ジンジャーエール湖畔・於
目次


2002年06月29日(土) 菫礼少年主義宣言する少女

昔の友達に偶然再会した。
しばらく喫茶店でベラベラお互いの近況やらを報告しあう。
すると突然彼が「今はちゃんとトイレしてんの?」
と聞いてきた。質問の意味がわからない。
トイレしてんの?って人間みんな必ずしていることをわざわざ聞いている
のも変だし、第一『今は』って、どーゆーコト??
その謎は私自身にあった。
彼によると、当時私はいつもトイレにいくのを我慢していたという。
それは何か行けない状況があったわけでもなんでもなく、
ただ自分自身にそれを課していたのだ。
それというのも、「トイレにいくのを限界まで我慢してから排出するのが
好きだ!」と広言していたそうな。
みずからの快感のためにトイレを我慢していたという。

しかし当の私はこの話、ちっとも覚えないんだな。
排出という行為の快楽は大いにうなずけるが。
ここで問題なのはその話を覚えていないことではなく、
そんなことを堂々と吹聴していたという事実だ。
今でこそ酸いも甘いも噛みわけて(ないけど)、ある程度自分の発言に
タブーがなくなってきたというのに、
花も恥じらう乙女たるその当時の自分が斯様なアケスケ発言していたなんて。
はーずーかーしーいー。。。。
無自覚にA感覚嗜好、というかV感覚への移行の滞りを露呈している
その発言にショックをうける。

そんな事情で今日は「A感覚とV感覚」(稲垣足穂)再読。

しかるに、動物のおしりが可愛いくてならない。
さらに、ウチの猫のおしりは絶品だ。
肛門をさらしているのにも斯くまでに高貴で誇り高い猫といふ生き物。
そのA感覚の天使的欲望!夢のような官能に日々うっとり。


2002年06月18日(火) ペイパードライヴァ−ズミュージック



ドライブの・ようなものをする。
世の中の女子たちがドライブを好むわけがやっと私にもわかった。
私は、他の人が当たり前にやっていること、普通に感じることを、
見過ごしてしまう傾向がある。
だいぶ間が経ってから、やっと合点がいく人間だ。
それはドライブしかり。
ドライブなんて小さい頃から何度となくしたことがあるし、
男の子の運転する助手席にだって経験はある。
首都高速からみる東京タワーの美しさや浅草のアサヒビールのビルの
巨大うんちっぽさも知っていたはずだ。
なのに何故、今になってやっと自分がその感覚を好むことが
わかったのだろう。
(隣にいる男の人にドキドキしてるからじゃないと思う)
そういう自分の愚鈍さが不思議でならない。

カーステレオで聴くのは専らキリンジ。


2002年06月12日(水) 浮き浮き魚っちんぐ

以前に、ナンシー関は「ナンシーせき」ではなく
「ナンシーぜき」なのでは。と書いたがどうも深読みにすぎなかったようだ。
ナンシー関の急死の記事でそのことがわかった。
やはり普通に本名の”関直美”からとっただけのことだった。
最近、意外な人の訃報が続く。
ナンシーのコラムをもう読めないのはとっても寂しい。
噂の真相を立ち読みする時の楽しみだった。
渡部篤郎を好きだと公言する女が、一方で加藤晴彦も好んでる、
という指摘にはポンと膝をたたいて大納得。
なぜなら、本当にそういう人が周りにいたから。
ナンシーの恐ろしい観察眼を改めて実感した。

ちなみにまだまだ大丈夫だとは思うが、私はタモリを毎日見れるこの
時代にいることをとてもラッキーだと思ってる。
テレビでは初期の頃のような毒気がないといわれているが、
それでもテレビのタモリが好きだ。(それしか知らないし)
タモリのCDももってるんだぜ。
なのに、
「最近、もうアレ(揚げパン)一個喰えない・・・」と呟くタモをみると
心配になる。御飯も一膳食べれないのだそうな。
おじいさん、なんよ。
タモリが日本のお昼からいなくなってしまったらどんなにか空虚感が
あることだろう。
みんな!もっとタモリを有り難がろう。
いくら「いいとも!」がつまんなくてもこれでいいんです。


2002年06月11日(火) いでよ、ジーグムント。響け、電気釜。

朝、未だかつてないくらい怖い夢で目が醒めた。
父親が、私の宝物みたいに大事にしている猫を殺してしまうのだ。
頭をパックリと割られてグタッと横たわっている猫。
泣き叫び父を責める私達を、いかにも大儀そうに対処するマーダ−父。
ヤイノヤイノ言う母を刺して黙らせてしまう。
次には、錯乱して暴れる私をフォークで仕留めようと狙うそぶり。
小さな部屋でドタバタ追いかけっこ。
なぜかちょっと楽しそうな父。
ジャック・ニコルソンよろしくレッドラム状態。
ただし予算の関係で、島崎俊郎(に似ているの父)主演の「シャイニング」という感じ。
しかし結局私によって果物ナイフで返り討ち。
猫と母を失った悲しみと怒りで父を何度も何度もグサグサに。

と、そこで目が醒めた。
時計をみるとあと15分で家をでる時間だった。寝過ごした。
慌てて飛びおき自室をでると
すわって新聞を読んでいる父がいた。
私はなんだか、夢のつづきみたいで恐ろしくて声も出せなかった。

しかし、こんなに簡潔な夢みっちゃっても、という感じ。
心理学とか無意識領域がどうたらとかそういう理論に解釈を求めるならば、
あまりに象徴的な、というか直接的な夢すぎて逆に解釈が
難しくなりはしないのかしら。
でも本当にこんなベタな父親殺しの夢を今更みてしまったのだから
仕方がない。
それでも、この年までたいした反抗期とか父親への嫌悪などなく
きていたので(他の家庭よりひどい父娘関係なのに、ううん、違う。
「ひどい父娘関係」というか最初っから関係すら築かれてはいないんだけど。)こういう思春期の自我に苦しむ若者、みたいな夢みれて
ちょっと口の端、にやり。


2002年06月08日(土) 無印のバナナチップ喰わえてはしりゃボクサー腰砕け

運動不足が原因の一端である肩こりの解消をねらってボクシングへ。
しかし、基本のステップで大いにつまづく。
そういえば、私は昔からダンスとか振りとか自分の身体を細かく
コントロールするのが下手だった。
球技とかはそんなに駄目でもないんだけど、とにかく振りが駄目。
創作ダンスでは級友に「違う!この足っ(バシッ)」と怒られていた。
ボクシングも駄目かも。
基本の姿勢を上手く作れないのだ。ファイティングポーズ。
少しして自分では上達したつもりで、鏡のまえで一発ジャブかましてみた。
・・・全ッ然、ダメ。なに、これ。ブザマ。
それからは、なるべく鏡を見ないようにして練習した。
初心者コースの他のみんなは、パッと見にはボクサーっぽく振る舞えてるというのに。
気づけば、女、私一人。
なんだか場違い感がプンプンしてることにようやく気づく。
自分では汗臭い男の世界の住人に同化していたつもりだったのだけれど。
それ故に余計に痛々しいものがある。
男ぶるも所詮の女。ガールファイトにすらなれない。
(オチ無し。)

夜テレビでなぜかMr.ビーンやっていた。
なにげなくチラと観たら、涙を流して笑ってしまった。
数年前、ビーンが日本で人気が出はじめた時、しきりに
「ビーンを以前から面白いと言っていたのは自分だ!」
と先見の明をアピールしていたのは、田代まさしだ。
しかし、私はビーンを正々堂々と面白い!と言える人間になりたい。
番組が終わる十時半近くなると気もそぞろになった。
モア ビーン!あい ウォント ビーン!
このままずっと、永遠に終わらないで、ビーン。
このまま永遠にMr.ビーンを観つづけ笑いながらそのまま死にたい
とすら思った。


2002年06月05日(水) シャボンまみれの猫が逃げだす午下がり永遠なんてどこにもないさ

久方ぶりにマイ・スウィ−ト・エンジェル『ぷーチャン』をお風呂で
ジャブジャブ。猫は濡れると、普段の三分のニの小ささになってしまう。
フロ嫌いの猫を洗いながらも、いつもより小さくなっちゃった彼の
可憐さにしばし呆気にとられる。毎度のこと。
私の仕事はいつでも乱暴だ。しかし、猫のお風呂に限って我が家では
完全に私の仕事になっている。
フロ嫌いの猫は、洗ってる最中も散々暴れまくり、聞いたこともないような
凄まじい声をあげる。
母では、そんな様子をみかねて早々に切り上げてしまい、結局ちっとも
洗えてないからだ。猫にとっては同じ厭な思いをするなら多少乱暴でも
確実にきれいにしてくれる私に洗ってもらった方がいいだろうという母の
考えである。
母とちがって私ときたら、猫がどんなに暴れようと喚こうと、まったく気にせず、猫の美しさにうっとりしながら目的を遂行する度胸がある。
(度胸というか、ただ意地悪なだけなんだけど。)
どうにか逃れようと暴れる猫を執拗に洗いだす私。
まるで、いやがる美女を無理矢理実験台にのせて微笑むマッドサイエンティストのごとく。
洗った後の猫はいつもぐったり。半日は起きない。
散々暴れ叫び毛づくろいもせいせいして疲れて眠ってしまうのである。


2002年06月03日(月) オンマキャロニキャソワカ

友人が手伝ってる劇団・水族館劇場をみにいく。
駒込大観音がある光源寺の境内を借りたテントでの野外劇。
オープニングに境内での大道芸あり。
芝居の内容は、わけわかんなかった。
途中からは筋を追う努力すらしませんでした。
昔みたいなアングラっぽいのがやりたいのねーっと思いました。
舞台美術や装置がとにかく凄かった。
水がいたるところに使われていて、一回の公演でプール一杯分だという。
もち客席にもかかってきてて、それでも最前列のお客さんは嬉々としてビニールをかぶっていた。それが可笑しかった。
役者もびしょびしょになって演技している。
水の中に突き落とされてたっけ。
あーあ、いいなぁ。酔生夢死で。


2002年06月02日(日) Le enfer aux petit fille(フランス少女地獄)

「フェリックスとローラ」(監督パトリス・ルコント)を観た。
映画史を彩る数々のローラという名の女性の典型であるファムファタール
に系譜をもつシャルロット・ゲンズブール演じるローラであった。
しかし何をまた今更といった感じもあり、新鮮味に欠け、退屈だなあ・・・
と思って観ていた。その宿命の女っぷりは手垢がつきすぎていた。
例えばこんな具合に。(以下、ネタバレ)
皆で談笑してたところを突然血相をかえて席を立ってしまうローラ。
心配になって追い掛けてきたフェリックスに
「私、逃げるわ」と訳のわからぬことをいう。
何処へ?問うと「わからない」と更に謎の発言。
そしてフェリックスに突然のキス!そして逃亡。ひとり残され呆然と佇むフェリックス。
それ以来プッツリ姿を消してしまった彼女へ思いを募らせる。
こんな調子でみすてりあすな女ローラの虜となる。
しかし、彼が彼女の為に殺人を犯そうとした時、彼女は衝撃の告白をする。
私はずっと嘘をついていた、と。
自分が話した不幸な生い立ちや、子供がいるだとか、前の夫がどうだとか、
すべて嘘。作り話だった。
全然普通の家庭に育ち、子供も夫もいない。
劇的なことがなんにもない自分に自信がなく、わざと訳ありな風を装って
貴方の気を惹きたかった。
そうして私は自分を演出していただけなのだ。
(まるで夢野久作の「少女地獄」の姫草ユリ子のように!)と告白する。
ファムファタールの敗北。ともいえる急展開。
実はこの映画、凡百なファムファタール映画をメタ化させたものであったのだ。ファムファタールもポストモダンするのかー。
そうすると前半のベタなファムファタも合点がゆく。
舞台となっている移動遊園地に象徴されるように幻想的だった二人の恋。
それが、彼女の告白で、現実的なリアルなものへと変換される。
謎の女ローラはついにフェリックスの前に正体を晒す。
がしかし、そこにはなんにもなかった。
イミシンな彼女の言動の裏にはなにも意味などなかったのだ。
そんな彼女をフェリックスは怒りもせず、がっかりしたりもせず、
「ずっと歩き続ければいいさ」と全肯定する。
それによってローラはやっと孤独という病から解放されるのだ。
Fin

このことは何もフェリックスとローラに限らず、多くの恋人たちにも言えることなのではないか。相手にもっていた理想や幻想が解けた時、
はじめて二人はまともに向き合えるのだと思う。
最後はハッピイエンドなわけだが、私はいつもこういう恋人達が
手に手をとりあって歩いていくイメージのラストに弱い。
「ハッピーエンドの恋人達」よりも「別れる恋人達」の方ドラマティックで
悲劇的かもしれない。
けれど「別れる恋人達」のそういったせつなさは一瞬のもの。
別れた時点で二人の未来はなく、終わってしまう。
それがせつなさの理由だろう。
逆に「ハッピーエンドの恋人達」は、映画が終わった後も観客の中では
二人の関係は続いている。
映画のなかの恋人達とはいえ永遠なんてものはないんだから映画の後で
二人はきっといつか別れてしまうのだろうと思う。
(なんて勝手で深読みでネガティブな映画の見方)
「ハッピーエンドの恋人達」が内包している別れにグッとくるのです。
 例えば、「洲崎パラダイス赤信号」(川島雄三)「小さな恋の物語」「橋の上の娘」とか、ハッピーエンドの二人エトセトラ。
あと、誰も知らないとは思うんだけど、おフランスホラーの監督、ジャン・ローランの「猟奇殺人の夜」(こんなタイトルなのになんにもちっとも猟奇的なことなんてないのよん)という作品。
廃人になった彼女と彼女を救おうとして銃に撃たれ今にも倒れそうな男、その二人が手をつないで彼方へとユラユラ歩いてゆくシーンは、”手に手をとる恋人たち”に私がみるせつなさ、みたいなものをもっともよく体現している気がする。映画自体はやたらめったら耽美だし説得力もないんだけど、このシーンが素敵すぎてちょっと捨てておけない作品で。てゆーか、大好きです!     
ジャン・ローラン監督の映画は他にも「リビング・デッド・ガール」という
ゾンビ物みたけどこれも過剰な耽美主義と遠慮ない鮮血に溢れてました。


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