Miyuki's Grimoire
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2003年08月22日(金) 光の十字架

先日、イギリス人の知り合いからわたしが十字架のネックレスをつけていることについて聞かれた。
「いったい、なんで? クリスチャンじゃないんでしょう?」彼の言葉にはやや非難めいたニュアンスがあった。彼は敬虔なカトリックの家庭で育った典型的なイングランド人で、小さい頃から家の居間にかけられていた「十字架のイエス・キリスト」の絵を見て育った。その絵のなかの、血を流してうなだれるイエスを見てはおそろしい思いにかられ、だんだん絵を見るのを避けるようになり、結局、両親のようなカトリック教徒にはならなかったのだという。多くのクリスチャンにとって十字架の意味するところというのは真っ先に「サクリファイス(犠牲)」であって、イエスの死によって人類の罪があがなわれたと堅く信じられているが、わたしにとって十字架はまったく違う意味がある。

 「罪」という言葉が出てくると話がややこしくなる。だいたい、イエス・キリストとキリスト教はまったく関係ない。いま「キリスト教」と呼ばれているものは厳密に言うと「キリスト教義教」であり、イエスの行なったことや教えたこととはかけはなれているというのがスピリチュアルな観点から見た常識だ。イエスの死後、弟子たちが書き残した記録が「福音書」となり、100年くらいの間に教会という組織が出来た。はじめはイエスの行なった数々のこと、そして教えは、当時の世界観からしたら情報としてたいへんリアルで、人々に大きな衝撃を与えたに違いない。しかし、組織を通じて行なわれている以上、そこに序列が生まれるのが自然の成り行きで、教会はその序列の権威を保つために記録を都合の良いように解釈して啓蒙した。そして、必要のないところは削除した。キリスト教会にとって十字架上のイエスは、「罪」の概念の象徴になり、人々をコントロールするための心理的道具となってしまう。神に対するどんなささいな間違いも「罪」となり、「罪」を犯した人間は「地獄」に行くとされる。そして「地獄」に行きたくなければ「神の赦し」が必要で、そのために「告解」というシステムが生まれた。これでは、人間が救われるためには神に自分が罪深い人間であると宣言し、その罪人である自分が「赦される」には教会で告白する以外に道がないことになる。

我々の神は人間に罰を与えるのだろうか? わたしはここに「神への畏れ」という大きな間違いが生じているように思えてならない。

そもそもイエスが説いてきたことは「愛」であって「おそれ」ではなかったはずだ。彼は人生を神と人類への奉仕に捧げた人であり、人々に愛することの尊さを教え、分かち合うことの大切さを教えてきた。どんなときにも人生の学びがあり、経験による霊的成長があり、絶対的愛と絶対的受容、そして絶対的なコミットメント(約束したことは必ず実行すること)が、人間同士の関係性の完全なモデルであることを全存在をかけて訴え続けたのである。


イエスもわたしたちと同じ人間だったから、ゲッセマネの園で「できることならこの重みを取り除いてください」と祈ったし、十字架を背負いながらゴルゴダの丘を歩くとき、何度も何度も倒れた。そして、鑓を身体に刺し貫かれたとき、痛みに苦しんだ。しかし、彼はそのすべてを自分の運命として受け入れていた。あらゆる苦痛を超えて彼が成し遂げたことは霊的な仕事である。スピリチュアルなマスターとして、光のマスターとして、イエスがしたことは、わたしたち人間は単なる肉体ではなく、肉体というかりそめの宿に住むスピリットであること、魂は永遠であり、三次元とは幻想という人類共有のヴェールに覆われた世界であるということ、そして人間は意志と選択によってそのヴェールを越えていくことができるということを、磔刑になることでこの惑星の集合意識に書き込み、そしてわたしたちに新しい意識の種を蒔いたのだった。それは、本当に偉大な愛だった。



「この者たちを憎んではいけない。この者たちは、自分がなにをしているのか知らないのだ」・・・十字架上で磔刑になるとき、イエスは弟子たちにそう言い残した。

そのイエスの蒔いた種はどうなったか? それは2000年たったいま人々の意識にようやく芽吹き始めているとわたしは感じている。わたしたちは、本質的にひとつの存在である。同じ源から生まれ、そしてひとつの集合意識を共有している。宗教の多様性とは、様々な国や文化の人々が世界をどう見ているかという違いであって、本質的なものの違いではない。神とは、無限なるもの、根源、始まりであり終わりであるところの存在であり、それは、あらゆる名前で呼ばれてはいるが、本質的にはみなひとつの、同じもののことを言っているだけなのだ。そのことに気づくために、古代からこの地球にはいくつもの、あらゆるレベルの戦争があり、そしていくつもの文明や、生命種が地上から消えた。いまだに戦争は起きているが、世界の認識としてひとつの国や種が地上から消えていくのをけっして黙って許しはしないだろう。2000年たって、わたしたちはようやく光の道を選択する智恵も身につけたのかもしれない。わたしたちは、地球ととともに歩む生命の輪であり、地球という惑星の光のサークルそのものなのだ。その光が宇宙にひろがり、それが宇宙の進化を助けていく。

人々の世界を見る見方が変われば、やがて宗教というものはなくなり、それは単純に、ひとつの考え方になっていくだろう。わたしのいのちも、あなたのいのちも、愛から離れて存在することはできない。わたしたちは時の涙を越えてはるかかなたまで歩いてきた光の子供たちであり、いま、やっと真実を見つけようとしている。愛こそがすべての始まりであり、すべてのおわりであり、そして始まりとおわりのない永遠のかたちであることを思い出そうとしているのだ。

わたしにとって、十字架とは愛そのものであり、愛を現実の世界に現象化させるパワーのツールなのである。そのことをイギリス人の知り合いに一生懸命説明しようと試みたが、あっさりと「シリアスすぎるヨ」と笑われてしまった。そうかもしれない。けれども、そう思われても別に構わない。まもなく、世界は変革してゆく。たとえ、最後のときまで自分が歩いている道の全体像が見えなかったとしても、わたしは光の道、より光の可能性がある道を歩いていきたい。愛という名のもとに。


miyuki