Miyuki's Grimoire
Diary INDEXpastwill


2006年03月17日(金) 心のちから

心の力によってどんな奇跡が起きるのか、ということについて少し書きたいと思います。

あるギタリストの話です。

彼の名前はジェイソン・ベッカーといいます。10年に1人の逸材と言われ、1988年に17歳でデビューしました。天才的な超絶テクで、デビュー当初からギターキッズの間では注目されていました。1989年に来日した際に、雑誌記者として彼をインタビューをしたことがありますが、ジェイソンは長髪で笑顔が可愛く、ギターを抱えて眠るような、ギター少年そのものでした。

彼のプレイはミュージシャンの間でも注目されており、翌年の1990年に、元ヴァン・ヘイレンのヴォーカリストである、デイヴィッド・リー・ロスのバンド・ギタリストとして大抜擢され、一躍スター街道をまっしぐらに突き進むかに思われました。しかし、レコーディング終了後に彼はバンドを脱退しており、その後噂を聞かなくなってしまいました。

彼の身に一体何が起きていたのか? それを知ったのはずっと後になってからのことです。

それは、1995年のことでした。しばらくシーンから姿を消していた彼が、ソロ・アルバムをリリースするというのです。そして、届いた試聴テープを聴いて鳥肌が立ちました。ハード・ロックをやっていた時とはまるで違って、全編、天空を飛翔するような、美しく澄み切ったメロディがちりばめられたインストゥルメンタル・アルバムでした。情感に溢れ、聴いているうちに光の世界に自分が溶けて行くような、この上なく優しい音楽でした。そして次の瞬間、資料を読み、わたしは愕然としました。

アルバムにはジェイソン自身のコメントが添えられ、彼が難病に冒されていることが告白されていたのです。

彼は、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という病気を罹っていました。

ALSは筋肉が萎縮していく進行性の神経難病で、ある日突然、物を落としたり、転んだり、手足に力が入らなくなったり、ろれつが回らなくなってしまいます。やがて、食べることも話すことも、自力で呼吸することも困難となり、介護なしには生き抜くことができなくなってしまうのです。しかし、この病気は、感覚や自律神経、頭脳は正常で、知覚にはまったく障害がなく、考えたり、感じたりすることは健康だった時と変わりありません。

私はこの時、初めて、世の中にこのような難病があることを知りました。

コメントによると、このアルバムは、基本的に眼球の動きなどで操作できるコンピュータと音楽ソフトを使って録音され、一部生音を出したい部分は彼の友人が演奏して仕上げられたものでした。まったく、信じられませんでした。彼は自分で演奏することはできませんでしたが、伝えたい思いや、音楽は完璧に表現されています。アルバムの裏ジャケットには彼の言葉が印刷されました。

「病気は僕の身体と話す力を奪ったが、心は決して奪われていない」

これは、奇跡のアルバムだ・・・私はそう思いました。

その後、彼のサイトを時々見に行くようになりましたが、私はさらにいろいろなことに驚かされました。彼は入院してからヨガと瞑想を学び、心の中で悟りの秘法とされるクリヤ・ヨガをやっていたのだそうです。身体は動かせませんが、クリヤ・ヨガの18のアーサナ(ポーズ)と瞑想法を日々実践し、神の存在を意識するようになったのだと書かれていました。

特殊なコミュニケーション方法で書かれたジェイソン自身の文章を少し引用したいと思います。

「僕はとうとう自力で呼吸ができなくなったため、人口呼吸器のチューブを入れられた。僕は何日も眠れず、痛みと苦しみに意識が薄れ、死にかけていた。その時、僕は“OM”の響きを聞いた。突然、僕はとても親しみのあるヴァイヴレーションに揺られていることに気づいた。それは、パワーというか、愛というか、なにか限りない叡智のようなもので、長い間求めてきた完璧な慈愛とでもいうものだった。

その瞬間、僕の目にはっきりとドアが見えて、その向こうに身体が通り抜けて行くのを感じた。それがなんであれ、神が僕に見せてくれた天国であったと思う。その時、僕は心の中でギターを弾いていた。それは、今まで僕が聴いたなかで、もっとも美しい音楽だった。次のフレーズを弾くより前に、音楽が心にやってきた。僕は、神が人間の可能性を見せてくれたのだと思った。僕たちは、何かをやるために苦労をするけれど、神にゆだねれば人間に出来ることには限界がないと知った・・・。

こうして神がエゴイスティックな僕に何かを教え終わると、再び病室にいる自分に意識が戻った。そして、すべての怒り、痛み、苦しみが去っていて、平和だけがあることに気づいた」

そして出来上がったのが、95年のアルバム「Perspective」だったのでした。
発売されたレーベルがインディだったため一時は廃盤になりましたが、この素晴らしいアルバムが世に出ないのは、ミュージック・シーンの大きな損失だとして、かのエディ・ヴァン・ヘイレンが尽力をし、2002年にメジャーのワーナーから再リリースされました。

最近のジェイソンのサイトを読むと、1989年に初めて病気の検査をした際にに、医者から余命5年と言われたそうですが、今では、一時よりも体重も少し増え、動かせる筋肉も3つできたそうです。

ジェイソンのことを考える時、彼がこの体験を引き受けてくれたことに大きな感謝を感じずにはいられません。なぜなら、この体験をしたのは、私かもしれないのです。ある人がある体験をしたことによって、この世界で何らかのバランスが取られて行くように思います。どこかでつながっている一つの心の中に、一人の人の気づきや悟りの経験が、大きな光となって流れていきます。

彼が生きて、素晴らしい音楽を世に送り出してくれたこと、そして、人間の心のパワーを教えてくれたことに、心からありがとうと言いたいと思います。



2006年03月12日(日) ヴィジョナリー

自分の現実は自分で創るということについて、何人かの方からメールをいただきました。「思いが現実を創ることは理解できましたが、いまの現実がドーンとのしかかり、自分にそれを変えられるという気持ちにはなれません」というものです。これは、わたしも経験済みです。自分がどんなに願ったところで、積み重ねて来た現実や自分や周りの人のなかに蓄積されてきたエネルギーというものがあります。それをどうやって超えたらいいのか、わたしもわかりませんでした。

かつて、わたしは自分の失敗を悔やんでいたことがあり、この状況を、もう、どうしようもないのかと、数ヶ月、ことあるごとに思い出しては失望し、泣いたりしていました。現実は変えられると知っていはいても、とても瞑想なんて出来る状態ではありません。完璧に時間が止まっていました。ある日、後悔すると成長が止まるなぁ、と思いました。

そんなある日、友達を通して、水の精霊からメッセージをもらいました。

その時のメッセージをここに紹介したいと思います。


「まず、ご自分を信じるということをやってみてください。
あなたの心を占めていることが現実化していることに気づいてください。
あなたが不安を感じていて、それに執着し、苦しいという思いが見えます。それがそのまま現れています。

思いが現実化するということ、心の中で、何を思い、何が起こっているのか、もっと見てみたらどうでしょうか。

どの人も、自分が大事にしているものに対して、執着があります。失いたくないと思います。けれども、強く思えば、まさにそれが現象化していくのです(注釈:失いたくないとしがみつくと、それを失う方向へエネルギーが働く)。

それを解決していくには、大きな意識の転換が必要です。現実はパラドックスのような形で現れてきます。手放したくないものを手放そうとすることによって、そのものに対する執着を手放せます。そうすると、コントロールのエネルギーが別の形で現れてきます。

どのようにしようかという気持ち自体を手放すことです。それは運転している車のハンドルを手放すような感じです。こわいけれど、宇宙のオートマにゆだねる。あなたが持っているものを捨て去り、内面からひっくり返すことです。とても大変ですが、やってみる価値はあります。

人生の中での苦しいことや、大変なことというのは、悪いことに見えるかもしれませんが、それはより良いものへ変わろうとしているということです。

大事なのは、つねに変わり続けることであり、自分と思っている自分も、つねに死と再生を繰り返している、つねに変化している存在であるということを、より大きな理解で知ってください。

心を卵に例えると、表面の殻に泥がついたりしているかもしれないけれど、中はとてもきれいなものがあります。

心のコアの部分は、汚したり、傷つけたりできないものです。その心の奥にある輝きを信じてください。あなたは、傷つけたかもしれないことを、その人のそぶりのなかにピックアップしているだけです。そういうことが起こりがちです。心を信じてください。信じる気持ちや愛だけが、奥へ入って行くことができます。恐れや不安は表面にとどまります。(注釈:以前のグリモアに書いた、卵の殻のたとえ話は、この時にもらったメッセージでした)

現実をもっとよく観察しなさい、という意味ではありません。ただ、ここにいて、感情を感じながら、流れの中に身を委ねて、起こることを味わうことです。

見通しを手放してください。

これは非常に大きなチャレンジですから、あなたが不安や恐れを感じるのは自然です。しかし、これをやることによって、大きな成長となります。

あなたの中の、本当に大きなあなたが、この現実をやりたがっているのに気づいてください。私たちはあなたが大好きで、あなたが自分を信じて、大きな海にこぎ出そうとしているのを、サポートしています。私たちみなが、本当にあなたの側にいて、大きなサポートをしています。

この経験を通して、非常に大きな愛をあなたは手にしようとしているのです。失いそうになっているということは、それを手にしようとしているわけです。起こっていることは、反対になるのです。

私たちは、本当にあなたを愛しているんですよ。

楽に、楽しく、無理をしないで、苦行に入らないでください。
あなたは、苦労をしないと獲得できないと思っています。そのことに気づいてください。もっと簡単に変われます。楽しくしているうちに、どんどんいい方向へいきます。自由で、楽になります。

楽なときに、一番、愛を表現できるのです。

気が赴くままにやること、衝動に注意を払い、充分に味わうことでそれが瞑想になります。

あまり、「〜しなきゃ」という修行に入らないようにしてください。

簡単に楽にゆだねて、大きな愛に運ばれてください。

いままでの関係性は一切捨て去り、これからどんな関係性が待っているのか楽しみしてください。

どうか、起こることを信じてください」


苦しいときに、水の精霊からこのメッセージをもらったことと、どんな時も私を励まし続けてくれた親友がいたことが、どんなに助けになったか知れません。これが転機となり、少しずつ、肩の力がぬけていきました。

(ちなみに、水の精霊は人間関係や感情、コミュニケケーションを教えてくれる担当です)。

いまも、ついクセで、時々悲しい思いに浸ってしまうこともありますが、それはわたしのパターンで、ある意味、より幸せを感じたいために、そういうジェットコースターを楽しんでいる自分に気づいています。ドラマの渦中にいながらも、泣いたり笑ったりしながら、どこかで人間であることを楽しんでいるような、客観的な自分がいます。

泣いてもいい、笑ってもいい、どちらでも同じで、どちらも楽しいのです。悲しいことも実は楽しいのです。私が泣いたとき、とっても優しくしてくれた友達がいます。愛を感じます。私が楽しいとき、一緒にわらっている友達もいます。これも愛を感じます。

本当に世界は、愛でできていると感じます。

ハンドルを完全に手放すのは上級テクニックですが、自分の好きな現実を創るには、夢をみて、想像するだけでいいのです。イメージとヴィジョンの力を使いこなす、そのマスターを「イマジナリー」あるいは「ヴィジョナリー」というのですが、最近、あるワークで私も学んだばかりなので、近いうちに何らかの形で、皆さんとも是非、シェアしたいと思っています。


2006年03月04日(土) LIVING IN THE HEART

ドランヴァロ・メルキゼデクの新しい本がやっと日本でも刊行されました。「ハートの聖なる空間へ」という本です。日本語になるのが待ちきれず、初めて英語で読みました。一字一句、読んでいるときにドランヴァロの声が聞こえていました。この本に書かれてある、ハートの聖なる空間での瞑想が、わたしの人生を大きく変えようとしています。

わたしは、自分にとって何が幸せかということが、かつて生きていた世界観では測れないものになっている気がしていました。

アカシックレコードによると、地球のアセンションが進み、いまよりも高い次元で生きるようになったとき、3次元世界で創られたプラスチックを初めとする高分子の素材はすべて分解し、というよりも消滅し、より自然なもの、分子の単純なものが残るそうです。心に平和を持ち、信頼している人々はシャンバラを見るだろうし、恐れと不安を持ち、混乱している人々は、そのような世界を見るそうです。

確かにその通りです。高次元なので自分が見たい世界が出現するわけです。天国があると思えばある、ないと思えばないのと同じです。

未来に持っていけるものは何もないってことに気づいたとき、わたしは何も持たないことが一番いいと思うようになりました。身軽で、自由です。

ルールも、ツールも持たない。それは人間が神である証です。

なので、最近は、休みの日には、いろんなものを捨てたりしています。そして、一つのことや、ものに長く執着しないように、引っ越しを考えるようになりました。

ある日、ハートの聖なる空間での瞑想中に、ハートの奥にある聖なる炎を見ました。それは金色に燃えて、美しく、すべての生命とつながっていました。それを見たとき、これは、愛や幸せ以上のものだ、と思いました。それは人類全体が共有している遺産のようなものでした。愛や、幸せはその中にあります。それは、ハートの奥に在るから、欲しいと思わなくても、手に入れようとしなくてもいいものでした。それがすべてであり、それを、みんなが手にしているのだとわかったとき、涙がいっぱいに溢れました。

けれど、周りには、痛みや孤独や苦しみがあります。

傷つき、自分を痛めつけている人たちを見ると、悲しくなります。無理をして、ボロボロになって、そんな自分を認めてもらおうと必死になっている人がいます。痛いでしょう、苦しいでしょう、と声をかけたくなります。そんな人を見るたびに、どうか、自分のために、わがままになってほしいと心から願います。

仕事や肩書きは、ゲームみたいなもので、ある種、この次元の装備みたいなものです。わたしは、ただ、傷ついた人たちが、ハートの奥にある人類の遺産に気づいてくれさえすれば、と思うのです。

その力に気づけば、現実は本当に自分で創って行けるのです。

わたしの体験を話します。

昨年11月から今年の1月まで、わたしは、ある人生を賭けた実験をしていました。自分が見ている現実が、本当にホログラムのように自分の思いや意志で創って行けるのだとしたら? 古代の人間はその力を使っていましたし、ネイティウ゛の人たちはいまでもその力を使っています。

わたしは、ある現実に焦点をあて続けました。

どんなにマインドが「そんなの無理にきまってる」と不安や恐れで誘惑してきても、その思考を振り払い、過去や未来を一切見ずに、現在の中で、見たい現実に集中しました。出来事は起きていませんが、毎日、その感情を味わいました。すでに自分がそうなっていることを見て、聞いて、感じていました。3ヶ月がたったとき、心の中から「もういいだろう」という声が聞こえて来て、なにかが弾けました。

そうなったとき、わたしの中から、その願いそのものが消えていました。そして、奇跡だと思っていた状態に自分がなっていることに気づきました。現象はあとからついてきました。かつて自分が幸せだと感じていた状態になっている自分、幸せな自分がいました。幸せは、自分のなかにある力。そして、それを表に出させるのは、ハートの奥にある炎でした。

奇跡とは、自分の心のあり方が変わること。その方法はいとも簡単です。頭(マインド)ではなく、ハートを使うこと。ハートで願うことです。

いまのままの、この現実に満足していて、このままの現実の延長を見ていこうと決めれば、自分の身体や感情を使って、その中にどっぷりつかって、その内側からいろんなものを動かして行く方法をとるようです。それは、映画のなかで、自分が主役を演じるような感じだと思います。

瞑想して、ハートの奥で感じ、願って、最高の現実を創り出すのは、映画そのものを創る感じです。ストーリーも脚本もすべて自分が担当します。キャスティングもします。撮影も演出もしてしまいます。現実はスクリーンに映し出された映画になります。

演じるのも楽しいし、自分で映画を創り、それを見るのも楽しい。

どちらでも構いませんが、より自由度が高く、満足できるのは、やっぱり自分で創ってしまうほうだと思います。

ハートの奥の聖なる空間を、一人でも多くの人が体験できますように。そして、わたしも、もっともっと自分を愛することができますように。

そういえば、「ルールは持たない、ルールは自分が創る、ある意味、自分が神になる」と、素晴らしいことを言った人がいました。その人、ホリエモンは、自分の世界を創ることには成功しましたが、あっという間に崩れてしまいました。彼はハートの力ではなく、頭(マインド)でそれを創ったので、二元性の落とし穴にはまり、望んだ現実と望まない現実を両方一緒に創ってしまったのでした。


2006年03月02日(木) 未来からの手紙

私であるあなたへ。

私はいま、幸せですか?
私の心は、満たされていますか?
私の身体は、喜びにふるえていますか?

まわりを見渡してみてください。
世界はどう見えますか?
理想とは違う?

どう見えても、それが 私の望んだ現実です。
ちょっと待って、こんな現実、望んでなんかいない!と 私は反論するかもしれません。けれど、よく見てください。そんな現実を 私は認めませんでしたか?

自分には力がないのだから仕方がない。
こんな風になったらどうしよう。
どうせうまくいくわけがない。
あの人に腹が立つ。
自分に腹が立つ。
そんな幸運はあるわけない。
適当にやりすごそう。
自分は男運がない。

これらの思いは 私の思考、感情、そして身体のすべてを支配します。そして 私という電磁気的な「場」から強力な波動を放射し、その現実を認め、その現実を創っているエネルギーにどんどん力を与えて行きます。そして、さらに 私の思いを現実するように働いて行きます。

もう一度見てみましょう。
なにかを思うとき、 私は強力な祈りをしています。
さて、 私はどんな祈りをしたのでしょうか?

自分には力がないのだから仕方がない→
「私は自分の力を放棄しますから、人の言う成りになります」
こんな風になったらどうしよう→
「恐れたとおりの現実が来てください」
あの人に腹が立つ→
「私は自分の欠点を赦しません」
自分に腹が立つ→
「私は人の欠点を赦しません」
そんな幸運はあるわけない→
「私は幸運や豊かさを絶対に受け入れない」
適当にやりすごそう→
「私は自分にとってよい物を何も望みません」
私は男運がない→
「私はすべての男性との出会いを否定します」

どうでしょう? 現実を創っているのは、私たちの意識です。そして、すべての意識は祈りであり、祈りは必ず現実化します。地球および太陽系が銀河の中心方向から放射される光子の帯、フォトンベルトに突入し、地球人類の意識がゆっくりと高次元へシフトしはじめています。そして、ますます濃厚な光子を浴び、地球の磁場は弱くなり、脳が変革を起こしています。呼吸とともに光を吸い込み、五感が研ぎすまされ、思いが奇跡を生む時代となりました。 私はすでに3次元と4次元の狭間に存在しています。 ここはかつての「わたし」が見ていた未来なのです。

ここで、素晴らしいニュースをお伝えしましょう。

実は、この現実はホログラムで出来ているのです! どうです? どのようにでも 私がお好きなように現実は創りかえることができるようになっています。素晴らしいとは思いませんか? 硬い石の壁も、それがないことを望めば一瞬で崩壊します。それが人間の自由意志の正しい使い方です。

そんなばかな!と思うかもしれません。みんなが勝手な現実を創ったら混乱するのではないか?と思うでしょう。いいえ、混乱しません。60億の人がいたら、60億の現実が創られるからです。まさに無数の現実です。皆、好きなように好きな世界を生きながら、感じながら、お互い望む者同士がお互いの現実に登場し、ともに共有現実を体験するようにできています。

たとえば、幸せな自分と自分のパートナーを思い描いてください。愛し合う二人と、素敵な家と、可愛い子供達がいますか?  私が思い描ける限り最高の自分が存在するならば、パートナーにも、子供達にも、それが存在し、それぞれの最高の可能性を表現している状態で現実を共有することができるのです。

自分を幸せじゃないと思ったとします。私はパートナーとケンカばかりしていて、冷たい感情と孤独感に苦しんでいます。二人に子供はいません。この状態を「どうせ〜だから」「どうしようもない」「自分ではどうにも出来ない」「自分は不幸せである」と思った瞬間に、愛想のない、疲れて愚痴っぽく、妻を省みないパートナーが目の前に現れてくるのです。

さて、ここで考えてみてください。

幸せな状態と、幸せな事物とはどちらが先に生まれるのでしょうか。

私にとって、なにが幸せですか? なにをもって幸せだ、と言うのでしょうか?

パートナーがいること? お金をたくさんを持っていること? 外見が美しいこと? 家を持っていること? 健康でいること?

パートナーがいても満たされない人はいます。お金をたくさん持っていても不幸な人はいます。外見が美しくても寂しい人はいます。家があっても孤独な人はいます。健康であっても泣いている人はいます。

パートナーも、お金も、外見も、家も、健康も、いつかはなくなるかもしれない、はかないものです。幸せは、決して、自分の外側から来るものではありません。幸せは愛に似ていて、感じるものです。幸せはハートの奥深くに存在し、それを感じることができれば、目の前の事物がどのようなものであろうとも一切関係ありません。 私が幸せだと感じれば、誰がなんと言おうとも、 私は幸せなのです。そして、私が幸せだと思う現実が引き寄せられてきます。思いが現実を創ります。

 私はどんな現実を創りますか?

さあ、どんな現実でも、私の思うままです。私が思い描く限り、どんなことでも可能です。現実は並行して無数に存在するのですから。けれども、 私が体験できるのは、そのうちのたった一つです。一つしか選べません。何を選びますか?

私の意図が現実という名のホログラムを創って行きます。完璧に思い通りです。私に制限を与えるものがあるとしたら、それは私の信念と想像力です。思考を超えて、想像を超えて、さらにハートの奥からこの世の誰も経験したことのない素晴らしい世界を創造してみたらどうでしょうか? 

私が、私の世界を創っている創造主であり、アーキテクトなのです。私の夢やイメージをフルに活用して、忘れ去られた憧れ、潜在意識のなかに眠っている隠されたヴィジョンを思い出してください。

私にとっての最高の現実とは? 私が見たい、夢の世界とはどんなものでしょうか? つきつめていけば、答えは非常にシンプルです。

そして、 私は気づくはずです。

未来に持ち越せる物や概念は何一つないということを。さあ、要らないものをどんどん捨てて、身軽になり、足は大地に、両手は空に、ハートのリズムを聞きながら、新しい自分をいますぐ創ってみましょう。

未来でお待ちしています。

あなたである私より。


miyuki