カエルと、ナマコと、水銀と
n.446



 通り過ぎた雨

=通り過ぎた雨=

たった今、雨が降り出した。そして、私が次に続く文章を考え付く前に止んだ。半分ほど開いた窓から水滴が垂れる音が聞こえてくる。同時に少し冷めた空気が洩れ出してきている。やがて、水滴の音さえも止んだ。雨の証拠は、タイヤが道路の水を弾く音だけ。夜中に、ひっそりと瞬く間に降り止んだ雨は、僕だけが気づいたのではないかと夢想させた。

2005年05月22日(日)



 体温が下がる

=体温が下がる=

夏の気配から一歩、身を引いた。すると、不思議なことに光が渦を巻き始める。白熱灯のような暖かい光が、ひとだまのように揺れ始める。私は、自分自身がまるで一匹の蛾になってしまったように思えた。光に吸い寄せられるように、ふらふらふら、と出店から出店へと歩いていく。大して何を買うわけでもない。ラムネソーダを一本だけ買って、ビー玉の転がる音を楽しみながら見て回るだけ。「そこのお兄さん!酎ハイどうだい!?」「安いよ、安いよ、一回三百円だよ!」「ハハハ」「だからさ」「ねえ」「どうだい?」「あした、あ」「ったら、どう?」「う。いや、そん」「ハハ」「ハハハ」「アハハハハ」「おい、おま」「いつかさ、でもさあ」「としたよ!」いつの間にか、喧噪までもが渦を巻いてしまっている。私は、雑木林の中で一人だけ鳴くのをやめたセミだ。寿命を知ったカゲロウだ。私は、再び歩き出した。お面屋さんの前で立ち止まってる男の子をのぞき込み、焼きイカを買い、射的をするカップルを眺める。次第に、私の意識は私を離れいていく。私の視線は、空高くへと据えられた。そこから見る景色には、光と暗がりが共存している。私の身体は、今も祭りの人混みを練り歩いている。金魚すくいを抜け、ヨーヨー釣りで青いヨーヨーを取り、ふと目を離したときに私は私を見失ってしまった。
やがて、人が少なくなり、出店の光が一つ、一つ、と消えていく。出店を解体し、若い男たちが軽トラックに積み上げていく。そのうち、一台、一台とトラックも去っていった。祭りは終わりを告げた。
身震いして、両肩をさすった。

2005年05月20日(金)



 「おやすみ」の前のひととき

=「おやすみ」の前のひととき=

ボクは、閉じていた目をゆっくり開く。もちろん、そこに広がる星は少なく、弱い。二、三粒のみ、死にかけの蛍のように浮かんでいる。体は芯まで凍えている。長くベンチに座り続けた体はこわばっている。忘れていた寒さが、不意に、はじけた。身震い。白い息を長く、遠くへと吐き出す。ようやくベンチを立つ。立ち上がると同時に膝からライターが落ち、ボクはその冷たく冷えたみすぼらしい百円ライターを手に取った。一瞬見つめるが、結局のところ今のボクに躊躇は生まれない。いつものとおり煙草に火をつけ、煙を吸い込むだけだ。そうして、ボクはゆっくりと歩き出す。固くなった関節を少しずつほぐしながら、登って来た坂道を下っていく。キャメルの葉の匂い。「煙草はもうやめる」きっとそんな約束は破棄されただろう。だいいち、ここは故郷の街から遠く離れすぎている。昔飼ってたみーちゃんは死んで、今はもう別の猫を飼っている。歩き煙草のまま、アスファルトの上を歩いていく。もし、目の前にどこでもドアとタイムマシーンがおいてあったらボクはあのころの故郷の街に戻るだろうか。角を曲がったところに巡回中の警官がいて、ボクはどきりとする。
「こんばんは。免許証か身分証明書見せてもらっても良いですか?」
「あ、はい。どうぞ」
「住所すぐそこですね。少し前ですが放火でぼや騒ぎがあったんで、気をつけてくださいね。では、メリークリスマス」
「わかりました。おつとめご苦労様です」
ボクは歩いていくうちに、だんだんと気分が良くなってきてしまう。お酒を飲んだわけでもないのに、ボクは鼻歌を歌い出す。冷たい風にやられていたいはずの耳が、熱くなってくる。きっと、そこにタイムマシーンもどこでもドアが落ちていてもボクは拾わないだろう。にまにま笑いたくなってくるのは、クリスマスのせいなんだろうか。静かな笑いが内側から、滲んでくる。ほんの、五年前にはボクはこんな笑い方はしなかっただろうな、と思う。でも、ボクは今あるものを犠牲にしてまでも昔に帰りたいとは思わない。鼻歌は同じ曲の同じ部分を繰り返している。アパートの階段をいつもの調子で登って、自分の部屋に滑り込む。ジャケットを脱ぎ捨て、熱いシャワーを浴びる。火照った体のままベッドに潜り込もうとすると、足に何かが触れた。それがちっとも「猫でない」ことに気付くと、同時にサキちゃんがこのベッドで眠っていることを思い出した。慌てて布団から遠ざかろうとすると、中の手がボクを捕まえる。「どこ行ってたの?」その声が、猫の声でもサキちゃんの声でもなく、ユキの声だとわかるとボクは不思議と納得してしまう。「君が帰ってこないから、バイトのクリスマス会に行って来たんだよ。ユキこそ、昨日帰るって行ってなかったっけ?」「え? メール入ってなかった? 『帰りの飛行機が雪が凄くて出なかったから、二十五日の夜に帰ります』ってやつなんだけど。あれ? 遅れてなかったのかな」「なんだ。たぶんそうだろうと思ってたけど、心配してたよ」「クリスマス会行ってたのに?」「うん。クリスマス会で心配してたよ。あ、そういえば、ユキの妹っていくつだっけ?」「妹? 妹は一個下だから二十二だったはず。でもどうして?」「あ、いや、勘違いしてた。もっと子供なのかと思って、クリスマスプレゼントあげた方がいいのかな、なんて思ってたよ」「なんだ。あ、私疲れてるから眠るよ」「俺も眠るよ」「おやすみ」少しも眠くはなかったけれど、目は閉じた。そのうち、眠りはやってくる。

2005年05月03日(火)



 夕焼けに向かって「ドラエモォォーン」

=夕焼けに向かって「ドラエモォォーン」=

最後の瞬間を思い出そうとしてみる。その時の哀しみは思ったよりも深くに埋もれている。もしかしたら。あまりにあっけない終わりは、かえって哀しみが薄いのかもしれない。ボクはどこかに落としてしまったライターに確実にいらつき、煙草が湿るくらい強く唇で噛んでいる。考える。そう、確か、僕はしばらくその関係が終わったことに気付かなかった。僕と彼女の関係は、向こうが会いたいと言って僕が気が向いたら会い、僕が見たい映画があって彼女も見たければ一緒に見る、という種類のものであった。僕は盲目的に、この関係は「終わりの見えない平行線」のように続いていく、と信じていた。また、僕はそのころ他のメル友を紹介されたところで、(会ってみたら不細工だったんだけど)「会おうよ。会おうよ」を連発していたわけで、彼女からの連絡がずっとないことに気付いたのは最後に会ってから一月半ほどが過ぎていた。不安になっているところに「遅くなったけど、今まで一緒にいてくれてありがとう。本当に感謝してます。楽しかったし、色々迷惑かけたし、良い思い出もできました。突然連絡しなくなってごめんね。でも、自分が納得して吹っ切れるまでは連絡しない、って決めてて、そんなときに連絡とっちゃったら『別に誰に迷惑をかけるわけでもないし、十分楽しいし、それに楽だし、このままの関係でいいかな』って思ってダラダラしそうだったから、あえて連絡しませんでした。でも、もう大丈夫です。自分の中で整理がつきました。最後の日、本当は前から『あの日で最後にする』って決めてたんだけど、やっぱり飲み会行っておいて正解でした。それに、ライムサワー二杯もおごってくれてごちそうさまでした。楽しかったし、ご飯もおいしかったしね。ということで、本当にありがとうございました。たぶん、ずっと、忘れないでしょう。サヨナラ」プツリ。道は、自分が思っているより細くて、すぐにちぎれてしまう。ドラエモンの話の中に、ある日怒ったドラエモンがのびた君を残したまま未来へ帰っちゃうというシーンがあったのだけど、僕はちょうど、少し前までタイムマシーンであったはずの引き出しを開けてそこに何もないことを確認したときののびた君と同じ表情をしていた。

2005年05月02日(月)



 「ワァ」と叫ぶ。小さな声で

=「ワァ」と叫ぶ。小さな声で=

その坂道は、小さな公園へと続いていた。滑り台と、鉄棒と、石で出来たベンチだけがおいてある小さな公園。あまりに、寒すぎるせいか誰もいない。でもきっと、平日の昼間にだって誰もいないのだ。その公園は、微かに懐かしさを呼び起こした。確か、こんな公園で星をみながら一服した記憶がある。その記憶が、蒸し暑い夜のことなのか、りんと冷え切った夜の事なのか、もうわからない。しかし、僕は、例の女の子と二人で長く暗い階段を登り切って、高台の公園から街の景色を見下ろした。見下ろして、見下ろしている自分に気分が良くなって、小さな声で、「ワァ」と叫んでみたのだった。小さな声で。

2005年05月01日(日)
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