ゼロの視点
DiaryINDEXpastwill


2003年01月30日(木) パソコンの不調

 火曜日の夕方まで、我が家のパソコンは快調に作動していた。とりあえず今まで書いた分の原稿を大量に印刷して、ベットで読もうと思っていたが、気がついたら熟睡していた・・・。

 物音がして、ハッと気がついたら夫が帰宅していた。とうとうやってしまった・・・。どんなにダラダラ生活していても、また例え夫が帰宅する5分前までグースカ寝てても、さも“そーじゃなかった”特技が今まで功を奏してしたのだが、さすがに身体も疲労していたのか、思いっきり寝込んでしまっていた。

 日中、仕事がなければどーせたいしたことせず、好きなことをしていることを夫は百も承知だが、私自身が定めているリミットとして“夫が帰宅するときには最低限起床していたい!!”というのがあった。これはあくまで夫のことを思ってのことではなくて、自分の立場を守るためだったりもするのだが(笑)。

 さて、慌てて夕食を作り、たらふく食べた後、PCの前に戻り検索で調べようと思ったら、まったくPCが作動しない。慌ててモデムを見てみると、接続されてない印が表示されている・・・・・。ああっ!!。ま、それでもPC本体は作動したので、シコシコと原稿の修正作業などをしていた。

 たまに、時間を置くと勝手に直って、当たり前のようにネットに接続できるようになることがあるので、それを期待して寝起きにPCの部屋に直行すると、水曜日もアウト・・。しょうがないので、プロバイダーの会社に電話を入れて修理を頼んだ。

 さて、修理者は木曜日の午後にやってくることになった。水曜日の晩から木曜日の朝にかけて、いつものように原稿チェック等をしながら、同時に土曜日い我が家でやるパーティーが迫っているので、掃除などをしていた。真夜中に掃除機をかける。午前5時過ぎに就寝して、木曜日の正午に目が覚めると、とんでもないことになっていた・・・。

 もう、全然PCがうごかないのだ。再起動かけたり、色々なことをしても作動しないっ!!。PCがないとまったく仕事にならない私にとって、これは本当に一大事。パニクって夫の会社に電話する。午前5時までPC本体が正常に作動していたので、これは絶対夫が何か“やらかした”に違いないと思っていたのだが、それをダイレクトに口にすると喧嘩になるので、おさえようとした。

 が、しょせん本音は隠せぬもの。あっという間に電話もとで二人でギャーギャー言い合いになる。言い合いをしているうちに、とりあえずPCが起動するようになってきた。しかし、意味不明の警告音が鳴り響く・・・・。

 午後3時すぎに修理の人がやってきた。モデムを変えてみたものの、全然作動しないのを目の当たりにして、焦りだす修理員。そして彼が何かを打ち込もうとしてキーボードに触れたが、まったく書き込みたいことが画面に反応されない。私も、修理員もビックリ!!。

 二人で色々と試してみた結果、どうやらキーボード自体がイカレてしまっているかもしれないという仮説にたどり着いた。とはいえ、プロバイダーのサービス員は客のPC自体の問題に触れないという規約があるそうで、そのまま彼は帰っていった。それと同時に、PCに詳しい友人らに電話をかけまくる。キーボードが原因かもしれないという話しをして、電話口での指導のもとにチェック作業に励んでみると、90%以上の確率で反応した。

 次に夫の会社に電話して、会社に余っているキーボードがあったらもらって来れるかどうかを訪ねるように指令を出す。この時点でネットに接続できないという問題は二の次になっていて、ワードにすら何も書き込めない状況から一秒でも早く脱出したかった私だった。
 
 幸いなことに、今まで使っていたキーボードよりも高価なものを、夫はゲットして帰宅してきた。さっそくそれを設置してみたら、見事にPC本体の機能は回復した。

 さて、次のステップは、もう一度プロバイダー会社に電話して、ネットに接続してもらう作業をするために、アポイントを取ること。ゆえに急いで電話してみるものの、さすがはフランス。一秒でも早く修理して欲しいと思う顧客を前に、サービス員の返答は

「まだサービスに出ている修理員が戻ってきていないので、修理報告が得られていません。ゆえに明日の朝一番に電話してください!!」とのたまうではないかっ!!。その言葉を聞いた瞬間に怒りの沸騰点に達した私達夫婦。熱くなってもしょうがねえ、と半ば言い聞かせるものの、もう一度そうなったらとまらない。

 下っ端の係員じゃしょうがないので、上を出せ攻撃に出るがなかなか応じず。それプラス、役職と本名を聞き出そうとしても“業務上の規則で姓と役職は教えられないことになってます”と言ってくる。またまたおまけに、こういうサービス機関は日本だったらフリーダイヤルなのに、フランスは有料。普通電話回線より高い電話料金が設定されているので、余計アタマに血がのぼる。

 突然、バカバカしくなったので、電話をきった。本当にカフカの『城』の世界だと思った・・・・。

 こんなことに揉めてるよりとりあえず原稿の手直しが先決。そんなわけで、またシコシコと原稿直しをして、夕食をとり、家の片付けなどをしていた。そしてふと時計を見ると午前3時ちょっと前。おそるおそるモデムを見てみると、な、な、なんとネットに接続されているサインが出ているではないかっ!!。

 半信半疑で再起動をかけて、試してみたところ、本当にネットに接続できた・・・・。ということで、今、まだ狐につままれたような気持ちで、日記の更新をとりあえずしているところっス。

 一体、火曜日の夕方から、金曜日の午前3時までの出来事はなんだったのだろう・・・・・?!?!?!?!。


2003年01月28日(火) 電話

 私の声は低い。とくに電話に出るときは低く、決して感じがよくないかもしれない(笑)。かなり"pète-sec"(つっけんどん)。

 我が家には電話がかかってくることが異様に多いのだが、私が出ると、大半の人が夫と間違えるのが常。人によっては自分の名前を名乗らないこともあるが、これが非常に嫌いな私。電話をとると、

「J?」といきなり訪ねてくるので、
「人に名前を尋ねるんだったら、そちら様が最初に名乗っていただけませんでしょうかね」

と慇懃無礼に対応する。ま、これでたいていの人はハッと気付いて名乗るのだが。それでもアホがいて、

「もしかしてJじゃなくて、ゼロ?。ぼくだよ、ぼく。誰だかわかる?」とほざいてくる。もうかなり怒りの沸騰点に近づいている私は、

「そんなゲームにつきあってられないので、これ以上名乗らないなら電話きりますけれど!!」とタタミカケル。ここでアホもたいていは名乗るが、それでもまだゲームを続けようとする輩がいる場合は、情け無用でガチャンと電話を切る。

 このやりとりを見ていて、夫がたまに私の隣で冷や汗をかいて、固まっていることがある(笑)。

 また銀行だの、タイムシェアだのから勧誘の電話がかかってくる時も、かなりアタマにくるので、機嫌が悪いときには、滅茶苦茶な対応をして憂さを晴らすことが多々ある。

 時には、何人だかわかない酷いアクセントと、支離滅裂な文法で対応して、相手が「誰かフランス語が喋れる人はいませんか?」と言うのを待ってみる。そして、思う壺で相手がこのプレーズを言った瞬間、「人種差別だ!!」と意味不明に訴えてみる。

 また時には、私あての勧誘の電話だったら、即座にお手伝いさんになって、「奥様は買い物に出かけております」または「里帰り中」等とと伝える。相手が

「マダムは明日だったらいるか?」と聞いてくるので、
「しりませんが、またトライしてみたかったらどうぞお好きに」と対応する。

 夫あての勧誘の場合は、「夫はオンナを作って出て行ってしまったんですけれど・・・・」と哀れを誘う口調で対応。これは非常に効果があり、面倒くさいことに巻き込まれたくない勧誘者は、さっさと電話を切ってくれる。

 電話に出たとき、またはかけたとき、たった一言でいいから「今忙しいですか?」とか、相手の現状を尋ねる言葉があれば、いいだけのこと。が、これをやらず、とりあえず自分の用件(勧誘含む)をまくしたてたり、ゲームする輩は大嫌いだっ!!!!。

 不思議なことに日本人だとこういうことがほとんどない。ま、そういう人もいるもかもしれないが、今のところ私は知らない。だからイジワルになる必要もない。

 しかし、この対応を友人らに長年続けてきた結果、かなりの非日本人の友人・知人らは、我が家に電話してくる時に、注意を払うようになってきいる。どうやらある種の“しつけ”を達成してしまったようだ(笑)。



2003年01月26日(日) 校正

 土曜日の晩に、ナントに住む夫の幼なじみでモノ書きのM1に今までの原稿を送ってみた(彼については1月8日の日記参照)。あわよくば、プロ中のプロがわしの原稿に赤入れてくれないかなァと思ってのことだった。ついでに、レンヌ在住の夫のいとこM2にも原稿を送ってみた(彼についてはクリスマスのロシア美女との日記参照)。

 そして、日曜日の昼過ぎにノンキに起きてくると、双方から“喜んで”校正をしてくれている旨が伝えられた!!。二人とも強烈に歴史に詳しいうえに、一人はプロ。さあ、どんな批判が来るのか?、と少しドキドキしながら原稿の返信を待つ。

 午後4時過ぎに、M1からのメール着信、開くとそれはもう感激ものの赤が入った私の原稿があった。すごい仕事をしてくれた。必殺仕事人!!。文章をチェックするだけでなく、歴史考証、私の視点からの構想などを、友人としてじゃなく、プロとして率直に評価&批判してくれた。これは私にとってはすごいプレゼントだ。夫もこれに刺激されたのか、突然やる気になってきている(笑)。

 一方、M2は送られてきた私の原稿をすぐに3部にコピーして、それを姑宅と自分の母親の家に持っていき、3人がかりで校正にとりかかってくれているという。おお、スゴイっ!!。ジャーナリストの妻として数十年間、毎日夫の原稿を読み、意見を言い続けてきた姑がどんな口を挟んでくるのか(笑)?。

 ところで、人に校正を頼んでおきながら、ソファーの上でくつろぎながら私達夫婦はテレビを観ていた。その間にでも少しでも仕事を進めておけばいいのだが・・・・(汗)、気がついたら思いっきり昼ねまでしていた。

 そして夜10時すぎに、いとこのM2グループからの返信が届く。それぞれの校正を見ながら電話をして、ダイレクトに感想や批評を頂戴する。各人のキャラクターを象徴するかのようなありがたい意見が聞けて、これまた本当に助かった。プロの意見は本当に貴重だが、姑のように文章自体への美意識が強く、それでいてまったく日本の歴史に疎い存在の意見も貴重だったりする。

 それにしても、本当に家族&友人のあたたかい支援には感動した。逆にここまで支援してもらった以上、決してギブアップはできねーな、と実感。M1とM2はゆっくり休める日曜日を一日私のために費やしてくれた。

 夫もここまでの支援を間近で見て、今までテキトーにしか自分の妻を支援してなかったことを恥じた(笑)らしく、全員の校正をあつめて、それに今度は自分の校正を付け加え、仕事を始めだした。スゴイ。

 やっぱり、何事も夫ばかりを信頼したり、見つめたりしては駄目なのよねっ!!と、これまた実感。夫に“暗黙”のうちに刺激を与えるのはいいことだ。中国のことなら面白いが、日本の歴史なんて・・・ケッ!!という感じの夫だったが、マジで興味を持ち出してきたようだ。またまた私の作戦が成功しつつあるようだ(笑)。

 そんなわけで、夫はなんと午前3時過ぎまで校正の鬼になってしまい、その後私がすべての校正を再チェック。気がついたら月曜日の朝7時すぎだった。


2003年01月25日(土) 完全休息

 金曜日と土曜日は、意図に反しながらも完全休息してしまった。まあ、だいたい仕事の目処が立ってきたこともあり、その途端にあっという間に気が抜けたのが原因。やはり、ウサギと亀のに例えれば、どうしてもウサギな私・・・・(汗)。

 目処がたった瞬間に、どうやって手を抜いて仕事を進めていくかばかりを考えている私。あらためて台割を作って、仕事の分量を計算する。あとは、編集者との締め切り引き伸ばしのための巧妙な心理戦に勝てば、かなり精神的にゆとりが持てるような気がしてきた。

 しかし、“慣れない事=仕事”をこの2週間強バリバリし、風邪でもなんでも休まずひたすら調べて、書きつづけてきたので、とうとう今度は背中が悲鳴をあげた。寝ている間に“つって”しまった。ゆえに金曜日、土曜日とクビがまったく回らない状況になってしまった。

 ま、借金でクビがまわらない、という状況よりはマシか?!?!?!、と慰めつつも、イテぇっよ、クソっ!!。

 ダラダラと一日中ネットしてても決して痛くならなかった背中ゆえに不思議なものだ。おまけに、久々に人にあうと口々に“痩せたねえ!!”と言われる今日この頃。どうやらエネルギーを座って仕事しているだけで、相当消費していたことが判明。それと同時に、今までいかにダラダラと、ノンキに毎日を過ごしてきたかも、いやという程判明してしまった(汗)。

 いい機会なので、はじめてバーゲンに行ってみた。友人の中国人Jと一緒だ。もともと私はバーゲンに一人で行くのが好き。なぜなら誰にも急かされないで、自分のペースで選べるからである。でも、ちょっと好奇心が沸いて、夫を連れて行くことにしたのだ。

 二人の女性の服の趣味がまったく違うので、同じとおりにいても、私は左の店、Jは右の店と、勝手に飛び込んでいく。そして、行き場のない夫が歩道でボーっと退屈そうに待っている姿を店内から、観察。実におもしろいっ!!。本当に退屈そうだっ!!。

 たまに私とJが同じ店にいて、試着をはじめてあーだこーだと言っているところに夫がやってくる。

「素敵だよ、似合っているよ!!」と何度も言うのだが、それが痛々しい。“もう何でもいいから買ってくれーっ、そしてオレを解放してくれーーっ”という悲鳴にしか聞こえないのだ、私には。

 でも、今までさんざん本屋などで自分のペースでダラダラとしてきた前科がある夫なので、今回はそれをちょっと“仕返し”してみたかったのだ。すべての男性とは言わないが、多くの男性は、言葉でグチグチと文句を言うより、身体で覚えさせるのが一番っ!!、と私は思っている(もしそうじゃない人がいたら、ごめんあそばせ)。

 グチグチと女性が男性に訴えても、状況が悪化するばかりというのが多いのではないだろうか?。そして、アタマにきて女性がキーッとなって泣いて叫んでも、男性はひくばかりで、女性のいわんとすることから遠ざかるばかり。ああ、悪循環!!。

 今回は、どうやら作戦は成功。少しは待たされる相手の気持ちを夫も理解したようだ。おまけに買いたかったものもすべてゲットできて、久々の休息を大いに楽しんだゼロでした。でも、背中痛いっ!!。

 


2003年01月23日(木) 葬儀

 朝9時半にDenfert Rochereauに行き、手配されている指定のバスに乗り、パリ郊外で行われるPBの葬儀へ。小雨の降る、寒い郊外での葬儀だった。

 PBは先週の金曜日の晩に2年半にわたる闘病生活に終止符を打った。2年半前、肺癌で余命三ヶ月を宣告された彼だったが、その後尋常ではないほどの世に対する意欲を見せ、誰もが彼はもう回復したと思われるところまできていたところでのことだった。享年56歳。

 PBにはSという20歳年下の美しい妻(36歳)がいる。彼の病気が発見されたとき、彼らは同棲していたのだが、その後、彼の死の可能性も含めて、昨年入籍したばかりだった。

 PBは晩年、アジア、特に中国に強烈に惹かれだし一昨年前には、中国人♀Jと中国のモンゴルへ旅立ち、雑誌GEOの特集や、テレビドキュメンタリーを制作した。この中国人Jは、夫にとっては妹で、私の姉であり、同時に私の妹のような人物。彼女もPBもともに映像の分野で活躍しているのだが、GEOの中国特集でJの写真と一緒に、掲載されたPBの素晴らしい文章は、今でも忘れられない。

 そして、病気をおしての中国での取材旅行のあと、病床に就いたPBに中国語を教えていたのは私の夫だった。PBの病を吹き飛ばすほどの、中国語を学ぶ熱心な姿に、夫は感動していたほど。また、その直後にPBからSと入籍したという一枚の手紙が届いた。

 入籍の知らせを聞いたとき、妻Sの覚悟を私は考えないではいられなかった。誰もが羨むほどの深い絆で繋がっていた二人だったが、とうとうこの夫婦は死までの道のりを共に歩む決意をしたのだな・・・、と思った。

 葬儀は墓場で行われた。それぞれPBにゆかりのある人がその思い出を語り、詩を読み、その合間に、PBが病床で最後まで聞いていたお気に入りのオペラが墓場に響いた。その曲を目を閉じてじっと聞き入る妻S。PBの棺を前に、まだSは彼と会話しているように見えた。

 彼女は、葬儀の間一度も涙を見せなかった。毅然として集まってきた人に対応し、恐らく生前にPBが彼女に自分の葬儀はこうしてくれと言ったことを忠実に守りっているかのようだった。その姿は、悲しいほどまでに美しかった。

 12月13日の日記に、別の夫婦が死によって引き裂かれた話を書いたが、今回の葬儀はそれとは異なった印象をうけた。突然の死と、死まで覚悟を決めて歩んできた夫婦の違い、だ。前者の場合、あまりの突然のことに取り乱す妻がいて、今回は、すべてを達観したかのような妻がいた。

 夜は、Sの家でPBを偲ぶ会があったので、それに出席。家のところどころに飾ってある、この夫婦の写真が心にグッと何かを訴えてくる。元気なPBがたくさんいて、その隣で幸せそうなSの姿など・・・・。寝室が今回、招待客のコートなどを置く場所として利用されていたのだが、そこにふとあるPBの眼鏡などを見ると、いまにもPBが戻ってきて、眼鏡をかけて本を読み出しそうな気がして、彼の死というものが実感できない。

 たまたまピアノの先生をしている女性がいたので、リクエストに答えて、彼女と私がラベルを連弾しているうちに、会が盛り上がってきて、妻Sが10年ぶりに歌いだした。ブランクがあるとは思えないほど綺麗な声で、ラベルを歌いこなす。

 そのうち、音楽を聴きながら中国人Jが泣き出した。「PBにこの音楽を聞かせたかった・・・・」と。それにつられて、あちこちで目を赤くしている人が出現。私はまだグッとこなかったが、演奏を終えてふと目をやった本棚のところにあった、闘病中のPBの姿の写真を発見。それを見ているうちに、彼が本当に激しい闘病ののちに亡くなったことを実感してしまい、ホロホロと涙が出てきてしまった。

 この写真は、妻Sによるものだったが、彼女のPBへ向ける眼差しがそのまま表現されていて、ものすごく辛くなってしまったのだ。夫婦仲が悪く、互いに悪口をいいながら生活している人もいるのに、なぜこんなに仲のいい夫婦を死が引き裂いてしまうのか?!?!?!?!。あまりにも不公平だ。

 別れ際まで決して涙をみせなかった妻Sだが、私の夫がふと

「ボクはPBに何もできなかったけれど、SがPBにすべてを尽くしたことはよくわかっているよ、Sの存在に感謝しています」

と彼女に言った瞬間、Sは泣き崩れてしまった。長いことピンピンに張っていた彼女の糸が切れた瞬間だった・・・・・・。

 葬儀を終え、偲ぶ会も終え、皆が家路に戻った後・・・・、きっとこれからが一番孤独を感じる時間なのかもしれない。幸いなことに彼女の母が泊まりこんでいてくれているが、だ。

 私がもし彼女の立場になったら、彼女のように振舞えるのだろうか?、と自問自答しながら家路についた。


2003年01月21日(火) Louis de Funès

 久しぶりにテレビを見ながらの夕食。いわゆる夫婦での団欒が本日、一時的に復活。ザッピングしていたら、Louis de Funèsの映画をやっていたのでそのまま見つづけた。

 Louis de Funès出演のすべての映画での、彼のペルソナージュが、すべて姑の姿にダブってしまう私。彼の一挙手一投足が、姑のソレと同じであることを発見して以来、わが夫婦は彼の映画を“腹がよじれず”には決して観られない。

 本人は大真面目なのに、パニックになればなるほど、その慌てた姿が滑稽で、ジェスチャーがどんどん過剰になっていき、それでいて、意味不明に威張っていたりする。これがLouis de Funèsなのか、それとも姑なのか、混乱してくるほどだ。

 今は亡き、舅はほんとうに浮世知らずの芸術家タイプだった。現実的なことには一切関わりたくないという人間。静寂を愛し、思索に耽り・・・。そんな夫の両親達は、第二次世界大戦中のドイツ軍による占領下に出会っている。今のようにセックスが氾濫する世の中とは違い、ガチガチに保守的で、カトリックバリバリの世。

 姑は、未来の夫に出会ってから、結婚まで一度も身体を許していないのが自慢。その間、9年。付き合って4,5年目に初キスを許し、あとは、日中散歩したり、時には文通したりというカップルだったらしい。

 ま、夫の解釈だと、姑は9年間、未来の夫の鼻面ににんじんをぶら下げつづけてきたのだと・・・。結婚初夜の夢も膨らみ、ようやく“教会”で盛大に式をあげたふたりだった。

 その後、しばらくは夫婦でのんびり・・・、なんてたいした暇もなく姑が妊娠。舅はかわいいオンナのコの出現を待ち望んだが、結果はオトコ、それが私の夫だった。舅はガックリと肩を落とし、姑はガッツポーズをした様子が目に浮かぶ。そして、数年後、再び姑は妊娠し、舅は再びオンナのコの出現を祈るが、これまたオトコ。

 9年間、待ちに待ち望んだ結婚を果し、初夜を終え、気がついたら自分の妻がLouis de Funèsで、その長男までがプチLouis de Funèsだったという悪夢!!。二人のLouis de Funèsで、家の中は毎日ドタバタの連続で、おしゃまでかわいいオンナのコと、色々話したり、手をつないで歩いたりする舅の夢、それと静寂は一気に吹き飛んでしまった。

 9年間待ち望んだ“妻の胸”は、代わる代わる息子達に優先権があり、この闘いにも敗れ去っていく舅。

 とまあ、上記のことをLouis de Funèsの映画を観ながら夫に私が語ってみたら、どうやら彼のツボにはまってしまったらしく、窒息寸前になるまで笑っていた。

 今、もし舅がこの世にいるのなら、彼のオトコとしての人生の胸中を突撃インタビューしてみたいものだ。


・・・・・・しかし、だ・・・・・・。ま、私も舅のことを皮肉っている場合ではない。なぜなら、私も結婚相手がLouis de Funèsだったのだから(汗)。


2003年01月20日(月) 義弟

 ひきこもりが終わった瞬間、毎日外出の日々。土曜日は久々にパーティー生活に復活し、夜9時半から朝の4時まで社交して、日曜日の午後は、日仏カップルJ&Rのフェットへ。R嬢が日本へ戻ってしまうので、そのさよならパーティーだった。

 土曜日から義弟Jが我が家に“とある事情”で避難していたので、日曜日の13時から始まったパーティーには、定時にいけず午後4時すぎの出席となった。とはいえ義弟Jとわしら夫婦3人で過ごしたウイークエンドは、なかなか味わい深いものがあり、非常に有意義だったと思う。
 
 そんなわけで、私達夫婦がJ&R夫妻宅に到着した時には、ほとんどの招待客が家路に戻る頃だった。ま、そのおかげで、メインの方々を一人占めすることが出来てしまった。この日仏カップルは、とてもに若くて、未来に向かって苦悩しつつ頑張っている姿が素晴らしいなァと、つくづく思った。我が夫もそれを見て、自分の若き日々を思い出して、妙に感動していた(笑)。

 そして本日は、久しぶりにエイロクスケ嬢をはじめ、なじみの日本人の友人らとベルヴィルの中華街にて集合。4人揃ったが、それぞれがクリエイティブな仕事をしていて、その情報交換などを含め、話がおおいに弾んだ。

 そして、12時少し前に家につくと、何も食べてない夫がいた(汗)。ここでよい妻ぶりを発揮して、とりあえず簡単に夕食をつくって“あげて”、色々と二人でディスカッションをしたあと、夫に今までの原稿の手直しをしてもらう。恩を着せて、自動的に夫から恩を返してもらう作戦が大成功した(笑)。

 この調子で、今週中には35ページ分の原稿を完璧にしあげて、どうやら編集者にそれを渡せる見通しがついてきた。あと少しで最初のそして一番の難関を越えられそうだ。歴史に詳しい友人や、ジャーナリストの友人などに今までの草稿を見せたところ、結構評判がよかったので、これもホッとする材料になっている。

 さて、義弟との話戻るが、彼と我が夫は3歳違いの兄弟だが、本当に性格が正反対。よくここまで同じ母親の御腹から違う性格が生まれたものだと関心するほど。しかし、二人は羨ましくなるくらい仲がいい。私はひとりっこなので、こういう関係は想像だにつかないのだが・・・。

 義弟は、過労死になりそうなほど働いていて、一昔前の日本人サラリーマンの姿を彷彿させる人物。またそれをよしとして今までやってきたのだが、ここにきて“不惑の年”を迎えてきている。ある意味ボエームな生活を送っている兄夫妻の姿を見て、今までの生活の信念が崩れ始めているのが傍目からでもうかがえる。

 ワシら夫妻は、ある意味本当に特殊なのは確か(サイトでは残念ながら語ることは不可能)なのだが、いい意味で義弟がそれを取り入れてリラックスしてくれるのは私としては、本当に嬉しい。が、その影響が強すぎて、彼のアイデンティティ・クライシスを引き起こすのであれば、どうしたらいいのか今のところよくわからない・・・・。ま、要するになるようにしかならない、というのは前提であるとしても、だ。

 一体、本当にいつか義弟の身に“la Libération”の日が到来するのだろうか?!?!?!。
 


2003年01月18日(土) ひきこもり終了

 金曜日の晩から仕事をしていて、気がついたら土曜日の朝8時半だった。書いたものを印刷して、ホッチキスにとめたところで、夫が起きてきた。最近、ゆっくりと彼とも話をしてないので、お喋りしてたら、すでに時計は10時になっていた。

 なので、私は午後5時まで就寝。完全に昼夜が逆転した私のひきこもり生活。しかしそれも終わりに近い。なぜならあと数時間で、外出するからだ。この一週間、寒かったのか、それとも寒さが緩んだのかも知らない。

 さて、どうして私はこんな地獄のような仕事をチョイスしたのか?。それには理由がある。ここ2,3年会ってないが、50代のHという翻訳家がいる。彼は、中国語、英語、ドイツ語、スペイン語の書籍を母国語のフランス語に翻訳するのが本業。時には、フランス語から中国語に翻訳するときもある。

 そんな彼は、ある日イタリア語の仕事を頼まれたそうだ。しかし彼は全然イタリア語はわからない。もちろん、日本人がイタリア語を習うより、フランス人がイタリア語をやったほうが、似ている単語などもありやりやすいということはあるが、だ。

 まったくやったことないイタリア語の仕事を、Hはサクッと引き受けた。そして翻訳する予定のイタリア語の本を教科書にして、仕事しながらイタリア語を習得してしまったのだ。そんな彼は、今、読み書きだけじゃなく、イタリア語をペラペラ喋っている。

 私は、いたくこの話にビックリしたと同時に感動していた。そして、ある日突然、現在の仕事のオファーがあったとき、自分の器も考えず、まるで私もHのようにできるような錯覚に陥って、面接、そして企画書を書いた。

 それは、ちょうど在仏生活がまる4年になろうとしている頃だった。喋ることに関しては、日常生活で問題がない。しかしこのレベルで留まると、フランス語の読み書きがきちんとできなくなってしまいそうな、妙な不安に始終とらわれていた。それプラス、喋りのほうも、まあまあフランス語を話す、あくまで“外国人”というレベルに留まってしまいそうな不安・・・。

 メールというのは、色々な人と読み書きを通して交流するものだが、これを通して、かなりのフランス人が、いくら達者に喋っても、書くとなるとたくさんの間違いがあるのを発見。また、喋り言葉以上に、書き方ひとつで各人の教育の過程が透けて見えてしまう恐ろしさも再認識。

 フランス人でも、満足にフランス語が書けないというのは、外国人の私にはとっても嬉しいニュースだが、逆にきちんとしたフランス語を書く能力を得るということが、果てしもなく遠い夢のような感じがしてきて、滅入っていた。

 さて、こんなわけで、変な気負いで仕事をゲットしてしまったわけで、現在の状況がある。仕事を通して無理やりにでも勉強してしまう、という無謀な作戦!!。しかし、本当に無謀だと、ひしひしと思わざるをえない。

 1週間のひきこもり生活で、現在まで22頁分の原稿を書いた。生まれて始めて、こんなにフランス語でモノを書いた(笑)!!。

 夫が校正、プラス、最低限商品として成り立つフランス語にしていくのだが、この過程で喧嘩になることがある。昨日の晩もそうだった。

 時に私の書き方が悪くて、夫が、私の言いたいことを全然違って理解していることがある。また時に、私の書き方が文法的に間違っていても、ちゃんとしていて、夫がただ単に読むことに集中してなくて、よく理解していないこともある。そんなわけで、これらが引き金となって、喧嘩が勃発するのだ。道は険しい・・・・・。

 ところで例のツワモノHだが、最近とんと会う機会がない。伝え聞くところによると、妻が子供を連れて出て行ってしまったらしい。外国語を自在に操る彼も、妻子だけは操れなかったということか・・・・・?。

 


2003年01月16日(木) ひきこもり

 先週の金曜日、自宅で夕飯を食べている間に風邪をひいた。なぜ、食事中に風邪をひくことが可能なのか、サッパリわからないが。

 土曜日には譲れない用件があったので午後外出。この日はとても寒く、すべてを終えて自宅に戻ると、完全に風邪が本格化していた。細心の注意をしてきたのに、風邪をひいてしまったことに、強烈に立腹!!。その瞬間から、風邪が治るまで絶対外に出ないと決めた。

 そしてそれ以後、一歩も外に出ない日々が続き、現在にいたっている。ゴミを捨てるために、エレベーターにのることもない。文字通り、家から一歩も出ない生活。

 最近、生活がサバイバルゲームの様を呈してきた。外に出たくないので買い物もしない。どんどん在庫がなくなっていく。でもハラは減る。それにハラをすかした夫が帰ってくる。さあ、どうしよう・・・・。

 限られたもので、それなりに食べられるモノを作るために、日々知恵が必要とされてきている。一回クリアする度に、妙な快感を得ている自分がいる。とはいえ、いつゲームオーバーになってしまうのか?。本日か、それとも明日か?。

 というわけで食事作りに知恵を絞り、仕事でない知恵を絞り、ホトンド使い切ってしまった歯磨き湖のチューブのようになってしまっている私。でも、頑張ってみると、まだ数回分の分量が残ってたりする、歯磨き粉チューブ!!。

 こんなことをしながら、私は起きてから寝るまでPCの前にいる。ひきこもりの典型だ。これで身の回りの世話をしてくれる親のような存在がいたりすると、延々と続けてしまいそうな、ある種の魅力がある生活。

 とは書いてみたものの、風邪はもうイヤっ!!。


2003年01月14日(火) 登山 PART2

 なんだかんだいって、いちおう頂上に到着したような気がする、今。でも、頂上といっても、まだまだ続く“縦走”(5月まで)のうちの、ひとつなんだが・・・(涙)。

 で、頂上に到着したかな?、と思った瞬間に完全に気が抜けた。なので、画面を切り替えて、日記更新。『うさぎとかめ』の話に例えれば、つくづく自分が、うさぎタイプなことを感じる今。ワインなんぞを、午前4時すぎに飲み始めてしまっている。

 しかし、だ・・・・。簡単な登山を少しでもしたことがある人はわかると思うが、実は下山が一番危険で大変なのだ。登るときはガムシャラでもなんとかなる場合があるが、下るときは、限られた体力と、予想外の事故などの可能性が挙げられる。膝も、ガクガクしてきて・・・・・。

 猫でさへ、調子にのって高いところまでのぼって、降りられなくなっている姿などをたまに目にするが、まさにそれと同じ理論だ。今まで調子にのって展開してきた文章を、どう締めくくっていくか?、それが問題だ。

 月曜日の夜は、このままダラダラしていると本当に期限内に仕事が終わらないという、絶望的な焦りに駆られて、異様な集中力を発し、予想外に前進してしまった。
 
 その後、夫との原稿見直しで、これまた予想外に前進したことを感じた瞬間に、集中力がプツンと、完全に切れてしまった。

 仕事がはかどらないと激しく絶望するものの、集中力が増し、はかどると何もできない、って状況はどうしたらいいんだろうか?!?!?!。自分自身のどうしようもない習慣を呪いたくなる。

 むかーーし、とある企業の編集部に勤務していた頃のこと。毎日9時に出勤することが出来なかった。試用期間だけはキチンと9時前に出勤していたが、それが過ぎると、なんと“うさぎ”な私はどんどん出勤時間が遅れていき、気がづくと毎日12時半になっていた。同僚らが社外でランチを取っている間に、こっそりと出勤し、さも朝からいたように振舞う毎日だった。でも、バレバレだったが・・・。

 しかし取材となると、それはそれは時間厳守になる私。どんなに寝坊しても、取材車を滅茶苦茶に運転してまで、定刻に現地に到着するのだ。数え切れないほどあった取材に、一度も遅れたことはないというのが自慢だった。そのかわり、数回ほど、スピード違反で捕まっているが・・・。

 今、酔っ払いながら書いていて思うが、私はどうやら毎日、規則正しく仕事を進めていく、ということがまったく出来ないらしい。瞬間、瞬間の集中力はあるとはいえ・・・・。会社員として働くのは、夢のまた夢なような気さえしてくる。

 さて、この瞬間の集中力、というのにも問題があったりする。家庭をもってから、長いブランクを経てこの仕事をゲットした私。久しぶりに仕事に没頭しはじめると、完全に日々の家事はそっちのけになっているのが現状だ。最低限の買い物と、料理、それに洗濯はまだ続けているが、夫のワイシャツのアイロンかけは、完全に放置プレイ状態。

 ということで、この1週間、夫は毎朝今まで着用していた数枚のワイシャツの臭いを嗅ぎ分けて、“まだこれはいける”“これはもう本当に臭い”などと選別作業をしている模様。内心、そんなことするなら自分でアイロンかけでもすればいいのに・・、と思うが、夫はそこまでしなくないらしい。

 ま、もっと不自由をすれば、彼も彼なりに追い詰められて斬新なアイデアでも見つけることでしょう!!。また、そうあって欲しいものだ。


2003年01月13日(月) 魔性のオンナ

 幕末の日本と外国の関係をまとめて書いていくうちに、だんだんと面白くなってきた。というか、とうとうおかしくなって、笑いがとまらなくなってしまった。
 
 “ただ今、鎖国中ですので、そっとしておいてください”という看板を無視してまで、たびたび訪れる黒船連中。その姿はまるで、“今その気がないので誘わないでください”というオンナと、無理やりにでもモノにしようとしているオトコのやり取りみたいだ。

 “開国しろ”=“やらせろ”ってな感じ?

 ペリーは、相当日本を研究したうえで、大砲をバンバンと打ち鳴らし、黒鉛をあげながら日本へやってきた。彼は、日本に対しては激しい威嚇が一番効き目があると研究の末、決断をくだしたという。要するに、グダグダと口説くより、一発かましてしまえ、という作戦だ。

 事実上開国してからは、各国から大使がやってくる。ここでいう事実上開国という状況は、恐らく日本というオンナが、とりあえず自分の価値を再認識して、ちらりとパンツを見せ始めた、って感じだろうか。舞台の上ではストリップはするが、そこをおりたらやらせないわよ、という日本と、もしかしたらやらせてくれるかもしれない、と期待して色々と貢ぐ外国人たち。

 レオン・ロッシュの横須賀製鉄所にしても、または彼の異様な幕府支援にしても、彼の真の目的は、ナポレオン3世の植民地主義を徹底させることだったとしか思えない。その究極の目的、つまりは日本を発展させ、アジアで一番近代化した日本を、我がフランスの植民地にする・・・。

 なかなかダイレクトに口説けないオトコ。ゆえに色々とオンナに貢ぎ、オンナはそれでどんどん綺麗になっていく。しかし、いつもオトコの真の目的は“やらせろ”という、ま、リビドーに突き動かされたものだったりするのが世の常。

 しかし、オンナは二股をかける(オンナにとったら、二股をかけた意識すらないのだろうけれど)。イギリスのパークスだ。パークスは薩摩藩などの倒幕派を支援していく。パークスもたくさん貢ぎモノをしていく。そう日本というオンナを“落とす”ために。

 パークスとロッシュの間には、延々と続く英仏間のライバル感情。ヨーロッパではやり尽くしてしまったので、新たな市場で、ものに出来そうなオンナの数(つまりは植民地の数)を競っているかのようだ。

 ロッシュをはじめとする外国人の援助をもって、日本は近代化し、そしてパークスの後押しで、明治維新へと時代が転換する。それにしても日本というオンナは非常に教え甲斐がある。その吸収力の迅速さと正確さは、調教師であるオトコ達をますます燃えさせる。

 しかし、オンナは決して“あなたのモノになると言った覚えはないの”という態度をとり続けていく。この時点でこのストリップ嬢が脱いだのは、きっとトップだけなんだと思おう。

 “あと一枚剥がせばなんとかなる”、というオトコと、“この一枚には触れさせない”というオンナの、かけひき。

 それにしても、初代仏駐日大使ベルクールにしても、2代目のロッシュにしても、イギリスのそれと比べると、どこか間が抜けているところが、逆に人間臭くて、個人的には好きだ。これは私もオンナだからか?。

 大枚はたいて、知識も与えて、なんでもかんでもオンナにやってあげて、そのうち立場が逆転しちゃっている、オトコの姿を彷彿させる。いわゆる"pigeon"(日本語でいえばカモ)になりうる可能性もあるのだ。

 たくさん持っていたオンナ(植民地)を、今ではほとんど失っちゃったフランス様。

 ま、冗談は抜きにしても、このフランス人たちの計算していそうで、計算が徹底的にできない人柄と、なんだかんだいって人情に流されやすいところが妙に好感が持てた。一般化するつもりはないが、実際私が今まで住んできて、こういうフランス人たちには、数え切れないほど出会っていることは言うまでもない。

 軍から脱走して、榎本武楊らと"La République de Hakodate"を築くことに燃えてしまうフランス人・ブリュネなどの話は、もういわんや、である。“自由・平等・博愛”に燃えてしまうのね・・・・などと、皮肉ってみるが、在る意味感動してもいる私(笑)。

 とはいえ、まるでナポレオン3世の凋落を追うように、衰退する幕府側についていたレオン・ロッシュの選択が非常に興味深い。
 


 

 とうとう、金曜日の晩から風邪をひいてしまった。非常に腹立たしいっ!!。


2003年01月11日(土) 登山

 仕事の息抜きのつもりで、数日更新してなかった自分のサイトを見てみた。すると、すでにカウントが5000を越えていたので、ビックリ。

 ただ書きたいことだけを書いて、写真もレイアウトもなにもない私のサイトを、どこかの誰かが読んでいてくれる、というのは、ありがたいものです。まあ、人によったら“バカなこと書きやがって”なんて場合もあるでしょうが(笑)。

 書かなければいけないことを細心の調査をもって書く、という仕事。ソレに対して、書きたいことを調査もなしに、テキトーに書き連ねることが可能な“ゼロの視点”。

 この同じ書くことに対しての、使い分けを実験的にしてみたかったのも、発作的サイト立ち上げの一因でもあったが、ここにきて、想像以上の“相違”を実感している最中。

 仕事はフランス語で、サイトは日本語という決定的な違いがまず原因だ。もともと、長い時間かけて調べるだけ調べて、あとは一気に書き上げるというのが私のスタイルだったが、フランス語だと、一気に・・・・・、なんてことは、決して出来ないことを激しく痛感している日々(涙)。

 “ゼロの視点”における文章は、書き終わったあと、実はわたしはあまりその内容を覚えていない(笑)。きっと、自動筆記に近い状態で書いているのだと思う。しかし、それが、フランス語になると、まったくできない。アタマには日本語で書く時と同じように、様々なアイデアが浮かぶのだが、それをまだ自由自在にに語彙、または表現を変えて、スラスラと書き連ねていくことが不可能に近い・・。

 覚えていた“はず”の動詞活用も、実際書いてみると、本当にあっているのか不安になることも多々あるし、単純過去をどの時点で使ったほうが効果的なのかというのも、実のところ曖昧であったりする。それプラス、現在作成中のものは、執筆しなければいけない本の3分の一を占める部分の、日本とフランスの歴史。そうなると、当たり前のように義務教育時代から覚えていた語彙をフランス人にわかりやすく、置き換えなければならない。

 この“当たり前のように”覚えていた語彙というのが、一番の曲者だったりするのだ。語彙だけを覚えていて、意味をあやふやにしか解釈してないこともあり、それを調べる・・・・。

 いずれにせよ、一行書くごとに、なにかしらの辞書や参考文献を見直すというのが現状だ。そして調べているうちに、書くこと自体のリズムが完全に停滞してしまうという、悪循環に陥る。

 こんなとき、ふと昔山登りを始めた時のことが思い出された。まるでやる気のない私を、登山の道へ踏み入れされた“いやな奴”がいるのだが、そいつに騙されるようにして、一歩踏み入れた登山道での記憶、だ。

 都会生活、つまり“水平”なところでは、私は歩くのが異常に速い。新宿の地下街でも、なんでも、だ。とにかく速い(笑)。しかし、登山道では、それがまったく活かされずに、登り始めて10分もしたところで、すでに泣きが入ってきた。20分もしたら、その辛さに完全に絶望して、ヒステリーを起こしたり、泣き叫んだこともあった(泣笑)。

 辛くなる度に、登山図と標高を確かめて、その頂点が遥かに遠いことを悟ると、絶望のどん底に陥っていったものだった。そんな時、天候が悪くなり、雲が自分の目の前に現れてきたりすると、もう完全にパニック。意味不明に「殺してくれーーーっ」と叫んでいた。

 とにかく、普段の自分とあまりにも違う・・・・、それもいい意味ではなくて、悪い意味で・・・、という状況自体が耐えられなかったのだと、現在、自己分析できる。

 そんな私だったが、“いやな奴”に強硬に数え切れないぐらい登山に連れ出され(ついて行くこと自体、潜在的に私自身にも征服欲があったと思えるが)、だんだんとコツを覚えてきて、最後のあたりは“縦走”なんてことも出来るようになっていた。これは、今思うと、初登山から1年後のことだと思う。

 その頃は、すでに登る山が3000メートル級で、一度入ったらなかなか出てこられない山と判っていても、パニくることがなくなっていた。“いやな奴”のほうにガタが来ても、それを励ますくらいにまでなっていた。

 現在、登山はやめてしまったが、これを通して学んだものは、文字通り“一歩一歩進む”こと、だった・・・・・・。

 しかし、人間、楽なほうに簡単に流れるのが常。ここまで学んでも、もう一度同じ苦しみはしたくないと考えてしまいがちな、私。今の自分の仕事の状況が、初登山にダブり、そこで一歩一歩進めば道が開けるとは判っていても、本能が、あらゆる苦難から逃走しようと試みる。

 フランス語で書いた原稿を、文法に恐ろしいほど異様にマニアックな夫に校正してもらう。すると、数え切れないくらいの赤がっ!!。

あんなに苦労して、書いたのにィ!!。

 きちんとイヤミな程、校正してくれる夫には悪いが、間違いを指摘される度に逆ギレしそうになる私。挙句の果てに、「私はフランス人じゃないもーーーんっ!!」と威張ってみたりする・・・。そんなこと言っている場合じゃないことは百も承知だが、言わないとヤッテラレナイ、というのが本音(汗)。

 今やるべきこと、そして越えなくてはならない難関、それらすべてをよーーーく把握はしている。でも、久しぶりに叫んでいいですか?。例のセリフ・・・・。

『殺してくれーーーーっ!!』

 殺してくれ、ということは、自分で死ぬ勇気もないこと。すべてが他力本願で、状況によれば、すべてが他人のせいという思考回路なんだな、と改めて実感・・・・。

 さて、仕事に復帰します。


2003年01月08日(水) 寒い・・・、そして仕事の状況も寒いっ!!

ナントからパリに仕事で来ている、夫の幼なじみのMと自宅でアペリティフの後、インド人街へカレーを食べに行った。

 夫と彼は、La Bauleというところにある別荘での隣人幼い頃からの隣人同士。Mは経済関係の翻訳業(英仏)と、自らも本を執筆したりなど、それこそペン一本で生活を担っている。

 もともと彼は銀行員だった。同じ銀行で知り合った妻と4人の子供を設けたまではよかった。が、銀行員としてキャリアを上り詰めるものと夫を信じていた妻だったが、夫Mのほうは、昔からペン一本で稼ぐ生活に憧れていたため、時期を見計らって銀行を自主退職。その頃から、夫婦の関係がギクシャクしはじめた。

 その後、別居となった。妻が夫を追い出したのだ。しかし夫もさることながら、追い出されたアパルトマンのまん前に、住み始めた。窓を開ければ、残してきた4人の子供に挨拶できる、という仕組み。

 10年間の離婚訴訟が済んだのは昨年の8月のことだった。夫の不貞ということで最終的に訴えていた妻だが、結局それは彼女の妄想だったことがきっちり証明されたのだ。修行僧のような彼が不貞を働くってこと自体、想像するのも不可能なのだけれど。

 ところで、彼は、フリーで働いているのだが、非常に毎日規則正しく生活してる。おまけに語彙や表現力の豊かさ(話しているだけでも)は素晴らしく、こういった人が本を書いているのは非常に納得できる。

 が、こういったレベルの人であってはじめて本が書けるのであって、わしに書けるのか?!?!?!、という不安が同時に襲ってくる(汗)。なので、これからしばらく仕事に専念します・・・・・・。そして、生活もちょっと規則正しくしてみようと・・・・・。

 とりあえず30頁分、一気に仕上げてみようか・・・・と。


2003年01月07日(火) 某県人会

 今晩は、在仏某県人会の幹部だけの集いに呼ばれている。私はまったくの新入りなのだが、なぜかありがたいことに声をかけていただけた。

 とある日本料理店の個室に集うメンバー6人。実に様々な個性が集合していた。画家、哲学者、剣道の達人、仏人と結婚して現在は子育てと仕事に励むキラリとした女性、駐在員、そして私だった。

 私の向かいに座っていた駐在員のO氏が

駐在員「ゼロさんは在仏何年ですか」と訪ねてきたので、
私「まだ4年半なんです」と答える。
駐在員「まだ4年半なんて、じゅうぶん長いですよ」
私「へ?!?!。といことはOさんは?。」
駐在員「私は2年半です」
私「そうなんですか。つい他のメンバーの方が在仏歴が長いのにつられて、ついつい“まだ”4年半などという答え方をしてしまいましたよ(笑)」

などと会話をしていたら、私の左隣に座っていたフランス剣道会の重鎮Kさんが「30年なんてあっという間ですよ」とボソっと言う。Kさんは在仏歴32年だ!!。そして、

「10年目に入ってしまえば、あとは20年、30年とそんなにかわらなくなりますよ」と実に淡々と言う。

 私と駐在員O氏だけがこのメンバーの中で在仏5年未満で、あとの人は10年以上、そして極めつけはこのKさんの32年というわけだ。

 10年も経ってしまえば変わらない・・・・か。そうなると30年以上あっという間にフランスで暮らしてしまえるのだろうか、私も?!?!。今35歳なので、それにふと32年を足してみる。

 ゲッ、32年後、私は67歳ではないかっ!!。32年から、私の在仏歴4年半を差し引いても62,5歳。とうに私は還暦を越えている計算になる。こんなことを考えてたら、少しだけアタマがクラクラしてきた。

 フランスで還暦・・・・。そんなことがあるんだろうか?。なかなか想像できないというより、あまり想像したくないっ、というのが本音かもしれない。

 しかし本日のメンバーの方々は、実にそれぞれの人生を充実して過ごしてきているかというのが、顔を見て一目でわかる人ばかりだった。こういった不に気は勇気づけられる。スノッブでもなく、また自分史をダラダラ語るでもなく(要するに説教)、いつも何かに挑戦している人たち。とにかくネガティブじゃないのが、気持ちいい。

 

 途中、鍵を持たずに出勤してしまった夫が、この会合に現れた。鍵を取りに来たのだ。現れてからすぐ帰るわけにもいかず、少し席につき、残りものをつついていた夫。

 しかし、今回ばかりはさすがの夫も会話に参加できない。ちょうど夫がきた頃は今年度の活動について議論されている真っ最中。私も新人ながら、時に意見を言ったり、時に夫に通訳したりしていたが、仲間に入りたくても入れないお喋りフランス人は、まるで借りてきた猫のようだった。

 それでも、誰かとちょっと話をしようとしたのか、駐在員O氏と最初は英語で話し始め、その後彼が中国にいたことを知るや否や、さっそく彼と中国語で会話しはじめた。そうなると、今度は私が通訳を必要とする(笑)。

 議論は続行中なので、駐在員O氏も、私も夫のことには構っていられないので、議論に復帰。わかるはずもない日本語の会話を、ボーっと“聞くふり”している夫。内心、この状況をとっても楽しんでしまった私。こんなにおとなしい夫を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。

 その後、「ゼロは、日本語が達者だね」という、なんともいえない発言を残し、またメンバー全員に丁寧に挨拶をして、彼は一足早く帰っていった。

 会の終わりには、私の仕事の説明もして、メンバーに取材&情報提供協力をしてもらいたい旨を伝えることもできて、満足の私だった。


2003年01月06日(月) ホリの深い顔

なんでわたしゃ、パリに住んでるんだろう・・・?、とふと思うことがある。

 大学も仏文科だったとはいえ、一度も留学しようなんて思ったことはなかった。奨学金をもらえようと、自腹を切ってであろうと、いずれにせよ、私にとては“面倒くせえっ!!”、ということ以外ナニモノでもなかったということは確かだ。

 配偶者も日本人がいいと思っていた。夫婦間のコミュニケーションに外国語の習得なんてしなくていいのだからっ。親も、親戚も、友人ともそう離れないところに住んで、てきとーに主婦して、てきとーに仕事して、てきとーに歳とって・・・、なんて生活。今でも、たまに憧れる。

 夫と偶然パリでのパーティー先で知り合ってから1年半ぐらいの間は、私たちのコミュニケーション言語は英語だった。幸いにも夫はバイリンガルだったので、きちんとした英語を喋ってくれたが、私の状況は悲惨そのもの。

 大学でフランス文学を学んだ上に、フランス語が話せず、受験や大学で第二学国語が英語だったのに、それも駄目・・’、ってな調子。まあ、よくある典型的・外国語アウトな日本人のひとりだった私。

 特にこちらに住んで、長いこと数字がわからなかった。大学のときも、テキストを読み砕くときには、数字は数字。ゆえにフランス式の発音なんて覚えなくても、理解ができたので、覚えよーなどとは、全く思ったことがなかった。

 パリでの生活が突然始まっても、買い物などで値段は全部きちんと表示されているので、数字の発音などわからなくても生活がラクラクできる。おつりの値段をフランス語で言われても、レジの機械に表示された数字を見てしまえばそれでOK。

 そんなわけで、半ば意地になっていた私は、決してパリに住み始めても数字の発音を覚えようとはしなかった。“いつか自然に口から数字の発音が出てくることがある”と都合よく信じていたのか、それともただ努力したくなかっただけなのか?。ま、現実はその両方だと思う。

 ところが、不思議なことに、考えていたことが現実になった。知らない間に数字を含めて、会話が英語から完全にフランス語に切り替わっていたのである。今考えても、それがいつだったかハッキリしないぐらい、自然な変化だった。

 この変換時期には、けっこう英語力もアップしてきていたのだが、完全に切り替わってしまった現在、また私の英語力が完全におかしくなってきているようだ。

 テレビでBBSやCNNなどのニュースをダイレクトで見ていると、だいたいのことは理解できる。またパーティーやそれ以外の機会で英語圏の人々との会話に参加しているときは、だいたいの会話は理解できるレベルはまだ維持できているようだ。

 しかし・・・・・。いざ彼らの質問に答えようとすると、すべてフランス語になってしまうのだ。滑稽なのは、この時点で私は、自分で英語を喋っていると信じていることっ!!。おまけに、フランス語が妙な英語のイントネーションになっているのが常。

 ゆえに、彼らは全く私の言おうとすることを理解できない(涙)。ひとりだけよくわかっている、私の隣にいる夫がウケて笑っているのがおちだ。クそっ!!。笑っていないで、さっさと訳せ!!。

 この症状が出現してから長いので、自分なりに状況を分析してみた。恐らく、私の中で、外国語というカテゴリーにはフランス語だけがインプットされているようだ・・・。おまけに私にとっての外国人、特に西洋人が外国語(用は日本語じゃないアルファベットでなりたつ言語)で私に喋りかけてくると、すべてフランス語で反応してしまうという脳の回線が完全に出来上がってしまっているらしい。

 要するに、話す相手の顔のホリが深いと、必然的にフランス語になってしまうということだ。もし相手が青い目で金髪だったりしたら、なおさらのことなんだと思う。

 取材先で、たまに日本語が達者なフランス人などに出会う。彼らは自分の日本語のブラッシュアップのために私に日本語で話し掛けてくるのだが、彼らの顔はホリが深い。ゆえに、自動的に私は日本語で彼らの質問に答えられなくなってしまうのだ(笑)!!。

 傍目からみたら非常に奇妙な事態だと思う。フランス人が日本語を話し、日本人がフランス語でそれに答え、それでいながら会話が成り立っているのだから。

 そんな私も、日本人同士でおしゃべりを楽しむときには、なんの支障もなく、思いっきり(時には度が過ぎるほど)日本語には堪能です(笑)。


 《追加》夫は中国語を喋るが、そういえばアジア人とみると、とりあえず最初に北京語でためしに話し掛け、そのあと通じなければ広東語で話すという、なんともいえない方法をとり続けている。きっと、彼にとってホリの浅い顔=中国語ということになっているのだろう・・・・。
 


2003年01月05日(日) パニック!!

昨日の夜、私はディナーの招待をキャンセルした。夫一人で行ってもらった。なぜなら、土曜日の晩、そして日曜日の昼から社交していると、まったく仕事ができないからである。

 とはいえ、本当に仕事するか否かというのは別として、一人で集中する時間がないと、いいアイデアが浮かんでも、それ以上発展できないし、覚えてもいられない、というのが実情だ。

 昨年の秋頃から今まで、よそのうちに招かれてばかりいた私達。以前同じようなことを書いたと思うが、招かれてばかりではいられないのが世の常。ということで、年末から今まで私達を招いてくれた人を我が家に招待し始めた。

 ところが、我が家は思いっきり“豚小屋”。おまけに私が仕事を自宅で始めてからは、本当に家の中がグッチャグチャというアリ様。おまけに、私も夫もギリギリになってしか動かないタイプなので、たちが悪い。

 私は夫のことが好きだけれど、毎日いられると困る(笑)。特に週末などは彼とダラダラしていると楽しいが、それでは仕事にならない。というわけで、昨日は彼に一人で出かけていってもらって、その間、一人でゆっくりとすることができた。でも、それでも数時間・・・・・。気がつくと夫は帰宅して・・・、という具合。

 “亭主元気で留守がいい”とは、よく言ったもので、私も典型的な日本人なのだとつくづく思う。

 夫が昨日の晩家に帰ってきたのは、午前2時過ぎ。時間から考えると日曜日の午後1時半に招いた人が我が家にやって来るのは、そう遠くない。

 それではどうするか・・・・・・。

 夫が帰ってくるまでは自分のことだけを楽しみたい私、とはいえ日曜日の昼からのことがあるゆえ、夫が帰ってきてから、日曜日のランチの準備をし始める。

 いい気分で帰ってきた夫に、インゲンの根を切る作業を真夜中にさせ、ある程度のランチの下準備・・・・。そんなことをしているうちに、もう午前4時。

 さて、本日は二人とも10時半に起床。これからが本当の正念場。グッチャグチャの家の片付けに始まり、テーブルセッティング、魚屋に頼んでおいた料理(オードブル)の回収、部屋のデコレーション等・・・・・。これを客がやってくるまでの3時間半の間にすべてやる。

 必然的に私も夫も、ヒステリーになってくる。ゆえに激しい罵り合いが始まる。強烈な罵倒合戦!!。でも、やることはたくさんありすぎて、もう、ひっちゃかめっちゃか。

 私も夫も、毎日我が家をキレイに整頓しておけば何でもないのに・・・、と考えながらも、それらをやってなかった罪悪感も強いゆえに、どちらかがそれらの琴線に触れると、もっとバトルは加熱する・・・・(汗)。

 13時半と招待客に伝えてあるものの、しまいには、二人で「本当に彼らが時間びったりに来たら許さない!!」なんて言っているほど。

 来客到着15分前に、電話がなる。なんと日本からの電話だ。それは私のいとこのIだった。なんという間の悪い電話っ!!。いつもならこのような電話は嬉しくて、長いこと色々喋りたいのだが、マジで、わしらは切羽詰っている。おまけに、Iは昔からゆっくりとモノを喋るタイプっ(笑)!!

 「何をどうしたいのかっ!!」なんと詰問してしまう私(汗)。敵もさることながら、私の性格をよく知っていて、いかに私がパニクっているかを瞬時に悟ったようである(サンキュー、我がいとこよっ)。

 電話のあと、本当に最後の最後になって、席次を決める。これがまた、日本人の私には本当に面倒くさい。席次なんてどうでもいいじゃねえかっ!!、と言いたいところだが、そうはいかないのがフランス。

 日本だったら、炬燵に入って、適当に始めて、適当にヨッパラって、あとは無礼講っていう感じなのが、まったく通用しないのが本当にむかつくっ!!。おまけに、やたらと使用する皿やグラスの数が多くなるもの、私としては内心イライラする理由であったりする。

 アペリティフ要のグラスに始まり、水のグラス、ワイン用のグラス、オードブルの皿、メインの皿、チーズの皿、デザートの皿・・・・・・。それプラス、本日の招待客を含め、全員で8人。でも揃った皿が6枚づつしかないっ!!。どーしよーーーっ!!!!。

 もうすべての皿を割ってしまいたくなるぐらい、自暴自棄になる私。番町皿屋敷だ!!。とはいえ、皿を割っても、罪悪感にとらわれずに、瞬時にケツをまくってしまえる私ではあるが・・・・。

 幸いなことに、我がレジデンスはアクセスが複雑。ゆえに招待客が想像以上に我が家にたどり着く前に迷ってくれた。わざとやったわけじゃないが、在る意味この可能性に期待していた私がいるということは、ここで白状しておく。

 というわけで、パニクったあげくに、すべての招待客が揃ったのは午後2時だった。それにあわせるかのごとく、すべての準備が整ったのも午後2時だった・・・・。

 あとは、準備に苦しんだ割には、楽しく過ごし、あっというまに午後6時過ぎになっていた。楽しい時間というのは、本当に早く過ぎるものだな、と。しみじみ思う私。

 さて、嵐も過ぎ去った今、私が仕事に復帰できるか?!?!?!、といえば、それは不可能。もう、すべてのエネルギーを消耗してしまった。できることといえば、とりあえず、日記の更新ぐらいになってしまっている(笑)。

 これからも、昨年のツケで色々な人を週末ごとに招待“せねば”ならない私たち。さて、これらの問題を含め、どうやって仕事を両立させていくか、という問題が益々クローズアップされた日でもあった。
 

 

 

 

 


2003年01月03日(金) 統計と現実

 調査統計のいわゆる“数字”が大好きなフランス人。それらにむけて、必然的に私の仕事も、たくさんの統計結果が必要になってくる。

 ありがたいことに、だいたいの予備調査はネットでできる。これらで調べた数値を最終的に、それなりの公的機関にきちんと問いただせばいいだけ。一昔前だったら、本当にひとつ調べるだけでも膨大な時間がかかっただろうなあ、としみじみと思わざるをえない。いい時代に生まれ、本当にラッキーだと思う。

 そんなわけで、我が家に私がいる場合、そのほとんどの時間をPCの前で過ごすというのが習慣になりつつある。

 調査しているうちに、ふと気になる数値を発見。例えば、日本での自殺者の数値は98年より、3万人を超えている。そして自殺者としてこの数値に含まれるのは、“自殺を試みてから24時間以内に亡くなった人”しか含まれていないということ。

ちなみに、パリを含むIle-de-France(日本で例えれば、東京とその近県)に住む日本人の数が約1万6千人(※日本大使館に在留届を出している人の数)。ゆえに、毎年、この数値の2倍の人が母国では自殺しているということになる。

 一方、WHOの調査では、健康寿命と、寿命の両方で日本が世界一の長寿の国と記載されている。特に、健康寿命というのは、寝たきりとか、そういった人の数を除いて算出した数字であるゆえに、それだけ健康体を維持した人間が長生きしてるというのが、日本ということになる。

 自殺大国であると同時に長寿大国である日本・・・・。健康寿命というあくまで身体面だけを重視した調査ではなく、次回は各国のメンタルへルスから見た寿命というのを、WHOにやってもらいと思った。

 残酷で皮肉な結果だとつくづく思う。健康な身体を保持しながら、自殺を試みてから24時間以内に、その思いを遂げてしまう人が毎年3万人以上もいるという現状。そこに“ソレ”を実施してから、しばらくして亡くなってしまった人や、行方不明というカテゴリー内で、実質的にホームレスになったり、または人知れずどこかで亡くなった人などを加えたら、この数値は膨大なものになることだろう。

 各都道府県警察のサイトを覗くと、身元不明で亡くなった人の遺品写真を展示して、家族からの連絡を呼びかけている。その点数の多いこと・・・。数値だけではないモノが、視覚に強烈に何かを訴えてくる。

 

 さて、日本の人口は、フランスの人口の約2倍強。フランスでは約8000人前後の人が毎年交通事故で亡くなっている。それに対して、日本は約8300人。フランスでの交通事故死者数が多いことを、如実に表す統計値だ。

 交通事故といえば、昨年のニューイヤーパーティー。某映画監督の家でやったのだが、金に対しての考え方の違いがあり、それが原因でパーティー以後は彼との交流を事実上絶っていた私達。

 ある日、テレビを見ながら食事をしていると、彼の写真がニュースに出ているではないかっ!!。ビックリしてテレビ画面にかじりつくと、それは彼の交通事故死を伝えるものだった。自宅から5分のところで、ハンドル操作をあやまり立ち木に激突して、亡くなってしまった。

 新年の挨拶で、「人生は何があるかわからない、だから瞬間、瞬間を楽しもうっ!!」と挨拶していた彼。楽しむことを提唱しながら、彼の眼が全然リラックスしていず、笑っていないのを妙に不思議に思ったものだが、まさかその2ヵ月後に、こんなことになるとは・・・・。

 11月末の友人の交通事故もそうだが、私の身の回りでも、統計結果が示すことが現実に起きている。

 日本では、運転が何よりも好きだった私が、まったくパリでは運転する気にもならない理由の一つがここにある。

 自殺、事故死、病死、いわゆる自然死など、亡くなった本人、そして遺族、それに立ち会う(時には救う立場である)医者、警察関係者等が、それぞれが異なる立場(時には義務)から『死』見つめている。

 そんなことを考えているうちに、『死』というものを把握しきれない私に気づいた。


2003年01月02日(木) フラッシュバック

本日はわりと仕事がはかどった。というより、もうやるしかなくなっているから・・・、というのもあるのだが。

 なぜなら、元日の夜は、寝ようと思ってベッドに入ったのはいいのだが、どうも極度の焦燥感に駆られて眠ることができなかった。こういうことは、私にとって、ものすごく珍しい。

 どうしようもなくなって午前3時過ぎにPCの前に座って、資料整理などをしていた時に、ふと様々なことが鮮明に蘇ってきた。

 思えば、大学受験の頃・・・・。1月に入っても真面目に勉強せず、友人を呼んで、当時流行っていた“グラグラ”ゲームというのに、何故か没頭していたな・・・、と。その姿を見ていて、哀れな我が母のアタマが不安でグラグラしていたそうだ。

 そして、次は卒論。締め切りは1月10日だったが、1月1日になっても何も準備していなかった・・・。いちおうアタマの中だけには漠然とした構想はあったが、それを本当に期限内に書けるかどうか全く五里霧中のまま、元旦を迎え、くだらない正月番組を、やけに真剣に見ていた。

 結局、原稿用紙50枚の卒論を、5日で書き上げた。一日10枚のペースで書いた。書き上げた直後、鏡を見るとやつれた自分がいたので、興味半分に体重計に乗ってみると、5垳困辰討た。一日あたり1kgづつ削ぎ落として書いていたようだ。

 ある意味でのフラッシュバック体験しているときに、一通のメールが届いた。それは今は亡き父親の教え子からだった。父は某国立大学で物理を教えていたのだが、その時の第一期生だ。

 昨年、とある縁で元父の教え子のT氏とたまにメールのやり取りをするようになった。そんな彼が、私の現状を知るか否かは別として、なんともタイムリーな内容のメールをよこしてきた。

 彼も大学時代は、部活動や様々な学業以外のことに精を出し、卒論提出期限ギリギリまで、何も手を就けていなかったと言う内容だった。完全にパニックになり、どうにもまとめられなくなり、難解な物理の数式などを我が父が指導してくれて、なんとか論文になったのを、昨日のように覚えていると書いてあるではないかっ!!。

 おまけに、今でも、ストレスや何かを感じると“卒論が期限に間に合わない夢”を見てうなされると告白。ビックリしたと同時に、非常な親近感が沸いてなんだか嬉しくなってしまった。

 ちなみに、このT氏は私の母と同い年。国や言葉を変えても、本質は変化しないと前述したが、これに“年をとっても”というのを加えてもよさそうだ。

 T氏は、その当時の思い出に、我が父が書いた年賀状を今でも大切に保管していて、今回このメールに、その年賀状をスキャンして送ってくれた。で、よくよく見てみると、年賀状を書いた日付が書いてある。

 某年1月22日・・・・・・。

 に、に、に、にじゅういちにちぃぃぃいッ?!?!?!。

 フランスでは、年始の挨拶などの期限をあまり気にせず、カードなどを送ったりするものだが・・・・。

 娘も娘なら、父もねえ・・・、ということを否応無しに感じた瞬間でもあった。

 ところで、夜、切羽詰まって働いている私の横で、一人で黙ってテレビ見ているだけじゃ退屈になった様子の夫が、突然掃除を始めだした。これは物凄く珍しい現象だ。昨日から、どうしてしまったのだろう、我が夫・・・・。とうとう壊れたか?。

 掃除機を使えばいいものを、なぜかホウキを使っている彼に、ふと“レレレのおじさん”の姿がダブった。


2003年01月01日(水) 謹賀新年

 あけましておめでとうございます。


 さて、昨日の大晦日は、例年のごとくパーティー。夜9時に出かけて、午前6時頃に家に戻ってきた。

 パリに住み始めて5回目の年越しだが、毎回パーティー会場で過ごすので、一度もテレビ等を見たり、あるいは街にブラブラと繰り出す等のことをして、年越した経験がない。一度はやってみたいものだ(笑)。

 パーティー会場には70人くらい人がいたが、午前零時をまわると一斉に恒例の“Bonne année”コールと一緒に、ビズ(挨拶のキス)が始まる。非常に面倒くさい・・・。昨年のパーティーは120人くらいいたので、もっとビズをする回数が多くて、疲れた(笑)。

 とはいえ、会場には、仲のいい友人らがたくさんいて楽しかった。特に私のお気に入りのV(♂)が、その妻Cと愛人Kを引き連れてパーティーに参加してきたので、さっそくお喋り。

 彼らは、いわゆる"ménage à trois"(要するに3人で暮らしている)という家族(?)編成。3人ともそれぞれ個性が極端に違いながらも、奇妙なハーモニーでうまくこの家族構成を維持しているから、尊敬する。

 もともと彼らは夫の友人だったのだが、気がついたら私のほうが彼らの生活にズイブンと入り込んでしまっているのが実情。ま、そのくらい三者三様に面白い人達なのだ。

 というわけで、年が明けてからは、ずうっとVと一緒にいたように思う。彼の今までの生い立ちとか、つい、いつもの癖でどんどんインタビュー体勢に入っている私。

 妻と愛人をそれぞれ満足させる秘訣や苦労など、色々話してくれて、あっという間に時間が経っていった。オトコとしての精神面と肉体面のバランスをとる、といえば簡単になるが、まあ、それらを実践し、妻も、愛人もそれにOKを出しているのだから、面白いものだ。

 ほんの少しだけ、アナイス・ニンの話がふとアタマに浮かんだほど。

 ところで、久しぶりに会うメンツなどもたくさんいたので、それらと一人一人話していくだけで、もう明け方になっている(汗)。また、久しぶりに会ったというのに、みな私の仕事のことを知っている。夫のせいだっ!!!!!!。ヤロウがべらべらと喋ったに違いないっ。うううっ。

 帰宅して、目が覚めると夫が珍しくクロワッサンを購入して、朝食の準備をしてくれていた。ビックリ。その後、テレビでリノ・バンチュラ主演の“レ・ミゼラブル”を観る。ふとチャンネルを回した出くわしただけなのだが、面白くてついつい全部観てしまう。

 これを見終わった頃、夫がキッチンに向かっていく・・・・。アタマにはたくさんの???マークの私。キッチンに一緒について行こうとすると、拒絶されたので、放っておいた。

 すると15分後に、たくさんの牡蠣をキレイに皿にもりつけて、夫がテーブルに並べ始めるではないかっ!!。どうしたんだ、このサービスっ。朝食の件にしろ、このことにしろ、マジでビックリしている私。

 果たして、これがいい年のはじまりとなるのか、それともこの夫のサービスが一日限りのものなのかはわからないが、こんな感じで私の2003年は始まってしまったようである(笑)。


Zero |BBSHomePage

My追加