ゼロの視点
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2002年12月29日(日) 悪癖

 仕事をしなければ・・・、仕事を進めなければ・・・・、今日こそは仕事だ・・・・、等と、自分に強烈なプレッシャーをかけて、ドキドキしておきながら、友人夫婦からディナーに誘われると、即座OKを出してしまう私(汗)。

 クリスマス前まで、少しづつ習慣化されてきた“働くモード”が、すっかり崩れてしまったようだ。

 ロンドン在住の私の幼馴染Mと、久しぶりにメール。お互いのダラダラ具合を幼少の頃から知っている仲間。類は友を呼ぶというが、本当に私の友人で期日前に、すっかり仕事や義務を終えるような人は存在しない。夫も私以上にスゴイし、もう、こんな人ばっかり。

 尻に火がつくくらいでは、もう何も動じないレベルに達してしまっているようだ・・・、というのがMと私の結論。全身火達磨になる寸前で、ようやく動き出すのが常になってきている。もし火達磨になっても、救急車呼べばいいや、ってな感じで、危機感というものがありそうで、全く無い・・・・。

 年の功というのだろうか?。とにかく、ギリギリになってもなんとか乗り越えてきてしまった経験が、さらに低レベルの“なんとかなるさ”という感覚に輪をかけるという悪循環。

 仕事を進める以前に、すでにどうやって編集者に期日を遅らせる交渉をしようかと、無い知恵を絞る。そんな時間があるなら、仕事しろと思うのだが、どうもできん・・・。とはいえ、妙な焦燥感だけは倍増していくから、厄介だ。

 さて、20時すぎに、招待された友人夫婦の家に到着。1977年のポルトーなどをアペリティフに出されて、もうすっかりご機嫌な私。その勢いで、この友人夫婦に現在の仕事の見本誌などを見せる。

 友人夫婦は口を揃えて「こりゃ、大変な仕事だねぇ!!」と言う。その瞬間にさっと覚醒する私。また、自分で自分の首を絞めたようだ(苦笑)。彼らが仕事の期限を尋ねてきたので、それに答えると、ますます相手は「本当にキツイぞ」と答えてくる・・・・。

 これじゃ、まるでJacques Dutroncの歌"Les Cactus"じゃないか?!?!?!、と自分に突っ込みを入れつつ、冷や汗がダラダラとたれてくる・・・・・・。


      Dans la vie, il y a des cactus
      Moi je me pique de le savoir
      Aïe aïe aïe, oille, aïe aïe aïe

 
 
 というわけで、食事中、食後と続く様々な議論では、妙に熱くなって語っている私。恐るべし現実逃避パワーっ!!。

 この友人夫婦は、二人とも語彙と表現能力が恐ろしく豊富。ゆえにいつもかれらとの議論は物凄く楽しい。このように私、夫、友人夫妻のそれぞれが、それぞれの視点で語りあっていく楽しさは、なかなか味わえない。彼らと話し合った後は、アタマが本当にシャキっとするのを、ハッキリと感じるほど。

 会話の最中にわかったのだが、私は夏至生まれ、夫は冬至生まれ、友人夫婦の夫のほうは春分生まれ、妻は秋分生まれだった。どうりで、春夏秋冬の極端な各個性が、絶妙なハーモニーを生み出すわけだな・・・・、などと皆で納得する。

 こんなに楽しい会話の最中にも、ふとよぎる仕事の不安。食後酒を勧められるが、一応帰宅後に仕事することを想定して断ってみる。が、気がついたら、ホイホイと飲んでいる私・・・・・。

 夫には、友人夫婦の妻のほうがいい雰囲気で寄り添い、私も憧れの強い友人夫婦の夫のほうにベッタリと寄り添っている。より雰囲気がよくなり、延々と続く真夜中の議論。

 そんなわけで、帰宅後は、まったく仕事もせず、さっさと寝てしまった私でした・・・。さて、明日こそは仕事に復帰できるのか?!?!?!?!。
 
 
 


2002年12月27日(金) ピーターパン

 13時に、姑の妹D、その長男Mとロシア美女Eカップルが姑宅にやってきた。

 ロシア美女Eを目の前にして、Mの幸せそうな顔は、それを見ている方まで嬉しくさせるものが在る。しかし、ひとり心から笑えない人間がいる・・・・、そうそれは姑の妹D。

 すでにロシア美女Eと姑の妹Dとの間には心理的な壁が完全に出来上がっている。見えない火花というか、なんというか・・・・。おおっ、これぞ女の闘いだ!!。

 そんな状況に気づいているのか否かはしらんが、本当にMは彼女の前でデレデレだ。ビデオカメラをマワシ、美しい彼女の一挙手一投足をすべて録画する勢いのM。

 今まで、すべてを犠牲にして長男の世話を自分の生活の意義として生きてきた姑の妹Dにとって、その“生きがい”をもしかしたら、永遠に奪っていくかもしれない、異国の女の存在。しかも彼女に離婚歴があるというのが、どうしても姑の妹Dには許されないことらしい。

 これらの心理劇を見ているうちに、なんかつくづく変な気持ちになってきた。

相手に離婚歴があったっていいじゃないか?。
外国人でもいいじゃないか?。
もう少し自分の息子を信じてもいいんじゃないか?。
息子がロシアの結婚斡旋所まで出向いたことがそんなに悪いことなのか?。

等など・・・・・。

 疑問は尽きないものだ・・・。時代も変わり、ネットで知り合って幸せに結婚している国際カップルもたくさんいる。しかし、こういったことに許容できない世代というのが、確実に存在するのを目の当たりにして、なんともいえない気持ちになる。

 どちらがいい悪いという問題でもない。が、しかし、本当になんだか釈然としないものが確かに存在しているわけであり・・・・・。

 また、もしこのカップルが本当にうまく行ってしまい、結婚でもしてしまったら、姑の妹Dは、恐らく“空きの巣症候群”になってしまい、病気で倒れる心配があったりするから、厄介だ。

 すでに、彼女は何度も病気で倒れている。思い起こしてみれば、それらのほとんどが精神的ストレスだと思うので、寵愛してやまない長男が人手に渡ってしまう可能性を考えるだけでも恐ろしい。

 ま、今後はどこまでMがこれらの問題の中心となって、ふんばっていけるかによるのだろう。がんばれ、M。そして、ちょっと遅いが自分の自由を確立しておくれっ!!。


2002年12月26日(木) 私の役目

 起きたら、すでに午後1時だった。姑の家にいるっていうのに、昼過ぎまで熟睡してしまう私。夫と姑はすでに朝食を早々と済ませ、ランチの準備の真っ最中。もう待ちきれなくなったようで、姑に派遣された夫が、私を起こしに来た。

 それでも、「あと10分」だのと言って、再びフトンに潜り込む。そして再び10分後、姑の伝書鳩となった夫が再び部屋にやってきて、私を起こしに来る(笑)。しょうがない・・・・、起きてやるかっ!!。

 クリスマス帰省中というのは、起きているかぎり“食ったり、飲んだり”しているような気がする。断食したい誘惑にかられる程だ。おとといのディナーは夜9時半にはじまり、午前3時まで。昨日のランチは午後1時にはじまり、午後10時まで・・・。で、翌日目が覚めると、もうランチだ・・・。ウゲッ。

 しかし、オエっとか、ウゲっとかいいながら、出されたものをパブロフの犬のように、食べ始める私も私だ。年代モノの極上ワインを知らず知らずのうちに飲み、気がついたら、気分が良くなっている。

 ということで、ランチのあと、“気分が悪い”と嘘をついて、長い昼寝に突入。午後3時から午後8時までっ!!。とても快適だ。

 こんな嫁を見て、姑が何を思っているのだろうとふと考えるが、ま、どうでもいい。私にとっては快楽が最優先。昼寝から覚めてサロンに降りていくと誰もいなかった。どうやら夫と姑は買い物に出かけたらしい。

 私はなんでも都合よく考えるタイプなので、こういう場合も、親子水入らずにさせてあげる“よい嫁”じゃ、などと解釈する。

 ディナーのあとに、私の出番。姑のお喋り相手だ。姑のお喋り度合いはスゴイ。フランス人は一般的にお喋りだと思うが、その域を遥かに超越している。おまけに、夫も強烈にお喋りだが、それでも、男という人種はやはり女のお喋り欲を満たさないらしい。

 一生懸命息子に話し掛けるが、上の空で答える息子の態度にちょくちょくキレ気味の姑(笑)。そんな時に、フォローして、相手をするのが私の役目なのだ。

 例えば、今一族の間で“旬な話題”といえば昨日の日記に書いたロシア美女とMのアヴァンチュールの行方。明日の昼に、彼らをランチに招いているので、その作戦会議と称し、あーでもない、こーでもないと色々と推理が始まる。ま、ようするに噂話なだけなのだが(笑)。

 昨日のランチでのロシア美女の行動を分析したり、一族の思惑を推理したりと、俄かシャーロックホームズになってしまった姑との会話は延々と続く。私も本当に根気よく相手をして、新たな視点を提示したりすると姑は喜ぶ。

 どんどんと活き活きして、若返る姑。そんな姑を見ていると、女性というのは(自分を含めて)、噂話とかが好きな生き物なんだなァ・・・、とちと焦る(汗)。

 そんなわけで、一日中寝ているだけの嫁だが、こうやって夜には汚名挽回をするのである。

 


2002年12月25日(水) 異邦人

 本日は13時より、姑の妹宅にてクリスマスランチ。これもやはり毎年恒例の儀式として一家に定着している。

 姑は、二人息子がいて、その長男が私の夫で、この夫婦は子供なし。次男Jは妻と息子二人連れてやってくる。そして姑の妹Dも同じく二人息子。長男Mは生体研究所を運営の独身、次男Fは外科医で、妻も医者、そして3人の子供を連れてやってくる。その他に、この家族に関連する人間がやってくきて、総勢17名でのランチ。

 さて、最愛の息子達をいつまでも自分の近くに住まわせておきたかった姑。しかし現実は厳しく、2人の息子は成人するのを待つ前から、親元を離れ、フランスを離れ(特にうちの夫)、二度とレンヌに戻ってこない。夫は、干渉の激しい母親から逃れるために15歳で英語のバイリンガルになってしまった。なぜ英語か?、というと、本当は、何語でもよかったらしいが、とにかく姑が理解できない言葉を喋ってしまいたかったらしい(笑)。

 それに対して姑の妹Dは、最愛の息子達をいつも自分の傍に置いておくことに成功している。おまけに、稼ぎも、社会的地位も手に入れ、姑からみればちょっと妬ましいところもあるのだと思う。

 しかし、姑の妹Dには、ひとつやっかいな問題がある。それは長男のMが40過ぎにして未だに独身、ということだ。長男Mは一昨年前まで実家に住んでいた。そして心機一転して実家からクルマで5分のところに、将来を考えてアパルトマンを購入。一見、独立したかのように見えるが、仕事が終わったら実家により、母が作る食事をとり、洗濯物を母に預け、アイロンがきちんとかけられたワイシャツを引き取り、自分のアパルトマンに寝に帰る、という生活をしている。

 姑の妹Dも、その長男Mも、彼の結婚計画に対しては乗り気である。が、そこに問題があるのだ。姑の妹Dとしては、なるべく家族の財産を守るためにも、地元出身で、身元がきちんとわかる“いい所出のお嬢さん”ってのを息子にあてがいたい。

 ところが長男Mは、どうもフランス人女性とはうまくいかないようだ・・・。あまりにもオクテというのがネックなのだろう。博識で喋っていて楽しい長男Mだが、やはりそのオクテさのレベルは尋常ではないのが私にもよくわかる程。

 オクテの長男Mは、それでいてかなり女性選びには厳しい。トップモデル級の女が好きなのだ(笑)。このまま独身でいたくない、だけどキレイな嫁さんが欲しい、でもフランス人のように気が強いのは嫌、という彼は、様々な要求を満たす嫁探し方法をとうとう発見!!。ネットでヨーロッパ人と結婚したいというロシア美女の結婚斡旋サイトに登録して、そこから、すでにフランス語も喋れて、なおかつキレイな女性を選ぶというシステムだ。

 この夏、実際に結婚希望者のカタログに掲載されていた女性たちを物色するためにロシアへ足を運んだM。そこで、不思議な出会いがあった。彼はカタログの女性ではなく、斡旋会社に勤めるロシア人女性に惚れてしまったのだ。それ以降、地道にメール交換を続け、とうとうクリスマスの家族の集会に彼女を連れてくることになった。

 姑の妹Dは、もうそんな状況が嫌でたまらない。決して口には出さないが、すでに顔に書いてある。どこの馬の骨ともわからない、ロシアという貧乏な国から、ちょっと意気投合したからと言って、ホイホイとフランスくんだりまでやってくるロシアおんなっ!!。自分の息子のことを絶対“いいカモ”として扱っているに違いないっ!!、と彼女が考えているのは、明らか・・・・。

 そして、Mの彼女であるロシア人Eが登場。Eはエマニュエル・ベアールに似た美女だった。さすがMっ(笑)!!。私達はMと仲がいいので、あらかじめ彼女がこの会合にやってくることは知っていたが、他の人たちは、まったく寝耳に水だった。

 するとどうだろう・・・。みな姑の妹Mの反応が怖いので、一斉にロシア美女Eを、まるでその場に存在しないかのように振舞うではないかっ!!。Mの弟の妻は、将来遺産を争う相手になるかもしれないロシア美女を、どう思ったのだろうか?!?!?!?!。なぜなら、ロシア美女と、Mの弟の妻がよく似ているからだ(笑)!!。傍目からは、姉妹に見えるほど似ていてるのだ。

 さて、結局、ロシア美女に勇気を持って(笑)、話し掛けることができたのは、私達夫婦と姑だけ。姑はなんといっても姉だから、自分の妹の機嫌なんか気にしないっ!!。で、私達も何も失うものもないので、何も気にしないってわけだ。それに、私個人的にも、異邦人が家族にやってくるのは、とっても楽しいこと。マンネリ気味の会合が、これでもっと楽しめるというわけで、一石二鳥だ。

 そんな私達の姿を見て、内心イライラし始める姑の妹D。彼女としては、全員にロシア美女を婉曲的に無視してもらいたかったのだろう・・・。タブー。

 というわけで、私達3人の暴走は止まらず、Mとその彼女のロシア美女Eとどんどんコミュニケートして、金曜日の昼に、一緒にランチする約束まで取り付けてしまった。顔面蒼白の姑の妹D・・・・。

 それにしても、だ・・・・・。プチ・ブルジョワの本音と建前というか、挨拶はニコニコとするが、それ以上は決して近寄らず、無視するという態度のキョーレツさに、改めてビックリ。それと同時に、別の意味で本当にキョーレツな我が姑様だが、彼女の妹が自分の姑じゃなくて、本当によかった・・・・、と思わざるを得ないゼロでした。

 色々なドラマがあったランチだったが、終わったのは夜の22時半だった。うーん、いつもどうしてこう長くなるのか?!?!?!?!、わからんっ!!。
 
 


2002年12月24日(火) 風紀委員

 やってきましたクリスマス・イヴ・・・・・。ブルターニュ地方はレンヌというところに生息する姑宅を訪れ、家族で食事をする日がまたまたやってきてしまった(笑)。

 午後21時半から始まるディナーに対して、わしら夫婦は19時半にレンヌ入り。義弟家族は20時半にパリからレンヌ入り。今回は皆忙しくて、ディナーの準備を手伝うものがいなかった。が、それに反して、姑はいたくご機嫌。この反応をみて、みなが内心ホッとする。準備などですでにヘトヘトに姑が疲れていて、おまけにそれで機嫌が悪かったら、あっという間に家族内紛が発生するので、姑の機嫌がどのような具合であるか否かが、本当に重要な問題となるのだ(笑)。

 姑を除き、すべてのメンバーがパリから仕事帰りのままTGVに飛び乗ってやってくる。ゆえにディナーの前に急いで着替え。男性陣はみなタキシード。女性人はそれなりにドレスアップ。

 この感覚に、未だに慣れない私。なんで身内だけなのに、ここまで着飾りゃならんのか、よくわからんっ!!。姑のテーブルセッティングもスゴイ。どうしてここまでエネルギーを注げるのか?!?!?!。

 とはいえ、招かれた身で、素晴らしいテーブルに就くのは、気分的に決して悪くない。が、もし自分が同じような立場になったら、絶対こんなことはしないだろう・・・と、再認識。

 私はさっさと着替え、すぐに指ならしにピアノを弾き始める。以前の日記にも書いたが、こういったシチュエーションでは、必ず私は雇われピアニストのように演奏するのが常だからだ。音楽にうとい夫の家族は、指ならしもせずにピアノが弾けると思っているから困る・・・・。簡単な曲なら平気だが、ある程度の大曲になってくると、やっぱり直前練習は私レベルのアマチュアには必然となる。

 今回のプログラムはオール・バッハ。パルティータ1番や、平均律などを披露した。内心音が鳴っていればいいんだろーが・・・・、なんて思いながらも、一応、頑張って弾いてみた(笑)。

 あとは、もうアペリティフに始まり、オードブル、メイン、チーズ、デザート、カフェ、と延々と続く、どこでもあるフランス式長丁場・耐久ディナー。そして、その後に、プレゼント交換。すべてが終わる頃には、時計は午前3時をまわっていた・・・・・。

 この家族は誰も喫煙しない・・・・、私を除いて・・・・・。

 酒を飲む、すると、喫煙者は、必然的に喫煙したくなる・・・・。ああ、悪循環!!。というわけで、私はディナーの最中に、何気ないフリして席を立ち、こっそりを庭に出て一服するのが習慣になっている。だが、敵もアホじゃない。こっそりと席を立ったはずなのに、再び席に戻ってくると、タバコの害についての話題になっているのだ。もちろん、この話をふるのは、いつも我が姑様。

 彼女の使命は、私に禁煙させること。ゆえに、もうここ数年、タバコの害についての新聞や雑誌の切り抜きを集め、スクラップブックを数冊作成している(汗)。時には、フラッと席を立った私を尾行して、いっしょに庭までついてくることがあるから鬱陶しい(笑)。ホッとして一服して振り向いた瞬間に、姑がいる恐怖。

 私がたった一本を吸い終わるまで、目の前でいかにタバコが身体に悪いかという演説をし続けてくださる姑様・・・・。喫煙者の知人が肺がんになって死んでいった様子を、まるでドキュメンタリー映画を見るように語ってくれるから驚きだ。

 しかし、だ。こういった話を聞けば聞くほど、ストレスになり、もっとタバコを吸いたくなるのが喫煙者の常。ということで、現在のところこの問題は姑と私の間で、完全なイタチゴッコとなっている。とはいえ、来年早々にもタバコが異様に値上がりするので、恐らく禁煙すると思うのだけれど・・・。さて、どうなることやら?!?!?!。

 


2002年12月23日(月) クリスマスプレゼント考

 日曜日の朝からネットのモデムが壊れて、メールもなにもできなくなっていた。朝一番でプロバイダー元に抗議電話する。

 明日からは、姑の生息地であるブルターニュ地方へ行く。金曜日の夜に戻ってくる予定だが、その間まったく仕事ができなくなるので、なるべく今のうちに進めておく。とはいえ、なかなか進まないので、明日の昼に乗車するはずだったTGVの時間を夕方に急遽変更。

 姑には申し訳ないが、本当にクリスマスのディナー直前に現地に入るという日程になった。

 夫のいとこMが40代半ばにして未だ独身。いつもいつも、彼がどうして独り身なのか?、という話題をジャンママや、その仲間が色々と噂している。本当にこういったことは、古今東西変わりがない・・・・・。個人的には、そんなの放っておけと思うのだが、古い世代には、“独身=結婚できない”という否定的な概念に、自然と置き換えられてしまうらしい。

 しかし、だ。今年はM氏、とうとう彼女を見つけて、ノエルのディナーに連れてくるらしい。もう、一族はその話題でもちきり(笑)。ちょっと冷やかしてこれを書いている私でさえ、彼女がどんな人なのか興味津々だ。

 M氏と彼女は知り合ったばかり。なのでこれから続くか否かは神のみぞ知る?、こと。さてどうなりますやら・・・・。

 ところで、クリスマスプレゼントの用意をしていてつくづく思ったこと。こちらではクリスマスは、日本での正月のようなもの。家族で集い、クリスマスプレゼントの変わりに、日本ではお年玉をあげる。
 
 いろいろかさばるプレゼントを旅行鞄に詰め、TGVに乗って移動することを考えると、お年玉のほうが場所もとらないし、プレゼント探しに奔走する必要もなくて、便利じゃないかと思った。

 でも、しばらく考えているうちに、プレゼントのほうがフランス人には都合がいいのではないか?、という疑惑にいきつく・・・・。手間隙かけても、安上がりのほうがいいのだろう、と。日本のように暗黙でいくらと決まっていると、きっとケチなフランス人には痛手に違いない。最も身近な親族だけならまだしも、大家族になったら、金なんぞ配ってられない、配りたくもないというのが本音なんじゃないだろうか、と。

 その点、プレゼントだったら、うまくラッピングしてしまえば、それなりのものに相手を一瞬錯覚させることもできるし(笑)、出費も押さえられる。

 さて、ちなみに夫は、毎年家族にあげるプレゼントを購入しない。特に自分の母親に対してのプレゼントを購入している夫の姿など見たこと無い。では、彼は毎年どうやって、この時期を凌いでいるか?!?!?!。

 彼は、家中にあるガラクタを見て回る。そしてテキトーにみつくろって、それを私が日本人であるゆえの特技“ラッピング”でキレイにして、それをあげるのだ。廃品回収か?!?!?!、と首を傾げたくなる。

 きっと夫の例は特殊だとしても、いずれにせよ、クリスマスのただのシンボルとしてプレゼントを交換するのは、個人的に好きではない。出費してもしなくても、結局、自分の本当に欲しいものじゃないものをもらった場合、端的にいえば、廃品回収的な意味合いが発生すると思うのだが・・・・・。

 ああ、小切手が欲しいっ!!。
 


2002年12月21日(土) 夫の誕生日パーティー

 今日は夫の誕生日。プレゼントは、なし。夫も例のリストラ問題での私の支援と、その成功がなによりのプレゼントだと思うので、何もいらないと言っているし。

 夜は、郊外の友人宅を借り切って、夫の誕生日パーティー。80名くらいの人が集った。久々にみる顔などもあり、楽しい。

 以前の日記に書いた、バイク事故に遭った友人JY(♂のほう)は、全然回復しないからパーティーなんかにはとうてい出席できないと、直前まで私達をだまして、お忍びでやってきた。本当にビックリした。まだ骨折した鎖骨にはギプスがはめられているが、それでも見かけは元気そのもの。

 昏睡状態だった女性Eも、先日意識が戻り、現在は病院を変えリハビリに専念し始めている。これですっかりJYも元気になったらしい。彼にとったらかけがえのないクリスマスプレゼントだ!!、と言っていた。私達にとっても同じだ。

 ところで、我が家はこういったパーティーだと、会場につくなり完全に別行動。特に自分達が主催者側だと、パーティーが終わるまで夫と一緒に過ごすことがない(笑)。それぞれが招待客などのもてなしに忙しくしているのが常だ。いつからこうなったのかわからないが、気がついたらこういう習慣になっている。

 そして家に戻ってから、あの人がどうだったとか、この人はこうだった等、それぞれの立場から色々と語る。夫の視点と、私の視点が違うのがまた面白い。もともと男女で違うのだし。私はやっぱり男性に甘いし、夫は女性に甘い感想が多かったりする(笑)。

 招待客の中に、私の大好きなVがいた。彼はもと弁護士で、現在は不動産業を営んでいる。彼の喋り方と、ユーモアが強烈にオリジナルで、話していてもう楽しくて仕方が無い。それプラス職業柄か、話の起承転結がハッキリしていて、辛辣でもある。こうやって友人として会話するのはいいが、きっと彼が上司だったりしたら、たまらねーなぁ・・・・と多々思う(笑)。

 彼と話しているうちに、ふとあることを質問したくなった。彼の立場だったら、今までに絶対雇用人をリストラしている経験があるとピンときたので、さっそく尋ねてみた。すると正解!!。結構な数を今までにリストラしている模様。おまけに元弁護士なので、雇用人側にどうやったら訴えられないか?、というところまで考えての、行動だから、されたほうは堪らないと思う。

 これらの話をあとで、夫としていて、本当に夫の上司がある意味彼のように在る意味スゴイ上司じゃなかったね、と胸をなでおろしたのは言うまでもないっ!!。

 夜9時から始まったパーティーは、延々と続き、自宅に戻ってきたのは日曜日の朝6時だった。きっと日曜日は、この分じゃ仕事できんと思う・・・(汗)。

 


2002年12月20日(金) i-mode

 とうとう、i-mode機能の携帯を手に入れた!!。この日記を日本から読んでいる人には、さぞ可笑しいだろうが、フランスというのはこういう国なのだ(笑)。

 どこのショップに行っても、売れ切れだった。そして予約してやっと本日の夕方に入手。i-mode機能の携帯が出るまで、絶対に携帯電話を買わないで我慢してきた甲斐があった。

 街中からどんどん消えていく公衆電話。でもそれにもめげず、用事がある時は街を駆けずり回り、公衆電話を探しなんとか凌いできた・・・。そして取材であちこち動き出すようになってから、ますます携帯が必要になってきていたので、本当に嬉しいっ!!。

 新しいオモチャを手に入れた子供のように、ずうっとi-mode機能の携帯をいじっている自分に、少しばかり赤面しながらも、やめられない。

 日本に里帰りするたびに、友人やいとこなどにi-modeを見せつけられ、マジで羨ましいと思いつづけてきた(笑)。そしてフランスに戻るたびに、文句を言っていたのだ。突然の待ち合わせなどで、通りの名前などをメールで確認できるたら、どんなに素晴らしいだろうと・・・・。

 土日は電話かけ放題のフォルフェを選んだので、これも便利。まあ、きっと夫に奪われるのだろうけれど・・・・。出来る限り“わたし”の携帯を死守したいものだ!!。

 予約してから、毎日販売員に電話して、いつ商品が入荷するか確認していた。担当販売員が休暇の日まで彼の携帯電話する執拗さ(笑)。そんなわけで、別に恋人でもないのに、私が電話すると販売員が、名乗る前に私のことがわかるまでになっていたほど。

 ということで、少しだけ私の生活がアナクロじゃなくなりました。
 


2002年12月18日(水) la Libération

 取材先をまわり、ふらふらと11区へ。とりあえず、Keller通りにあるマンガショップなどを周り、店員に色々訪ねてみる。が、やはり夕方で学校が終わってから、まるでショップを図書館代わりに利用するためにやってきて、読むだけ読んで、万引きしようとする輩が多いゆえ、なかなか話が続かないので、あらためて別の日にRDVを取る。

 その後、本日の特別インタビューをお願いしていた日仏カップル(某サイトで有名なJ&Rご夫妻)と待ち合わせのため、とあるカフェへ。マンガやJ-POP、そしてゲームのことなどについて語ってもらうという私のお願いに、快く買って出てくれたのだ。

 最初こそ、初対面で硬かったものの、どんどんお話をしてくれて、本当に感激した。日本に日本人として生まれて、当たり前のようにアニメを見るというのとは全く別の側面が見えてきて、話を聞いているうちに、文章の書き出しがどんどん頭にでてくるようにもなり、刺激にもなった。

 同行してくれたRさんも日本人だが、私と同じように、マンガも読めば、アニメも見たとはいえ、それはそれで、それらについて詳しいというレベルではないようだ。

 途中から、J&Rご夫妻の友人のJ(♂)も合流して、話はどんどん盛り上がっていく。自分たちの好きなことを話している人達の表情というのはとてもいいなあ、とつくづく思う私。聞いているだけでも、その楽しい雰囲気に引き込まれていき、一時も退屈しなかった。逆に本当に勉強になり、感謝感激。ただし、今回はあまり日本人Rさんとゆっくり日本語で話しができなかったのが心残り。

 もっともっと話を聞きたかったが、夫と連絡が取れないため、しょうがなく帰宅。自宅につくと、すでに11時近かった。ってことは、私達は相当長いこと時間が経つのも忘れて、話していたことになる。
 
 さて、いつもなら、夫と連絡が取れなくとも、気にしないのだが、本日だけは、妙に“何か”が気になって帰宅したのであるが、やっぱり、それは当たっていた。

 いつかの日記にリストラと称して文章を書いたのだが、覚えている人はいるだろうか?。要するに夫が某大会社のリストラ対象者にひっかかり、上司から異常な嫌がらせをしてきていた。それに対して、時々弱気になる夫を、常に戦闘状態に建て直し、知恵をつけてきたのが私、そして、たくさんの友人たちだった。

 先々週には、本格的に会社側にじわじわと夫が宣戦布告を開始。様々な心理作戦で、逆に上司を追い詰めていくことに成功。もしこのまま上司の嫌がらせが続けば、夫はラジオ出演して内情を暴露するまで話を進めていた。そして、"Harcèlement Moral"(要するにいじめ)として上司を訴え、監獄に送るための書類も集めていた。

 数人のジャーナリストもスタンバイ状態。弁護士の友人や、会社経営の友人らも、それぞれの立場で応援。また、夫の会社の同僚なども公に夫の肩を持つようになってきていた。

 先々週会社に特定の人に送った、“内容証明”の文書の効果もあったのかもしれないが、とにかく、突然、上司の態度が180度変化したらしい(笑)。夫もビックリ。12月31日までには、辞めろといわれていたのに、本日の夕方の上司は、夫の姿を見るなり、ニコニコ笑顔で、来年からのプロジェクトを話し出したそうだ。そして、いままで決して認めなかった夫の功績をすべて認め、しかも、夫の好きなように仕事を進めていいとまで提案してきたそうだ・・・・・。

 一体何があったのか?!?!?!?!。

 キャンキャンわめくアホ上司(ゲシュタポ)を、こっちがとうとう本気になって様々な手段で完全包囲した途端の“白旗”。嬉しい反面、ちょっと拍子抜けした私。これからあらゆる角度から爆撃しようと思っていたのに・・・・、クソっ!!。

 ま、とにもかくにも、長いこと続いていたこの事態。精神的にはドイツ占領下のレジスタンスのようだったが、とうとう"la Libération"(ドイツからの解放)の日が訪れたようだ。

 そんなわけで、夜中過ぎに、ふたりして大声で"la Marseillaise"(フランス国歌)を歌って勝利を祝うゼロ夫婦でした。


2002年12月17日(火) ナンパ

 仕事しようと思っていた・・・・。でも、ソノ前にちょっと一杯と思ってワインを飲んだら、すっかり気持ちよくなってしまって、全然仕事したくなくなってしまったので、日記更新。

 パリに住んでいる日本人女性なら、美醜老若を問わずして、意味不明にナンパされることが多々あると思う。フランス人といいながら、アラブ人だったり、イタリア人といいながら、イラン人だったり(笑)。

 ま、私ぐらいの年齢になると、日本に住んでいるかぎり絶対にナンパされないのが常。パリに住んでいると幸か不幸か、まだまだナンパの恩恵(?)を受けられたりするから、おもしろいっ!!。

 とはいえ、イライラしていたり、忙しい時にナンパされると、私の対応は酷い。こんな私にナンパしてしまった不幸な男性達は、サンドバッグのようになってしまうのがオチだ。

 本日は取材で、St-Germain des-Prés界隈を長いこと闊歩していた。さすがに観光客も多い界隈、アジア人目当てのナンパ師もたくさんいる。仕事の構想を練りつつ、独り言をブツブツ呟きながら歩いていると、さっそくナンパ師登場。きっと彼は習いたての中国語を使いたかったのだと思う。そんなわけで、私に中国語で話し掛けてきた(笑)。もちろん、私はピリピリモードだったので、もう彼はサンドバッグ。憂さ晴らしの対象にしてしまった。

 イライラしている時にナンパされた場合、必ず、相手が言ってきたことを大声でリピートするのが私の常。そうすると、周りの人がみんなアホなナンパ男を注視する。そうなると、いてもたってもいられなくなった♂は、オズオズと退散していく。それでも、粘る♂がいる。そういった時は、あらんかぎりの嫌味を言って、自分のストレス発散に利用させてもらう。

 こういうことを知人に話すと、“あんたいつか刺されるよ”と忠告されるが、もし刺されたとしても、これだけ大声で人様の注目を浴びることに成功することができれば、刺された後には、たくさんの証人がいるので、絶対に犯人は捕まると思っている。それに、攻撃モードに入っている私は、相手を罵倒しながら、もし相手が襲ってきたら、いくらでも対処できるように手足に指令を与え、ぶっ飛ばす準備。おまけに持っている鞄を武器にできるように握り返すのが常だ。

 ピストルだったら、イチコロだけれど、ね(笑)。

 とはいえ、気分のいい時には、ナンパの誘いにのったりする私。特に夏場だ。のどが渇いていて、でも、自分では金を払いたくねーな、なんて思っている時にナンパされたら、ついていきますよ、私。ナンパされるフリして、相手にインタビューはするは、それでタダで生ビールを飲み干すは・・・。で、最後に電話番号を聞かれたら、必ずアケミと名乗って、日本大使館の電話番号を教えるようにしている。

 ま、たいていのナンパ男は、ナンパする過程を楽しんでいるわけだし、それはいわゆる賭けでしかない。なら、こちらもとことんそのゲームにのっとって、楽しむことが出来て当然だと思っている。もし、そこでうまくいかずに恨みに思うのなら、すぐさま警察に通報すればいいのだから。

 夏場は、バカンス焼けもあって、ブラジル人、アラブ人、究極はポリネシア人に間違えられ、冬場は色が抜け、アジア人としてナンパされる。もう本当にギャグでしかない。私は、いったい何人なのか、と?!?!?!?。

 取材が終わってちょっとホッとしたので、久しぶりにレンヌ通りをウインドウショッピング。靴屋のショーウインドウを“一心不乱”で見入っている最中に、本日二度目のナンパに遭遇。義務を終えて、すこしリラックスモードに入っていた私は、少しだけナンパ師との会話にノッてみる。彼の話を聞いてみると、すでに数十分前から、私のことをつけていた様子。ウゲっ。

「あなたの名前はなんですか?。」と聞かれたので、
「アケミ」といつもの癖で発作的に嘘発言。

「既婚なの?」と聞いてくるので、結婚指輪を見せながら、
「既婚、未婚は関係なくて、いつでも誰かに知り合いたいと思っているわーーーん」とちょっと刺激してみる。すると向こうもその気になってきたのか、電話番号を訪ねてきた。私の思うツボ、そこで

「本当にあなたのことは素敵だと思う。私はあなたと一線を越えてる準備はできてる。だから、私のマネージャーでもある夫と交渉してみてっ!!」と言ってみた。

 するとどうだろう、相手は怯む、怯むっ!!。この瞬間がたまらないっ!!。

 いくらフランスはパリとはいえ、これらのナンパの恩恵を受けられるのも、あと数年、嫌だ、鬱陶しいといいながらも、憂さ晴らしに大いにこの機会をエンジョイさせてもらおうと思っている、ゼロでした。


2002年12月16日(月) 幕末といえば・・・・・

 すっかり、幕末関係の本を読み漁っているので、頭の中は江戸時代の終わりから明治維新。大蔵大臣と言おうと思えば、間違えて“勘定奉行”などと言ってしまいそうな勢いだ。

 幕末・・・・・。

 そう、その時代に私の父親の父親、つまりは祖父が生まれているんだよなぁ・・・・、と感慨に耽ったりもする。祖父は1867年生まれ。父は1920年生まれ、そして私が1967年生まれの“子無し”ゆえ、100年にして、まだ3代目の世代なのだ。のんきな家系というのだろうか?。

 祖父のことは、よく知らない。なんせ、私が生まれる100年も前、つまり1世紀前に生まれているのだし、私の父が生まれて間もなく亡くなったそうなので、もう知りようがない(笑)。

 世の中には、若いうちにどんどん親になっていく家系もあるようだが、我が家というか、父方の系譜は、その逆。祖父にしても、まさか一世紀あとにようやく孫がこの世に誕生しているなどとは、想像すらしていなかったに違いない。

 祖父の生まれた年に、パリで万国博覧会があった。徳川慶喜が弟の徳川昭武を代理でパリに派遣し、パリ万博でフランス人に馬鹿にされながらも奮闘したのもこの年。ナポレオン3世と徳川昭武の会見と想像するだけでも、私には遠い遠い昔のことのように感じられる。

 幕末から明治維新にかけては、フランスから日本はたくさん学んだようだけれど、現在、私が存在する時代においては、逆にフランスが日本から学んでいることが多いのが、なんとも皮肉で面白い。どちらがいいか悪いかというのではなくて、だ。

 先日、とうとうフランスでも発売された"i-mode"を予約。これひとつとっても、日本ではとうに存在していて(といってもこれが普及してきた頃には私はすでに日本にいなかったが)、やっと店頭に並んだ新製品の"i-mode"を、フランス人らが垂涎の眼差しで眺めていたりする。

 こう考えると、本当に日本の発展というのは、本当に短期間で達成されたのだなあ、とつくづく思わざるをえない。と同時にかなり特異な国に、生まれ育ったことも再認識。

 日本に住む友人にこう言われたことがある。

「なんで、わざわざ便利で住みやすい国に生まれたのに、そんなにアナクロな国に住んでいるの?。」と。

 ま、確かに、言われてみりゃそうだ(笑)。なんで、パリに住んでんだろ、私?、と自問自答。

 ちょっとカラかう意味合いを込めて、友人のセリフをそっくりそのまま、ココリコ丸出し(要するにフランス万歳の人)の姑に、リピートすると、案の定姑は、気分を害す。そんなに私の思うツボな反応をしないでほしい、姑よ!!、腹がよじれるではないかっ!!。
 


2002年12月15日(日) 図書館

 昨日の午後、とうとう初めて15区にある日仏文化会館に出向いて、53ユーロも支払い、会員になった。なぜなら、図書館の利用ができたうえに、本を借りることができるから。13時の開館時間に合わせて出陣し、手続きをして、さっそく図書館へ。

 今の仕事のことがなかったら、決して足を踏み入れることがなかったかもしれないところ。ある意味でこの場所に対して、妙な偏見を持っていたのかもしれない。しかし、一度行ってみたら、色々と充実していてビックリ。こんなことなら、もっと早くここを訪れるべきだったと後悔するほどだった(笑)。でも、後悔するって作業を繰り返すと、だんだんと悔しくなるので、今まで“縁がなかった”と無理やり解釈するようにした。

 日仏英語で書かれた日本に関する本などが充実していた。これらの本をすべ購入していたら破算する。ありがたや、図書館!!。すべての棚から仕事に関係しそうな本を選ぶだけで相当時間がかかる。日本語の背書きのタイトルは、縦書きなので楽だけれど、洋書になると、いちいち首を横にしながらタイトルを見ることになるので、面倒くさい。

 さて、日曜日の夕方からさっそく借りてきた本を読み出した。日本語なのでどんどん読み進めることができるのが嬉しい。『幕末日本とフランス外交〜レオン・ロッシュの選択〜』(鳴岩宗三著・創元社)というもの。これもきっと仕事のことがなかったら読むことがなかった本かもしれん・・・・?!?!?!?!。

 読み始めると、さっそく面白い記述を発見、フランス人の情報処理のまずさについて、だ。以下、抜粋(19頁)。


「このようにせっかく重要な情報を入手しながら、それに対する分析能力を欠いたり、そこに現れた情勢の変化に対応しようとしないフランス側の怠慢は、一時的現象に過ぎないのであろうか。じつをいえば、これはなにもベルクール個人にかぎったことではない。レオン・ロッシュにもしばしば見られる欠点なのである、いや、それどころか、これはむしろフランスの不名誉な伝統的お家芸の一つにも数えられる。」

 
 ベル・クールは初代仏駐日大使で、ロッシュは2代目。幕府との交渉がうまくいかないのにも関わらず、その原因を分析することもなく、ずうっとブーブーと文句を垂れていたのがフランス人で、それに対してイギリス人は的確に状況分析をして、早々と幕府との間に折衷案を見出した、ということに関しての記述である。

 また、普仏戦争のときには、フランスもプロシアも開戦に対して綿密に計画を練っていたはずだったが、いざ開戦してみると“軍服のボタンひとつにいたるまで準備万端整っている”と豪語したフランスは、肝心の情報不足と固定観念に縛られて動きがとれず、あらゆる事態に即応できる体制をしいたプロシアの前に、ひとたまりもなかった、というのである。

 読んでいて、思わず笑いがこみ上げてしまった。そしてあまりにもそれに当てはまることがたくさんあるので、色々なことを思い起こしたりもして、すっかり楽しんでしまう私。

 マニフェスタシオン好きなフランス人。またマニフェスタシオンする割に、全然変わらない世の中。変化を求めてデモをしているのか、それとも変化も求めず、とりあえず文句を垂れるのが好きなのか?、サッパリわからんということに遭遇するが、まさにそれを象徴しているかのようだ(笑)。

 日曜日の午後は、親しくはないがどうしても我が家に一度は招待しなければいけない夫婦とランチをしていた。“イヤイヤ外交”ならぬ、“イヤイヤ社交”。妻のほうは、極左運動家で、イデオロギーなどのことを聞いてもいないのに、延々と喋り倒すヒト・・・・・(大汗)。敵の批判はそりゃあ素晴らしいが、上記の抜粋のごとく、分析が今ひとつ不足している気がした。

 あまりにも理想が強いので、面白くなって、ちょっとソノ理想の足元をぐらつかせて見たら、彼女が少し黙った。夫は、顔には出さぬが内心爆笑していたようである。

 ところで、サルコジ先生の一大理想郷は、どこまで驀進するんでしょうかねぇ?!?!?!?!。


2002年12月13日(金) カップル達の逸話 PART3

 毎年、この季節になると思い出すカップルがいる。15年間籍をいれず、同棲生活を送ってきた二人、♂R(53歳)、♀P(42歳)。

 二人とも、知り合う前にはそれぞれ別の人と結婚して子供を設けていて、その後離婚。その後、人生のパートナーとして最高の人に知り合い、そのまま過ごしてきて既に15年が経っていたという感じだったのだと思う。Rが不動産屋を経営して、彼女のPがそれを補佐するというスタイルで働いていた。

 1999年春から私達は、購入目的でアパルトマンを探し出していた。当時私はほとんどフランス語も喋れなかった。日中仕事のため物件を巡れない夫に代わって、私はビデオカメラ持参で物件めぐりをして、部屋を撮影すると同時にセールスマンにカメラに向かってセールストークをしてもらう、という荒業をしていたのもこの頃のこと。それを、あとで夫に見せればいいだけの名案だった。

 しかし、数ある不動産屋、かなり胡散臭いものもあったし、値段が異様に高く設置されたものも多々あり、数をこなしていくうちに、どんどん不審になっていく私達。そんな時にたまたま、別の機会で知り合ったのが、このR&Pカップルだった。

 Rは惜しげもなく、本当に親切にたくさんの有益なアドヴァイスを私達に与えてくれた。その後結局、私達は不動産屋を通さずに、個人売買で現在のアパルトマンを購入することになるのだが、その契約時も、すべて書類に目を通してくれ物凄くいい条件で物件を手に入れるための援助をしてくれたのだ。

 契約を済ませたのが1999年の11月の中ごろ。その直後にあったパーティでまたこのカップルと一緒になった。彼Rは、相当仕事で忙しいらしく、その気晴らしに12月になったら、メキシコに彼女のPを連れて行き、翌年には結婚をすると嬉しそうに語ってくれた。
 
 と同時に、仕事上のストレス等の話もたくさんしていた。その当時はアパルトマン探しで相当フランス語を理解せざるを得なかったおかげで、人が語っていることはフランス語でだいぶ理解可能になってきていたが、とはいえそれでもなかなか自分の思うように喋れないというジレンマを抱えていた私。なぜ、彼が私相手に、ここまで深い自分の話をしてくるのかわからない・・・、というのが正直な感想だった。でも、あまりにも切羽詰まったように喋る彼を見ていて、ちゃんと話を出来るだけ聞いてあげようと思ったことも確かだった。

 そして月日は経ち、とある昼下がり、ふと突然この夫婦のことがアタマをよぎった。

「今頃は彼らは、メキシコで楽しんでいるのかな?。」と・・・・・。

 その直後に、日本に住む私の母親から電話がかかってきて、もうすぐパーティーなども多くなるから、実家においてきたスーツを送ってくれと頼んだ。

 そして、一週間後・・・・・・、土曜日の午後だった。メキシコで楽しんでいるはずの彼女Pからの電話だ。

「Rがメキシコで死んでしまったの・・・、葬儀を月曜日にするから来てください」という知らせだった!!。

 ストレスを発散するために出かけた、メキシコのディスコでPと踊っていた突然倒れ、そのまま帰らぬ人となったR。

 後でわかった事だが、私のアタマにふと彼らのことがよぎった時間に、彼が亡くなっていたそうである。そして、このPからの衝撃的な電話の数時間後、実家の母に頼んでおいたスーツが日本から届いた・・・・。色は黒・・・・。彼の葬式のために頼んだとしか思えないほど、薄気味悪いタイミングだった。

 葬式は、本当に救いようのないほど悲しいものだった。涙などでない。ただただ彼女Pの悲痛な叫びが、私の神経を麻痺させたのかもしれない。とあるパリ郊外の墓地に埋葬される彼Rの棺に、どこまでも放心状態でくっついて歩くP。そのまま棺と供に、深い穴のなかにPが一緒に落ちていきそうな感じだった。

 翌月には、結婚するはずだった彼ら。しかし、Rの死によって、Pの立場が完全に危うくなってしまった。何も法的に守られてないのだ。結婚後一緒に住む筈だった家も、Rの名義、一緒に働いていた不動産屋もRの名義・・・。これが結婚後だったら全然違っていたのかもしれないが、Rには成人した子供たちがいる。15年間一緒に作り上げてきたものが、書類関係をしっかりやっておかなかったことにより、Pに残らず、子供達に残る可能性が強くなってしまったらしい。なんという話だ・・・・。

 その後何度か、名義を巡ってのとんでもないRの子供側からの仕打ちの噂を耳にした。本当か否かはわからないが、ふと彼女に電話してみても、もうその番号は使用されていない。ゆえに今、彼女Pがどのような暮らしをしているかサッパリわからないが、幸せな日々を取り戻していてくれることを祈るばかりだ・・・・・・・・・・・・。

 


2002年12月12日(木) 神父の置物

 去年の夏のバカンスは、ポルトガル領のマデイラ島だった。バーゲン価格
(笑)の5星ホテルゆったりプラン・・・・・。

 ま、いくらゆったりとはいえ、何もしないでいるのも耐え切れなくなった頃、夫とふたりでフラフラと観光を始めた。お土産屋とかにはまったく興味のない私達なのだが、ポルトガルというお国柄、宗教的(ま、カトリック)のものが土産品としてたくさん売られているので、冷やかし半分で見学。

 なにしろ、私は意識的な無神論者、そして夫はアンチ・カトリックという組み合わせ。キッチュなキリストの置物などを見ると、もう嬉しくてたまらないのだ。真面目すぎる置物は苦手だけれど、とこかにユーモアがあれば、もうお買い上げ決定!!。

 たまたま見つけた"Padre Cruz"の置物・・・・。日本語ではCruz神父さんと訳せばいいのかな?。かれの置物が妙に私達のツボにはまったので、小さい彼の全身像の置物と、大きい彼の胸像を即座に購入。

 その直後、暇だったので4WDでの林道クルーズに参加してしまい、上下左右にグシャグシャにクルマに揺られ、ホテルに戻るとすでにちいさなCruz神父の全身像の置物の首が飛んでいた。首チョンパになってしまった神父像を見て、子供のように興奮している私達・・・(汗)。夫はすぐさま赤マジックで首の切断部分を塗り、ギロチンで処刑されたようにソレを加工していた。

 しかし、胸像のほうは、無事だった。しかし、だ・・・・。とうとう昨日、Cruz神父に第2の悲劇が起こった。彼は、我が家のテレビの上に一年以上鎮座していたのだが、その上に備え付けていたランプが落下し、見事Cruz神父に命中!!。再び首チョンパになってしまった。映画「オーメン」パート1で、ガラスが滑ってきて首チョンパになってしまうシーンを彷彿させる。

 胸部は粉々になってしまったが、やはり今回も頭部は健在。ということで夫は、大きい胸像の残ったCruz神父の頭を、以前の小さい全身像のCruzの首から下の身体に接着剤でくっつけた。文字どうり“アタマでっかち”な神父様の出来上がりっ!!。ドグマに走りすぎるタイプの神父様の典型像となってしまいました、とさ・・・・・。

 そして、ますますキッチュになってしまったCruz神父は、現在、トイレに設置されている。彼は、そこで何を瞑想しているのだろう?!?!?!。


2002年12月11日(水) 奇遇

前回のニューイヤー・パーティーで知り合い、その後ちょくちょく色々なところでバッタリと会うことが多くなった夫婦から、いいレストランがあるから一緒に食事に行こうと誘われていた。が、今週から忙しくなっている私は、だんだんと面倒くさくなってきてもいた。しかし、この夫婦はとっても面白いし、妻の方とは、不思議に話や視点が合って楽しいので、どうしようか・・・・?!?!?!。

 そんなことを思いつつ午後2時過ぎに家を出発し、あちこちを訪問。万歩計をつけてくればよかったと思うほど、よく歩いたと思う。おまけに寒いので、自然と足取りも猛烈に速くなり、今までのんびり(こう書くと聞こえはいいが、要するにダラダラ)と日常を過ごしてきた、私の足が悲鳴をあげるのも時間の問題。資料の本や書類がたくさん入ったリュックが肩に食い込む・・・・。昔の行商の方は、もっと大変だったんだろうなぁ・・・・、と思ったりして。

 とはいえ、いいこともたくさんある。今までの訪問先の人は、本当にいい人ばかりなのだ。これが救いともいえる。

 昔、山登りをしていたので、こんなにたくさん歩いても、なんとか脚自体は疲れもせず平気だったが、足の裏の皮がとうとうむけてしまった。さすが室内履きに慣れてしまっていた、足の裏!!。時計を見るともうすでに午後9時になろうとしていた。友人夫婦らの招きをドタキャンしたい誘惑に一瞬かられたものの、レストランに予約まで入れてくれているので、さすがにそれはできないと諦め、16区のとある場所へ・・・・・。

 住所だけ聞いていたので、実際のレストランのまん前に来てビックリ!!!。なんとそれは、私が取材しようか否か迷っていたところだったのだ。口コミでフランス人の間でかなり有名なところ。おまけに友人夫婦は、このレストランの隣に住んでいて、まだ一度も訪れたことがないので、初訪問をぜひ私達と、と思ってくれたそうなのである。

 ドタキャンしなくてよかったぁ・・・・、とシミジミ。

 料理も想像した以上に美味しく、会話も楽しく、おまけに取材のアポまで取れて、一石三鳥の夜となり、足の裏の痛みはどこかへ飛んでいってしまった。遅れてやってきた夫も、16区なお値段にちょっとビックリしていたものの、食事の美味しさと、オーナーの人柄にいたく感動していたようだ。

 閉店時間まで粘り、その後隣にある友人夫婦の家にちょっとだけお邪魔させてもらう。本棚には、私の好きそうな書籍がたくさんあって、これまた嬉しくなった。どうりで妻のほうと話が合うわけだな、と。かなり強い食後酒を呑んだけれど、酔わない・・・・、ということは本当に久しぶりに、私が仕事モードに突入したいい兆候?!?!?!、と考えておこう(涙)。

 


2002年12月09日(月) アニメ

 仕事の取材対象は、日本人、フランス語圏人の半々ぐらい。名刺もやっと出来たことだし、あげくに、そうとうダラダラと取材リスト作りなどをしていたので、本日から本格的に動き出す。

 働く意欲を得るために、最初は日本人からあたっていくことにした。不思議なもので、普段はフランス人社会にどっぷりだった私も、いざ名刺を持ち、訪問をはじめると、意識する間もなく、日本人になっていたりする。名刺を渡すときは、ちゃんと「どうも、どうも」って感じで頭を自然に下げているし。この姿を見たら、夫を含め、友人らは新鮮に思うことだろうっ!!。

 取材先として、最初に日本人を選んだのは、他にも理由がある。というのはフランス人を先にやると、一軒、一軒が長くなるということ。つまりは無駄話が多くなる。ためになる話もあるが、ためにならない話も多い(笑)。みんな親切なんだろうけれど、どこかピントがずれていることもザラ。その点日本人は、忙しい(例え忙しくなくても、クセになっているようで)ので、掻い摘んだ話を的確に話してくれるので、短時間で済むのだ。そしてその分、他の所を訪問する時間ができ、私にとっても一石二鳥。

 昼、夫に頼んでおいたものを取りに彼の会社へ行き、ついでに彼の同僚とカフェで談話。同僚は32歳とのこと。それを聞いた瞬間、さっそく仕事モードになった私は、彼の日本のアニメとの出会いなど、インタビュー開始。
 
 アニメのことは私は、それほど詳しくないので、仕事上ちょっとネックになっている。日本人としてそれなりに、テレビで小さい頃から有名どころのアニメは網羅したつもりだけれど、フランス人のアニメおたくに始まり、それらに詳しい人と喋ったら、間違いなく私は“これらの話題に疎い人”になってりまうぐらい、彼らのレベルは高いっ!!。

 つい最近まで、あの『キャプテン・ハーロック』が、『ALBATOR』という名で、現在の30代中盤までの世代の間で、ものすごく有名だったということを全く知らなかった・・・・(恥)。確かに、どこかでALBATORという言葉は耳にしたことはあったが、とにかくそれ以上関心がないので、全然注意していなかったのだ。夫は30代じゃないし、あんまりアニメの話をするような機会もなかったという現状も、私のフランスアニメ事情への疎さに拍車をかけているかもしれない。

 ということで、同僚が32歳と聞いた瞬間に豹変した私がいたのである。彼は別にアニメオタクじゃないけれど、普通にテレビで、ま、いうならば日本人のようにアニメを見てきているので、色々と語ってくれた。キャンディ・キャンディも見たらしい。現在、これらの世代のノスタルジーを象徴するように、懐かしのアニメ特集らしきものまで、雑誌で特集されているとのこと。さっそく、経費で買わねば・・・・。

 日本のお家芸だった柔道も、フランスに金メダルを取られてしまう時代。アニメもそうなのかな?!?!?!、なんて思ってしまった(笑)。

 ちなみに私の最も好きなアニメは、「カムイ外伝」。幻の歌手、水原弘が歌ったエンディング・ソング“しのびのテーマ”は、もうどうしようもなく好きだ!!!。

 夫の同僚とアニメ話をしているうちに、“しのびのテーマ”が頭に流れ出して、それ以後の取材の移動中、ずうっと口ずさんでしまった。ひーーとりーー、ひーーーとりーーっ、カムイーーーーっ。


2002年12月07日(土) 因縁

 夫の昔からの友人夫婦から、ディナーに招待されていた。唯一、夫の友人で、今まで私があまり好きになれなかった夫婦。ゆえに、なんだかんだと理由をつけて会う機会を引き延ばしてきたが、これ以上は難しいと思ったので、招待を受理。2年弱ぶりに彼らの家に訪れてみた。

 この夫婦は、1980年代に中国とタイに長いこと駐在していた。現地での生活はものすごくよかったと言える。フランスフランで給料を稼ぎ、現地の物価は物凄く安い。なおかつ会社での地位もそれなりだったと思うので、中国での生活は、想像するだけでもVIP待遇。フランスに戻ってきてからも、タイ人女性の住み込みメイドを雇い、毎日、厳選された食材での本場タイ料理を自宅で味わっていた彼ら。

 なんでもアジアのことは知っているという彼らの態度が、どうも私は駄目だった。アジアに住んでいたとしても、特権階級の暮らしをしていて、現地の言葉も話さず(つまりは現地の生活にダイレクトに入り込むことなく)、それでいて、まがりなりにも、アジアの一員である日本人の目の前で、アジアのことについてスピーチをタレたれた暁には、不快感しか残らない。植民地主義みないな態度も感じられて、どーも好きになれなかった。

 私からみると、彼らは本当に幻想の世界にいて、まるで現実を見ていないように感じていた。とはいえ、すでに今回の招待を受理した私。2年前に彼らの家を訪れたときは、まだ今から比べると、私のフランス語能力がつたなく、今ひとつ自分の語りたいことが伝えられなかったと、謙虚に受け止め、現在なら彼らが何か癇に障ることを言い出しても、うまく言い返せるのではないか?、と現状を受け止めなおし、いざ出陣!!。

 2年ぶりに訪れる彼らの家。それはまるでアジアにある高級ホテルのような和洋折衷の美しいエントランスにサロン。内心“きゃーっ、典型的なゴーシュ・キャビア様だわっ!!”と思ったが、口にはしない(笑)。バーでアペリティフを飲んでいると、もう一組招待されていたカップルがやってきた。ケッと思いながら、出されるお酒を飲む・・・・。これが本当にすべての意を反して美味い。本当に美味しいのだ。オークションセールで購入してきた厳選されたワインとのこと。知らず知らずの間に、結構呑んでいたと思う。

 後からきたカップルの女性がとても面白い人だったのもあって、だんだんと話が盛り上がっていく。そのうち、この招待してくれた夫婦に対しての妙な嫌悪感も和らいできた。もう、気分もすっかりよくなっちゃったし、どうでもよくなってきた、というのが本音(笑)。

 食事のテーブルにつき、本来なら二度と聞きたくなかったはずの“例のアジアの話”に再びなった。が、今回は、彼らの意見をよーーく聞いた上で、とはいえ私はどう思うかなどを、詳しく、時には執拗に話し、気がつくと、今回は私が延々をスピーチしていたようだ。私の解説が想像以上に効果があったのか、この“因縁”だったはずの夫婦の態度を変えることができた模様。時折冗談も交え、彼らを和ませたし、自分としてはいい仕事したんじゃねえか?!?!?!、と、ついいい気になってしまう(笑)。

 こうして夫の古くからの友人と、私なりにアプローチ方法をかえることにより関係がよくなり、それが必然的に夫の立場も救い・・・・、私って、ひょっとしていい妻なんじゃないか?!?!、と自問自答。クリスマスにはとっておきのサービスをしてもらいたいものだ!!!!。

 ということで、食事の後はまたサロンに戻り、6人で色々な議論を楽しみ、あっという間に時間が経ち、帰宅したのは3時半だった。昨夜も帰宅したのは午前5時。きっと明日の日曜日は、完全にKOな状態になっていることだろう。


2002年12月06日(金) ドタキャン

 本日は、夜からパーティーに招待されいる。でも、昨日からものすごいダラダラモードに突入しているので、いちいちキチンとした服装ででかけるのがどうも面倒くさい。

 私は未だに携帯をもっていないから、なかなかつかまらないという人にはじまり、夜はパーティーだの、友人・知人とのディナーだの、昼は取材だのと、色々と出かけなければいけないことが多いので、そのイメージで私が“なかなか家にいず、忙しく動き回るのが好きな人間”と思っている人が多い。でも実は、ダラダラと家にいることが大好きなのだ。一歩も外出せずに何日間でも楽勝で暮らしていられる。

 ゆえにだんだんと日が暮れてきて、パーティーの時間が迫ってくると「いきたくねえな・・・」という気分が高まってくる。で、とうとう夫に

「私がいかなくても、いいよね・・・?!?!?!」と尋ねてみた。案の定、ムカッとする夫。嫌味をいいだす。

「女ってのは、目にゴミが入ったから等というどうしようもなくくだらない理由でも、平気でドタキャンする神経を持っていることに、ムカツクンダ、オ・レ・はっ!!」

確かに、一理ある(笑)。

これに便乗するとあっという間に喧嘩になるので、まずはやり過ごす。夫のほうも、私が直前に行くだの、やっぱりやめただのと意見を変えるのにどうやら慣れてきたらしい(笑)。で、最終的に夫一人で行ってくれることになった。

 そして30分後ぐらいすると、本日のパーティーに出席する予定の友人ら数人から私に電話がかかってきた。それも全部女っ!!。

友人「ちょっと、あんた、今日のパーティーに来ないんだって?。」
私「うん。」
友人「なんで?。身体の具合が悪いってあんたの夫は言っていたけれど、絶対私は、あんたが面倒くさくなって、ただドタキャンしたいだけだと思っているんだけれど、どお?。」
私「ゲっ、見破られた・・・・さすが、オナゴじゃ」
友人「私だって、面倒くさいのよ外出するのが!!。もしあんたが来ないなら、私も行かないわよっ!!」

こういうやり取りばかりだった(笑)。そして、女性陣に説得されて、再び意見を変えて、結局パーティーに参加することにした私。横で女性の間で交わされる会話を耳にしていた夫が、あきれて苦笑いしていた。

夫「結局、ボクはゼロのことを説得できないんだね・・・・。で、その出来ないことを女友達は、あっという間に成し遂げてしまうんだね・・・・」と弱弱しい嫌味(笑)。

パーティー会場では、なにかとこの女性陣とかたまって、女ならではの話に華が咲いた。ちなみにこれらの友人の一人は、同年代で現在4人のボーイフレンドを天秤にかけている。で、もう一人は、このパーティーでは自分の好みの男がいないので、パーティー会場から、自分の狙っている男に電話して、明日のRVを取り付けていた(笑)。

 この話をしているうちに、私達のまわりに数人の男性が興味津々で耳をそばだてていることに気づく。ちょうどいいので、これらのことについてのミニ討論会にしてみた。

 女の気分の変わりやすさになれたプレイボーイの意見や、これらの女性の態度はカチンとくるが、ま、しょうがないとあきらめている男性や、本当に許せないと怒り心頭な男性など、色々と男性側からの意見も交えて面白かった。

 全然、話は変わるが、昨晩遅く、一通のメールがきた。全部文字化けしていて全く読めなかったが、送り主が自分のサイトの直リンを張ってくれていたのでさっそくクリック。すると、私がちょくちょく覗いていたサイトで、いつかこの人にコンタクト取ってみたいと思っている人だった。文字化けとの戦いもあったが、何度かメールをやりとりして、とっても面白かった。なんか長年の片思いが実ったよう(笑)?!?!?!?!?!?。


2002年12月05日(木) ピアノ

 今日は、本当にダラダラして気持ちの良い日だった。本当に何もしていない。ピアノ弾いて、ネットして・・・・・、おまけにダンナもまだ帰ってこない。こんな日は、思いっきり羽を伸ばそう、仕事なんかどうでもいいっ!!。

 さて、私の趣味はピアノ。でもあくまで趣味だ。とはいえ、ピアノを弾くと精神的に落ち着くので、やめられない。

 今、我が家にあるピアノは、姑のプレゼント。姑と数年前初めて対面したとき、私は、ほとんどフランス語が話せなかった。なんとなく、フランス語はわかっていたとはいえ。

 姑はコミュニケーション大好き人間。要するに自分の喋ったことに他者の反応がないと、寂しくて、イライラして・・・、ってタイプだ(笑)。ゆえに当時フランス語が不自由だった私と、今ひとつ満足にコミュニケーションができず、激しい欲求不満になっている姑の姿がよく伝わってきた。

 姑の家には、19世紀のアンティークともいえるグランドピアノがある。第二次世界大戦のドイツ占領下、ナチの将校が姑の家にやってきて、思う存分弾いていったという、いわくつきのピアノ。

 姑の青春時代は戦争でおわり、習い始めのピアノを満足に習得するまえに終わってしまった。その後結婚して、娘でもいたらピアノを習わせようと思っていたら、結局生まれてきたのは息子二人・・・・。ピアノを弾くより、兄弟でプロレスをやっているようなガキ。

 ということで、長いこと誰もこのグランドピアノを触れることなく月日が経っていた。

 一方、私も、長いことピアノに触れるまま時を過ごしてきていて10年近かった。訪れた姑の家にあるピアノを見て、むしょうに弾きたくなって、数時間、覚えている限りの曲を弾いてみた。もう無我夢中。完璧に暗譜できていないし、指が昔覚えているほど動かない・・・・(滝汗)。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ・・・・、と思ってふと他者の存在に気づいて、姑の方を振り返ると、彼女が感激して涙を流していた・・・・・・・・、ウォォォォオッ!!。

 どうやら、姑が本当にわしのピアノに感動したようである・・・・。こんなに間違っているのに・・・・・(汗)?!?!?!。

 彼女の夫(つまり夫の父)は美術評論家兼ジャーナリストだった。ゆえに芸術となると、妙に敏感になる姑。彼女のダンナはその地域ではかなり有名で
死後夫の名前が通りの名前にまでなっている。とはいえ、彼女の詳しいことは美術(鑑賞のしかた)であって、音楽ではないっ!!。要するに音楽オンチ。

 その後、彼女は感動してピアノまで私に買ってくれたのはいいのだが・・・・。ちょっと鬱陶しい問題が・・・・。

 彼女は、私のことをピアニストだと思っている・・・・(大汗)。それプラス、毎回彼女の家に行くと、すでに“嫁のピアニストが今来ている”と近所に触れ回るのだ。で、私がピアノを弾き出すと、

「ご近所の方々にもお聴かせしなくっちゃ!!」などと言い、家中の窓を全開にする。

 ノエルの時も、そうだ・・・・。アペリティフに一曲、ディナーの前に一曲、デザートの時の一曲、食後のカフェに一曲・・・・。まるで場末レストランの雇われピアニストのようだ(笑)。でも、私は酒が好き。おまけに酒が入ると、まったくピアノが弾けない・・・・。もうグチャグチャっ!!。ゆえに、ピアノをちゃんと弾く可能性を考えると、ノエルのディナーも楽しめないのだ(涙)。

 それはそうと、先月の末、姑がパリに上陸していた。彼女は1区に自分のパリ滞在用の部屋を持っている。とはいえ勝手にパリで楽しみなサーーいとはいえないので、我が家に招待する。そうなると、我が家には姑がプレゼントしてくれたピアノがあり、姑を前にしてピアノを演奏しないわけにはいかない・・・・、ううーーーん悪循環(苦笑)。

 今回は、ショパンのバラード4番と、バッハのイタリア協奏曲をご披露。ま、ちょっと間違えてしまったが、まあまあの出来。そうすると恒例の、いつもの姑の感動がはじまった。姑は

「つまらないモノ書きなんてやめて、ピアニストになりなさいッ!!」と命令してくる・・・・・。

 オイオイ・・・・・。もしこんな私がピアニストになれてしまったら、幼少の頃からハードにピアノだけを練習して、留学して、それでもなかなか稼いでいけない、プロのピアニスト様に本当に申し訳ないし、そんなことは決してありえないっ、と伝えるのだが、彼女は全くこれに対して聞く耳はなし・・・・。

 おまけに、彼女がパリ滞在中、何人かの日本人を道端でみつけて“私の嫁は日本人でピアニストなのよ”って言ってしまったらしい・・・・・。辛い、マジで私としては・・・・・・・。助けてっ!!。

 パリでは、毎年一度世界的規模のアマチュア・ピアニストコンクールというものが主催されている。2000年のこのコンクールでは日本人が見事に優勝して、その後プロのピアニストに転向しているほど、レベルが高いコンクール。あまりにも、姑が私をマインドコントロールするように、ピアニスト、ピアニストと言い張るので、プチンと切れた私は、こう姑に伝えてた。

「今すぐは仕事があるので出来ないけれど、そのうちアマチュアピアノコンクールに応募します。だから、それまではあーだ、こーだとド素人レベルでモノを言わないでくだせえっ!!」

 これに参加して、予選落ちでもすれば、彼女のこの妄想がすっ飛ぶと思ったゆえの提案(笑)。本当に私が参加するか否かは別として、自分でも啖呵切ってしまったので、細々とピアノを真面目に練習しているゼロでした。


2002年12月04日(水) 不倫の後遺症

 友人Aから、夕方電話がかかってきた。

 Aは38歳の看護婦で、シングルマザーとして18歳の娘と、10歳の息子を養うため、ハードに働いている。明るく、サバサバしていて、ユーモアに富み、そしてめったなことでは弱音なぞ吐かない彼女。現在は、ダイアナ妃が例の事故で運ばれた病院に勤務している。

 彼女が18歳の時知り合った彼と結婚し、長女が生まれ、その後夫と離婚。そのあと、セネガル人と知り合い、結婚、そして長男が生まれた。しかし彼女の母親は、黒人との間に子供をモウケたことを激しくののしり、のちAと母親は絶縁。その数年後、夫の品行不良により離婚・・・・・。

 一回目の離婚後、子供をひきとったAは稼いでいくために、昼間働きながら、看護学校に通い、見事試験に合格して看護婦になっている。昼夜を問わず働き続け、現在にいたる。

 そんなAは、4年前に妻子ある男性との恋愛に陥った。いわゆる愛人になったのだ。2年間この関係は続いたそうだが、終わりの頃は彼女曰く“地獄”だったそうである。2度の離婚に際しては、それほどトラウマにならなかった彼女も、さすがにこの不倫の関係で、強烈に精神の深い傷を負ってしまったのだ。それでも、皮膚を剥がすように、意を決して別れることには成功した。

 その後は、なんとか持ち直し、普通の生活に戻り、子供達とも仲良く暮らしていたはずだった。しかし、今から半年前、偶然、彼女にとって今では“鬼畜”でしかない元不倫相手と、偶然道ですれ違ってしまった。その瞬間から彼女に激しいフラッシュバックが起こるようになった。

 Aには、なんでも乗り越えられてきたという自負がある。しかし、このフラッシュバックだけは、何をしても乗り越えられない・・・・・、それが彼女をますます落ち込ませる。

 半年前、元不倫相手とすれ違った直後に、彼女がこれらのいきさつを話してくれた時、私は彼女にこうたずねた、

「たまには大声で、人目をはばかることなく泣くこともいいことだよ」と。

すると、彼女は

「わかっている・・・。でも泣けないの・・・」との返事だった。

彼と別れると以前から、ずうっと泣いたことがなかったそうだ。

 このイキサツから、数ヵ月後、彼女から電話。いつものように明るい声のAだったが、私と話しているうちにだんだんと感情が高ぶってきて、電話口で泣き出した。こんな自分の姿を見せちゃって申し訳ないと何度も謝る彼女に、そんなことを思う前に、存分に泣いていっこうに構わないと伝える私。

 これを機に、彼女の凍りついた元彼への感情が溶け出してきたのか、時々泣くことができるようになってきたとのこと。とはいえ、今度は自分の感情をまざまざと知ることになってしまったので、違った意味で苦しい日々となっているらしい。

 そんな状況で、本日Aが私に電話してきた。いとも簡単に弱音を吐き、愚痴をいい、大げさに悲劇のヒロインになって自己陶酔に陥る人種は大嫌いだが、彼女のようなタイプは別。本当に、彼女には幸せになってもらいたい。そして早く自分で自分に課しているタブーを取っ払ってもらいたい。

 そのための援助を求められれば、私は決して拒みはしないだろう。


2002年12月03日(火) 他人の空似?

 取材の下見をかねて、久しぶりにオペラ界隈をウロウロ。なぜか、まだ思い切って取材したくない、とはいえ、仕事しないわけにもいかないので、ブラツキながら、アイデアになりそうなものの観察に耽る。

 その後、ちょうど目の前にMonoprixがあったので、夕食の買い物でもと思い店内へ入る。いつものことだが、本当にオペラのMonoprixにはたくさんの日本人がいる。ボーっとしていても、日本語が耳に飛び込んでくるほどだ。ダイエーかっ?、って感じ。日本人観光客もそうだが、パリ在住日本人も(私のように)たくさんいたりする。そんなわけで、ここに行くと、必ずと言っていいほど誰かにバッタリ出会うからおもしろい。

 案の定、知り合いにバッタリ。私も、相手も急いでいたので、挨拶だけして別れ、私はそのまま地下の食品売り場へ。買うたいものをカゴに入れ、ながーい列に並ぶ。待っている間は何もやることがないから、いつものように何気なく人間ウオッチング。私の前にいるフランス人の高齢女性が、私と喋りたそうにしているが、今日は、無駄話などまったくしたくない気分なので、目をそらす。(きっと一人暮らしで、誰かと話したいのだと思うが、スマン)。

 あっちこっちに日本人がたくさんいるなぁ・・・・、と思いつつ、遠くのレジで働いている人の顔がアジア人なことに気づく。

 ギョッとした。

 なぜなら、あまりにもわしの大学の教授の顔に似ていたから。あまりにビックリしてマジマジと見つめてしまう。こうやって見つめられた本人も、私に気づいて、“鬱陶しそうに”見つめかえすではなく、むしろ睨み返してきた・・・・、おおコワッ!!。

 しかし、本当に酷似している。でも、彼は現在日本で華々しく哲学者(ことにフランス現代思想の先駆者&ドグマ人類学の紹介者)として活躍しているわけだし、Monoprixで、野菜だの、肉だの、洗剤だのの値段チェックしているとは思えん・・・・・が?!?!?!。

 でも、もし彼だったらと考えると、急に面白くなってしまって、ああでもないこうでもないと色々な想像をしているうちに、列は進み、私の番になっていた(おばあさんに話し掛けられることもなく)。レジのこの男性の存在に感謝!!。彼のおかげで、退屈もせずにいることができたのだからっ。

 家に帰ってきて、突然興味が湧いたので、某教授が現在日本で売り出そうとしているモノと人について、ネットで検索してみた(ネットは本当にありがたい存在)。それを夫に読んできかせると、

夫「ずいぶんとまあ、Pédantだねェ・・」とのご返事(笑)。

 その返答を聞いて、私はふと思った。

 Pédantなところがあって、それでいて実生活ではあまりにも人間臭い(要するにセコイ)のがある種のフランス人なのでは?、と。この論を、すべてのフランス人に当てはめようなどとは思わないが、だ・・・。それゆえ、アル意味こっちの生活に慣れてきてしまったのか、某教授がレジで働いていても不思議ではないな・・・・、と思ってしまった私だった。
 


2002年12月02日(月) 小包

 朝8時半に小包が届いた。日本に住む友人Mからのもの。友人が厳選してくれた蕎麦と、それにあう蕎麦つゆ、それにさんまの蒲焼がたくさん入っていていたっ!!!。幸せな一日の幕開け。

 そして、Mは小包に、一冊の本をしのばせてきた。『医者見立て・江戸の性典』(田野辺富蔵著・河出書房出版社)だ。こんなものを朝から送りつけてきて・・・・・・、仕事もしないで読み耽ってしまうではないか、Mよ!!。出勤前の夫にチラッと、この本を見せると、当然日本語のまったくわからない彼は、たくさん掲載されている春画だけをみて、ご満悦。いたってわかりやすい。

 この本は、昔の医学書などを紐解いて、現代の医者がそれを検証していくもので、ものすごく面白い。迷信と思われるものから、的を得た表現までバラエティに富んでいる。以下は、個人的に面白いと思った、日本最古の医学書『医心方』の解釈の抜粋(本書8ページ)。

 

 そもそも男子が精気を養い蓄えるために、女を選ぶのは、美醜にこだわらず、ひたすら年の若さのみにこだわればよい。14、15歳以上、18、19歳以下の女性が最も効果的で、最高30歳を過ぎてはもう駄目だ。また陰陽の交わりを行って女の精気を吸収し、生を養おうとするためには、一人の女と交わってばかりいては駄目だ。3人が9人、あるいは11人と、多いければ多いほどよい。
 女を御する場合には、まず1ラウンドが終わったら、すぐ別の女に乗りじゃえることが望ましい。こうして女を易える(易女)ことによって長生きができるのだ。
 もし特定の一人にばかり執着していると、女の精気が自分に移転してくる量が少なくなり、したがって長生きの効果も微弱になる。



 ということなのだが、この多くの女性を交わる場合、ひとつだけ男の養陽としての鉄則があるらしい。それは“接して漏らさず”!!!。ゆえに、接することは大好きな男性諸氏は、最終的にこの鉄則を守れず、早死にしていったとこの古書は警告している。

ま、それにしても、30歳すぎたら“もう駄目”という記述には、爆笑した。

 そんなところに、友人Pから電話がかかってきた。彼は50代の後半で、離婚歴有、現在の彼女30代、なおかつ若い女性のナンパに励む、16区に豪邸(一軒家)を構えるツワモノ。

 さっそく彼に、上記の本の抜粋を訳してみた。思ったとおり、自分にいいようにしか捉えないので、若い女性との接触が身体にいいという、東洋の解釈を知り大喜び。電話口の彼の声がウワずっている。きっと喜びで、一番肝心な鉄則のことは、電話を切った直後に忘れていると思う(笑)。

 しかし、Pよ、気をつけたまえ!!、現在のキミの彼女は、私の友人でもあるのだよ・・・・・。


2002年12月01日(日) とある男優の苦悩

 久しぶりに、男優YBから電話が我が家にかかってきた。男優とはいっても、女性にはあまり名前、および顔はあまり知られていないかもしれない。そのかわり、男性陣では、彼のフルネームを知らなくても、絶対一度は観たことあると思われる種類の作品に登場する俳優・・・・・。

 もう、勘がよい方はおわかりだと思うが、YBはフランスではかなり知れたポルノ男優。日本語だとAV男優といったほうがいいのかな?。ま、とにかく友人なので、実名公開はしないでおく(嫌いな著名人はこれからも“HPで触れられる限度の話題”であれば、実名公表を目指す私)。

 彼は40代後半で、現役ポルノ男優兼、この分野のプロデュース業をしている。我が家では、共通の友人から電話がかかってきたときは、だいたいスピーカーフォンにして、夫も私も、電話をかけてきた人も全員が会話に参加できるようにしているが、今回も、おなじ。

 「ひさしぶり!!」っていう会話にはじまり、それぞれの近況を語っていくうちに、フランスのポルノ業界の愚痴になってきた。YB曰く、最近は本当に質のいい男優を見つけるのが困難とのこと。カットごとに、調子よくアソコが元気になってくれる男優がまずみつからない。ゆえに、オーディションを通った男優でも、カットごとにプロデューサーの期待になかなか応えられないので、必然的に様々なクスリのお世話になる。そうこうして2,3年は男優として稼ぐことはできても、やはりクスリの世話になっているので、気がついたら男性本来の機能が突然オジャンになって、引退というケースが多いそうだ。バイアグラを摂取して、度重なる撮影に挑み、そのあげく心臓発作を起こした男優もいたそうである。

 また、女優の問題もある。パリ近辺の女優は強烈にお天気屋で、撮影の日取りが狂うことはザラ。ゆえに旧東欧諸国の女優陣と組むことが多いのだが、それはそれで、別の問題があったりするらしい。

 たまに深夜、テレビをつけているとポルノフィルムにでくわすが、かなりの頻度で彼が出演しているので、私としては、こういったフィルムはまったくセクシーなものでもなんでもなくて、ついつい「YB、お疲れ様っ!!」という感じで見てしまう(笑)。

 そんな彼も、実生活では、恐妻家。幼い子供と妻という家族構成で、仕事がないかぎりは、のんびりと南仏で暮らしている。


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