った。母は浴槽から出た直後で身体を自分で拭いていても
風呂入ったかな?と解らなくなってしまうのだ。

 3つ目は、Hさん。(若い方)
入居してかなりの期間、表情が硬く、言葉も、3通り位しか話せなかった。
会話も行動も一方通行風だった。明らかに 他の人とは違っていた。
 でも、久しぶりに会ったFさんは、職員の肩を軽くポンと叩いたり、
エレベターの前に行って「ひらけゴマ」と言ってみたり、実に楽しそうな
表情をしていた。これには、本当に驚いてしまった。
 おそらく、日常の奇行は、いろいろあって職員のご苦労は目に浮かぶ。
でも、Fさんは、「安心できているのだな」と見て取れた。
 私は、Fさんが、ここまで 学習できるとは思わなかった。
退行するだけだろうなと思っていたのだ。
そんな訳で、「すばらしい!」と職員の方にいったら、
「職員も、慣れてきて うまく 対応出来たのだと思います。」と言われた。
職員の人は、その変化にあまり気が付いてないようで「訪れた人が、
皆さんそう言うのですよ。」とも話されていた。
 
 「目から鱗。」のような一日だった。

雨が強く降る日だったので、外出せずにYさん、Iさん(下の階)と母とで
暫く賛美歌を歌って、昔の話をお互い聞いてすごした。

「おやっ」のおまけ。
入居時から、母の居室に、木製のビーズを置いていたが 全く触れた気配
がなかった。おととい、カラフルなプラスチックビーズを足して置いた。
 そのビーズで、ネッツクレスを仕上げてあった。
これにも、驚いた。




 



2002年09月05日(木) 介護の選択。

 
 特養の利用できる順番が近付いて来てる事は書いた通り。
私の中で、グループホームの方が安心かもしれない・・・。
と思い始めている事に気が付いた。
 それは、病になった時の備え。
完治できないけど、生きていく事が出来る時、3か月ずつ
病院を渡り歩く事になるかもしれないのだ。
 それは、近い所に限って選ぶのでなく、空いていて 受け入れ
てくれる所を探さなくてはならない。
 その事で、苦労していた家族の話は、今までも 幾度も聞いた。 

私は、その事に恐れを抱いたのだ。
父の時は、3か月同じ病院だったが、その介護は兄弟3人とその連れ
合いの計6人で出来た。
 おそらく、これからは 起きる事に関しては、その手を望めない。
そして、私自身、あの時の健康状態とは異なっている。
 それは、医師からも機能的疾患を言い渡されているのだ。
だから、もしもの時、グループホームなら、終身介護だから・・と
思い始めていたのだった。

 でも、母自身動けなくなったら、ヘルパーさんや、医師の往診、
訪問看護、等を利用し在宅にする事は可能なのだ。

今の母の行動と、家族の状況が数年後には変わる筈で、そうしたら、
もう少し私の負担も減る筈だ。(あくまで、推測だが)

 終身型に拘らない様にしようと思った。
やはり、施設を良く見て検討しようとおもった。

 でも、知り合いは 口をそろえて「病気になったら大変よ。」という。
私も、経験はないので、あくまで推測だが・・・。
施設職員からさえも、そういう声を聞くので、事実だろうと感じている。 
 
 転ばぬ先の杖ならぬ知恵を精一杯 集めようと思った。 


2002年09月04日(水) 突然の不幸。


北海道から、友人が訪ねてくる予定だった。
今晩、到着し 明日は我が家に宿泊予定だった。
友人も私も、1か月も前から、ずっと楽しみに待ち
台風が来ないようにと祈った。
 けれど、予想外の不幸が襲った。
さっき、電話があった。てっきり、「着いたよ」と
いう連絡と思ったら、「父が亡くなった」と言う事だった。
元気に過ごされていらっしゃった筈だった。
 心配なのは、母上の方だったのに。
友人も、予想外だったらしい。
昨日も元気にしていたと言っていた。
 どうやら、眠った状態で、脳内出血を起こしたようだった。
おそらく、父上自身 死を意識なさらない儘 召されたと
思われる状況だったらしい。
 深夜に救急車で運ばれ、意識のない儘 朝に召された様子。

 友人は、慌てる事なく 淡々としていた。
でも、昨日の晩から 電話する暇もなく いたのだろう。
「また 次の機会に・・・。会うのはいつでもできるものね。
暫く大変だろうから、身体壊さずに。」と電話を切った。

不謹慎なことだが、ころりと旅立たれたれた事は、ある意味
では、本望だと思うとも友人は言った。
私もそう思う。 ころりと旅立ちたいと刺抜き地蔵や、ころり
観音にお参りをするお年寄りは多いのが現実だ。

 友人は、父上のために、地元に戻られ、20年近く経つのだし、
父上のためにいろいろ、奔走して、言葉に出来ないほどの苦労
を重ねられたのだから、きっと 「死」を納得し素直に受け入
られると思う。
 友人の父上の冥福を祈るのみである。

 今日の母は、居室でしずかに編み物をしていた。
職員の人は、シーツを替えたりして忙しそうだった。
テーブルには、金魚がいた。
 「なにか生き物が要ればいいのに」と思ったので良かった。
我が家にも数年、めだか、金魚が元気にしてるので、「水草を
もって来るね。」と約束した。
 育て方も、ポンプなど使わなくとも育つから・・・。と
飼育のアドバイスをしてきた。
 



2002年09月03日(火) 続 お墓の事。

誰でも、人のお世話になる時がくる。
究極は、死。誰かが、弔いを請け負う。
 独身の友人が、自分が死んだ時の手順を知り合いに
頼んであるそうである。
末っ子で、兄弟は、遠方に住んでいるので、切実な問
題だ。死んでしまったら、自分で動けないのだから。

 我が家には、墓はない。
今年初めて、公共墓地に申し込みをしようと思った。
私は、墓は要らないと思っているのだが、散骨も
いろいろ大変と聞いている。 それなら、共同墓地
と考えた。骨を納める所がなければ、困るだろうと
思ったからだ。
こういうことは、元気な時に限るから。
 夫に言ったら、縁起でもないと一蹴された。
だから、夫には内緒で書類を取り寄せた。
書き始めて、残される側の気持ちを考えた。
 死に順番はないが、年齢順が妥当として。
「共同墓地に申し込むけどどうかな?」と娘に尋ねた。
「何 言い出すの?」と言う顔をした娘に、一通りの
話をした。
暫く考え、「きっと、私は お墓に行くと思う。その時
知らない誰かも隣にいたら落ち着かなくていやだな。」
と言った。
その後、締め切りぎりぎりまで 考えたようだが、心は
定まらなかった。
 そんな訳で、今年の申し込みは、見送る事にした。

暫くして、夫に再度 墓の事を尋ねた。「田舎に・・。」
だそうだ。遠方の墓地は残された人に、大変だ。
 その話も、違う友人から聞いている。
 
 介護、葬儀、墓地、いずれも避けて通れない事。
それも、する側とされる側の立場の違いがある。
 「する側が、やり易いように・・・。」と思う。
私の事は、全て簡略にして欲しいと伝えてある。




 

 

 

 




 


2002年09月02日(月) 家族の我儘なのかな?



きれいに食事が出来ていた母だが、加齢か病の進行か
食べこぼしが、少しずつ始まった。
普通の人でも、食べこぼしの多い人も要るしその程度だった。
 家では、食事が済むと軽く掃除をしていた。
母は、「私が、汚くしたんだね。」と気にした。
「そうではなく、みんなすこしずつね。」と言い切っていた。
施設でどうなのか判らないが、入所時に泊まって食事した時は
かなり気を使っている様子で食べこぼしはなかった。
 Oさんは、右側の麻痺のため、スプーンを使いエプロンを付
けて食事する。
食べ終えたあとは、床にぽろぽろ食べこぼしがある。
これは、仕方のないことと思う。
 気になるのは、その後。
掃除が出来ないなら、落ちた物だけ拾えばよいのだが、殆ど、
其の儘だ。
掃除の人も入っているようだが、回数は多くない。
 それなら、新聞紙でも敷いても良いと思うのだが・・・。
私は、気になり 職員、入居者のいない隙をねらって、掃除機
をかけたり、濡れティッシュで拭いたりしている。
1度、職員に見つかった時は、母の部屋を掃除したついでだった
と言い逃れをした。
 施設は、個の対応より集団の対応が主流だから次の事に走って
しまうのだろう。
 それで思い出すのは、知り合いのSさん。
Sさんは、管で食事なさる奥様にゆっくり時間をかけて食べさせ
ていらしゃった。
いろいろの事情で、老健に入所なされた。
 面会に行った折、おやつの時間だった。食べられない奥様が
皆と同じテーブルに付いていた。
Sさんは、たまらなくなって、その席から奥様を遠避けた。
 それからは、おやつの時間を狙って面会に出かけているという。
集団管理のためと思うが、辛いです。とも話された。

 施設は、1人対1人で介護する訳でないから、「仕方がない」と
理解していても、心情的に工夫や特例って出来ないないのかなと
思ってしまう。
学校だって、背丈にあった机といすを準備するのにな。
 障害のある人の為の施設なのになあ・・・・。
これって、やっぱり、家族の我儘な思いなのかな。

 今日の母は布団を被って寝ていた。「お腹が痛い訳でもない
ようです。」と職員の人が言ってたが、「お腹が痛い」と言った。
具合の悪い所が変わったのかもしれない。良くある事なのです。
 トイレでお腹のマッサージをした。お腹でゴロゴロと音がした。
ガスみたいだった。
 声を掛けられたせいか、腹痛も忘れ、おやつを食べたり
ストレッチ体操をしたりしながら居室ですごす。
 帰り際、「具合悪い?」と聞いたら「元気よ。」と言う言葉が
返ってきたのでほっとした。




2002年09月01日(日) 急に訳が判らなくなった時。


病のせいか生理的なものか判らないが、母はカーッと熱くなる時がある。
寒い時期でも、汗を滲ませた。
1日のうちでも、気温の変動があるのに衣類を着込むことはあっても、
脱ぐことはあまりない。
 母と同じ部屋で、同じような衣類で過ごしていても、母だけが、
暑いと汗をかく時もあった。
 急に感情を昂ぶらせる時は、汗を滲ませる事が多いなと気が付いたのは、
ここ、数年のことだ。
それからは、母の様子を見ながら、衣服の調整をするようにした。
 そのせいか、興奮の回数が少し減少したし長引かなくなったように思う。
近所で、母と同じ病の人がいて、家族が、訳がわからなくなる時があってね
と言ったので、その事を話してみた。
 暫くして、「興奮気味の時、やっぱり 汗をかいていたわ。脱がせるようにしたら少しおさまったよ。」といわれた。
 これって、案外 見落としているかもしれないなと思った。
皆が皆、同じとは言えないが、案外共通しているかもしれない。


はな |MAILHomePage

My追加