Miyuki's Grimoire
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2006年01月05日(木) ロルフィング

マカバを回し始めたときに、回転をしっかりと安定させるために古い感情のエネルギーの解放が必要だとわかり、昨年11月からロルフィングというボディワークに通うようになりました。いままで整体や様々なボディワークには行ってはいたけれど、その時だけ効果があり、すぐにまた身体の癖で元に戻ってしまうものばかりで、身体のことはかなり置いてけぼりになっていたと思います。ロルフィングに行き始めてから、自分の身体についてものすごく深く知るようになりました。

子供の頃のけがや、身体に受けたちょっとしたショックも全部身体は憶えていて、自然に痛みやショックを避けるような不自然な動きが創られていってしまいます。その根本的な矯正から、しっかりとした土台創りを行なって、その上で新しい筋肉を創っていったり、身体のパワーそのものを高めるようなワークに入っていきます。このロルフィングの手法と効果には本当に驚いてしまいました。通い始めてからきょうで7回目のセッションでしたが、今は新しい身体を創っていっているという手応えがあり、通う前の身体と今の身体ははっきり行って別次元のように感じます。

あなたの身体は、どうですか? 生き生きとしていて、元気で、自然で無理な力みのない身体、リラックスしていて、胸が開いていて、呼吸は深くゆっくりとして、歩くのが楽しく、ぐっすり眠れる身体、理想的ですよね。私もそんな身体に憧れて、太極拳や武道をやっていましたが、運動に慣れていて、身体の代謝や自律神経などがしっかり働いていないと、身体本来のしなやかさを使った動きができず、やるとかえってどこかが痛くなったり、筋肉痛になってしまいます。特に武道はかなり無理でした(笑)。人は、脳を10%くらいしか使っていないと言いますが、身体の力や可能性はプロのスポーツ選手でもない限り、一般人はほとんど開発されていない気がします。

ロルフィングについて詳しいことはあまり知らなかったのですが、「フラワー・オブ・ライフ」によると、古い感情的な傷がまさにライトボディのマカバのなかに蓄積されることをロルフィングの創始者であるアイダ・ロルフ博士は1930年代にすでに発見していたそうです。最初はマカバのために行き始めたのですが、行ってみて、そして行くたびに、ほとんど注意を向けていなかった身体のあちこちについてたくさんの情報と気づきが得られ、いまは自分の身体が面白く、夢中になっています。

ロルファー(施術者)が、ワーク中に「尾てい骨を5ミリ左に動かしてみて」とか「背中からココ(腰)にある何かを足の裏に押し出して」とか「膝を忘れて胸から歩いてみよう」とかいろんな難しいことを言うのだけど、不思議とそれが出来るのです。ある時、ちょっと気になることがあって、心配というほどでもないけれど、調子がいいとも言えない、という微妙な日があったのですが、行くとすぐに「きょうは外に出るのをためらってる身体だねぇ」と言われました。バレバレなのです。でも、それを聞くと、瞬間的に身体が反応しました。笑いながら「いま、自分の中で何をやったのかな?」と聞かれましたが、ほとんど意識せず瞬間的に身体がやるので自分ではよくわからなかったのですが、途端にオープンになったのだそうです。これほど敏感に、身体はいろいろな空気やサインに反応してすぐに変化していきます。もちろん顔も変わります。それでいて、実際は何が起きているのかわからない、でも、それでオッケー。心と身体は本当にひとつだと思います。

生まれてからきょうまで、いろいろな経験で創られて行った自分の顔や身体、そして心。顔や身体を好きになることは、自分の心を好きになっていくひとつの道ですね。今年はもっともっと自分を好きになって、自分が好きな現実を創っていこうと思っています。



2006年01月01日(日) イニシエーション

世の中にはイニシエーションの物語がたくさん存在しています。神話や童話にはそのような物語がたくさんあって、私はなかでも人魚姫の物語が大好きなのですが、最近は、映画やドラマのなかにもそういう場面をたくさん見かけるようになりました。「電車男」は自分自身をカミングアウトして生きるイニシエーションの物語、そしてちょっと前の映画「海の上のピアニスト」も、船の上に自分の世界があることを信じ続けるイニシエーションの物語だと思います。

イニシエーションとはそれまでの自分にはアクセスできなかった世界への扉を自ら開くということで、それまで蓄積してきた様々な経験と意識の広がりが人生のある時点でその人の存在を満たしたとき、大きな意識の転換点がやってきて、ここから今までとは違う人生の流れに入っていくかどうかを宇宙に問われ、決断しなければならない経験をするのです。そしてそこを通過すると、本当に人生は激変します。イニシエーションは文字通り秘儀参入として神秘学派や秘密結社の儀式で行なわれるものとされています。それもありますが、私は、自分の経験を通じて、イニシエーションというものは日常のなかにもやってくると思っています。

わたしは、子供の頃から石やタロットなどが大好きなニューエイジの子供でしたが、本当の意味でスピリチュアルな世界を知るようになったのは、10年くらい前のことです。自分とは何者か、自分とは何なのか、宇宙とは、神とは? それらの探求、学びが自分のなかで一段落したと感じたとき、それらが単なる知識から知恵になるためには、それらすべての教えを日常のなかに見いだし、それを経験しなければ本当の理解には至らないとわかってきます。それが本当にわかったのは、昨年のことです。しかし、この世は二極性の世界なので、なにかを知るためには、そのなにかでないものを先に発見し、それを体験することからしか、なにかを本当には理解することができないようになっています。

この世のすべてには、人間の、宇宙の、または神の計り知れない意図が複雑にからみあいながらも神聖な秩序に貫かれています。犯罪も、病気も、障害も、すべては二極性を教え、愛を学ぶためのツールなのです。それがわかるまで、私も長い長い迷路のなかにいました。いくら知識をつめこんでも、人生はスムースにならないし、人間としても成長しません。けれども、経験し、失敗し、それを受け止め、学ぶことでより人生はスムースになり、成長があり、より大きな愛を手にしているものです。

たくさんの失敗をしました。後悔してもしきれないことがありました。悲しい思いに眠れなくなったことも、自分を見失って、どこかあらぬ方向へ行ってしまい、自分のパワーを他者に預けてしまったこともあります。そういう時は苦しみを感じるのですぐにわかるはずなのですが、心の声を無視して頑固につき進んで行くと、いずれ、心が塞いで罪悪感を憶えたり、だんだんと深みにはまってしまいます。何かをやろうとしている時、それが、どこまでが魂の求めるもので、どこからが自分の自由意志なのか、本当に見極める必要があります。自分の持っているすべてのセンサーを使って、それは見極めなければなりません。自由意志がある限りこの世はなんでもありです。何を選んでもいいのです。私にはわからなくなっていました。迷いの中には光がありません。けれど、そんな私を迷いの世界から救い、正気に引き戻してくれたのはハートの奥の届いた光だったのです。

愛を見失うのは、いつも表層の意識、エゴ、マインドが心を支配するときです。みな、心の底では自分の居場所がわかっています。たとえば、ハートに卵の殻のようなものがあるとします。傷ついたり、苦しいことがあったりしても、その傷や苦しみは単にハートの殻にちょっとしたヒビが入ったり、汚れがついたりしているようなものです。ハートの奥の光と輝きは永遠に変わらず、きれいな光を持っていて、それは決して汚れされることも、傷つけられることもありません。ヒビや汚れは取り去ることが出来ます。不安や恐れは殻にとどまります。だから、すべての人のハートは無垢で、無傷なのです。そして、殻を通り抜け、ハートの奥の光に到達できるのは愛だけです。表層の意識と本当の思いは分離しがちです。けれど、どんなことがあっても、何があっても変わらないハートの光を見続けていれば人は幸せになれると思いました。

人の笑顔と温かいぬくもり、青い空と雲、温かいお風呂のお湯や、おいしい食べ物、屋上から見える富士山や、星や月など、そういう目で見てみれば、世界は本当に美しく、感動できる自分がいました。宇宙は私を愛し、生かしてくれていました。もしかしたら、まっさらな自分として生きられるかもしれない。新しい自分としてやり直してみよう。そう思ったときから頭の中は真っ白になり、ただ何も考えずに存在することができるということを発見しました。私のなかで何かが再編成されました。なにもかもが変わった気がしました。けれど、太陽はまぶしく、温かい思いは残りました。すべてが変わっても、愛だけは変わりませんでした。愛は永遠というのは本当なんだな、と心から実感しました。

そして、私は探求の旅に終止符を打ち、穏やかな気持ちで、自分の心の中心に還ってきました。それから数ヶ月経って、私はどこかにいるのではなく、ここにいる、そして過去を悔やまず、未来を心配せず、ただ今この身体にくつろぎ、自分の心臓の音を聞き、空気を感じ、ただ静かに存在している自分に気づきました。それからは、今という時に生きること、瞬間瞬間、直感で好きなものをチョイスし、ふってくるものをつかみ、その場を切り開くこと、そして、過去や未来からではなく愛と内なるヴィジョンから光をもらうことを意識するようになりました。本当は過去や未来という時はなく、いまだけが真実であり、今に生きることが自分を大切にすることだとわかることができた年でした。2005年は、私にとってはまさに激動のイニシエーションの連続でした。私は死んでいません。亡霊みたいに身体をすり抜けていくこともなく、ちゃんと身体があり、心があり、そして何よりも愛する思いがあります。私は生きています!! 2006年は2012年までの最後の7年間の始まりの年。カオスを経験をした分、私は大きな大きな愛を手に入れた、だから私は間に合ったのだと自分に言っています!


miyuki