Miyuki's Grimoire
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2003年09月06日(土) All You Need Is Passion!!

  カート・コバーンの日記『JOURNAL』がとうとう日本でも出版された。1994年に他界した彼が生前書きためていたノートを、ページごとに写真に写してそのまま本にしてしまったというすごいもので、アメリカではすでに昨年秋に出版され、話題を呼んでいたらしい。わたしは書店で見かけるまでその存在を知らなかったので、とてもショックをうけた。自殺した人間のプライベートな日記が死んでから10年近くも経ってこんなふうに公になるなんてことはまったく異常なことに思えた。「ロック界の若きカリスマ」「伝説のアンチヒーロー」の日記は売れるに決まっているのだから、そのソースさえあれば出版されるのはビジネスとして当然、そんなことはわかっているけれど、やはり胸に苦い思いがわき上がってきた。

 同い年のカートが亡くなったとき、わたしは音楽メディアで仕事をしていたが、当時のアメリカ音楽界のメディアは媒体としての役割を果たしていたとは言えず、日本のメディアもそれに追従する形で存在していた。メジャーレーベルと大手マネジメント、そしてメディアはそれぞれの立場にとっての善=利益を前提にしながらも巨大音楽産業の維持のためには完全に結託しており、シーンは意図的にしかも巧妙にコントロールされていた。たとえばある大物バンドの新作が出て、それが駄作だったとする。しかし絶対にそうは書くことは許されない。シーン全体を盛り上げておくため、自主的に、または遠回しの圧力によって、メディアは一生懸命にその作品を持ち上げるのである。

 また、ひとつ人気のあるバンドをスターに仕立て上げると次に同じようなタイプのバンドをA&Rが山盛りに見つけてきて、そこに流行というラベルを貼って、シーンに丸投げするという構図も出来上がっていた。80年代後半から90年代にかけては、そのきらびやかでピカピカに磨かれた人工大理石のようなメジャー街道には多くのロック・バンドが存在し、その時代があったからこそアメリカでロック・ミュージックが市民権を得たとも言えるのだが、反面、新しい音楽の可能性やエキサイトメントは封鎖され、音楽シーンからは完全に情熱が失われていった。

 そんななかでメジャーの意図とはまったく関係のないインディから登場し、その個性と才能で冷め切った音楽界に火を放ったのがカート・コバーン率いるNIRVANAだった。ラウドで荒々しく、乱暴な音だったが、そこには正直さとパッションがあり、それは久しく聴いたことのなかった本物の解放のエネルギーを持つロックだった。彼らはムーヴメントそのものであり、またあまりにもショッキングだったため、シーン全体が大きく塗り替えられてゆくことになる。しかし、ほどなくして彼らの所属していたインディ・レーベルはメジャーに吸い込まれ、彼らは嵐の上の小舟のごとく音楽ビジネスのなかで迷い、自分たちの置かれた状況について理解できないまま波につれさられてゆく。

 「起きたら俺の日記を読んでほしい。俺の考えに目を通して、俺という人間をわかってほしい」そんな言葉から始まるカートの日記は、彼の内的な思いでびっしりと埋め尽くされている。自分自身を嫌い、どこにも居場所が発見できない自分、なにをしてもこころからの喜びがなく、冷めている自分、誰からも理解されないという出口のない苦しみ、そして激しい怒り。音楽に対する情熱を次第に失なっていき、そんな自分が世界でスター扱いされていること、音楽や人生にたいしてなんの情熱も抱けなくなった自分が大勢の前で演奏することに対し、言いしれぬ恥と罪悪感を感じていたことなど。

「俺は決して自分を見失ってなどいない!」そう書きながら、彼は完璧に自分を見失っていた。若く、才能に溢れ、音楽を通して世界に正直な自分を表現していた彼のパッションは、もうどこにもなかった。あれほどの才能に恵まれ、偉大な創造の過程にいたにもかかわらず、彼は自分がどうやって生きていくのか、自分はどうありたいのかということが見つけられずに、精神のバランスを崩してしまう。そして27歳の若さで自らの命を絶つ。
 
 「罪悪感」は魂を曇らせる。エネルギーの流れを止め、なにも新しいことをできなくさせる。そしてその人の人生の創造を完全に止めてしまう。この状態に長く留まることは魂にとっての緊急事態であり、それは人から確実に情熱を奪っていく。情熱=パッションは、人間が思いを行動に移すときの「意図」の原動力になる。情熱があるがゆえに、わたしたちは意図を持つことが出来、様々な経験をすることができる。意図のないところには経験がない。その状態は、たとえ肉体は生きていたとしても、精神は死んでしまっていることを意味する。

 罪悪感を抱くことは無気力と無感動というエネルギーを呼び込み、他者から存在価値を認められない限り人は癒されないという思いを自分だけでなく人々の間にも伝播させてゆく。わたしたちは個人として生きながら、同時にひとつの集合意識を共有し、全体の一部としても生きているため、たったひとりの罪悪感も確実に全体に影響を与えていく。他者から認められることにこだわったり他者と自分を比較している限り、エネルギーは永遠に内側に向かい、その信念が強ければ強いほど、その信念のとおり、他者から認められないダメな自分という経験が訪れる。つまり、エネルギーが逆流するのである。

 情熱、それはこころの深いところで感じていることを抑えたり、我慢したり、無理に人に合わせたりせず、好きなことをやってみることで根付いていくこころの炎なのだ。罪悪感がふと沸いてくることがあっても、本当にやりたいことをやってみたり正直な思いを表現することで喜びを感じ、こころに炎をともすことで罪悪感を帳消しにすることができる。自分の思いを信じて、自分自身を信頼して、自分への愛を持って、考え、話し、行動することで、自分のなかに、人を信じ、人を信頼し、人を愛する力を養っていくことができるとわたしは思っている。なぜなら、わたしたちはひとつの存在だから。

 わたしたち人間は、宇宙のなかでも奇跡的に恵まれた地球という星に生き、頭脳と肉体を通して経験するということが可能な希有な生命体だ。この世界であらゆる創造活動ができるように、あらゆる可能性を持って生まれた神のうつし身なのだ。神が望まれたように、人はこの世界のなかで生きるべきであり、そして生きている限り、創造するべきなのだ。そうでなければ、わたしたちは進化の流れにいないことになり、一度きりのこの人生を無駄にしてしまう。あるがまま、誰に気に入られるためでもなく、自分自身がこころからの情熱をもとに生きていくことで、わたしたちは全体の善のために役に立っているのであり、新しい世界、より良い社会を築くための基盤を創っているのである。

 正直でいることはときにおそろしい。ためらうことも多々ある。けれども、そんなときは自分のちっぽけな価値観や社会の既成概念が世界を変えていくのにどれほどの力があるのだろうと自問したい。カート・コバーンの死が、彼の日記によって人々の胸に思い出されたことには意味がある。彼の残した言葉を追いながら、情熱の失われた時代に生きるわたしたちへの時を超えたメッセージを感じ、あるがままの自分でいることをこころに刻んだ。


miyuki