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不動の紫。 | 2008年06月24日(火)
音を立てぬよう静かに入室したクリスは、寝台の上ですやすや寝入っている親友を心配げに一瞥し、その傍から離れぬ男を睨みつけた。
並の男であれば即座に席を立ってその場を去るような迫力があったが、どこか気配がぼんやりとしている印象を受ける黒髪の青年の注意はひたすらひとりに向けられており、彼女の視線をさらりと受け流す。
憤然としながら椅子を引っ張り出し、彼の向かい側に据えたクリスは、息に音を乗せて静かに問いかける。
「シアシェは」
「見ての通り眠っている」
滅多なことでは揺らがない静かな紫の双眸に、珍しくクリスでも分かるほどの感情が湛えられていた。
彼らの心配を知ることもなくぐっすりと眠りを貪っている親友の額をつつき、クリスは嘆息する。
「まったく困ったものね」
彼女の独り言にアスは応えない。ただ無言で彼女の目覚めを待っている。
まぁ分かりやすいこと、とクリスは胸中で溜息をついた。一口に魔物といってもその形態は様々で、精神のありようも種族によって全く異なるということは認識していた彼女だが、自らの僕にはこれだけの一途さはあるまいと思うと、案外薄情な竜への苛立ちまで募ってくる。
それともこれは種族の性質というより彼個人の性格に因るものかしらとつまらないことに思考を巡らせたところで我に返り、現在の一方的にクリスが気まずい状況になっている大元の原因であるシアシェを恨みがましく見つめた。
「あとどのくらいで目を覚ますと思う?」
「起こそうと思えばいつでも。ただあと半日は休息を取らせるべきだろう」
「起きたあとだるそうね、それは」
既に丸一日は眠っているだろう親友が起きた後こぼすだろう愚痴を思い、クリスは小さく笑みを刷く。
実際シアシェの心身にかかった負荷は相当のものだろう。クリスどころかおそらくはアルガでさえ見たこともないだろう複雑な魔術の制御を補助の杖なしで行ったのだから。あれを暴走させずに上手く収束させるなどおそらくクリスには無理だ。
自分と彼女は持っている能力そのものが違うということは分かっており、自分にしか出来ないことがあるように彼女にしか出来ないことはあるのだと知ってはいるが、何事にも負けず嫌いなクリスはどこか悔しさに似たものを感じていた。制御に長けるシアシェですら寝込むほどの負荷がかかった魔術を行ってみたいとは思わないが、竜王の歌姫として完成されるにはいずれは辿り着かねばならない境地だろう。
しばらく心配げに親友を見下ろしていたクリスだが、うん、とひとつ頷いて立ち上がった。
「そろそろ私は行くわ。目が覚めたら教えてちょうだい。いいこと、すぐによ」
「……」
ふいと視線をそらしたアスに、これは自分で様子を見に来なくては駄目だろうということを悟り、彼女は大きく溜息をついた。
意趣返しというつもりでもないが悪戯心が不意にわきあがり、シアシェの前髪をかきあげて素早くキスをひとつ落とす。彼に独り占めさせてなるものか。
アスの顔があからさまに歪む。にやりと令嬢にあるまじきはしたない笑みを浮かべ、クリスはそそくさと退散した。

閉まっていくドアを見つめ、どこか憮然とした顔つきをしていたアスはシアシェに視線を戻してしばらく考え込んだ。
その表情のまま乱されていた前髪を元の通り整えてやり、閉ざされている瞼にそっと口付ける。唇はそのまま頬に触れ首元に触れ、腕を取って掌と爪の先にまで流れていく。
「……あす、くすぐったい」
むずかるように体をよじり、目を覚ましたシアシェが眉根を寄せて彼を見上げた。
一日見ていなかっただけでひどく懐かしい気分になる藍色の瞳を瞬きも惜しんでじっと見つめる。恋しげな熱をはらむ紫の瞳とは対照的に咎めるような彼女の視線に、彼は軽く肩を竦めた。
「……」
そうして落とされた謝罪代わりの頬への口付けに、彼女は彼の額をびしと弾いて抗議した。どうやらこれでは許してくれないらしい。
「もう少し寝ていると良い」
「ほっといてくれれば寝てたかたら」
もともと寝起きが悪いこともあるのだろうが、すっかり彼女の機嫌を損ねたらしい。元々感情の振幅が少ない娘だが、それだけに傍目に分かるほどの不機嫌はとりなすのが難しい。
むくれる彼女の手に自らの指を絡め、空いた手で宥めるように髪を撫でた。
「……」
ぽすぽすと枕を叩き、シアシェが何事かを彼に訴える。アスは首を傾げたがすぐにそれを了承し、珍しく笑みを見せた。次の瞬間には彼を大きく立ち上がった影が飲み込み、猫にしては大きく虎にしては小さな体躯の猫科の動物が中空から突然現れしなやかに着地する。
漆黒のそれはひょいと寝台に飛び乗ると首をもたげたシアシェの下にするりと入り込み、彼女はその腹に頭を預けて目を閉じた。
シアシェがもっと幼い頃にはよくこのように枕になってやったが久々だな、と猫の姿を取ったアスは昔を懐かしみ、これで彼女の機嫌が良くなるならば安いものだと鷹揚な彼らしい判断をくだしてぱたりとひとつ満足げに尾を揺らした。


******

シアシェは特殊能力はないけどそこそこ器用という設定。
そもそものコンセプトが特別な力のない子、普通なら脇役に回されるタイプ、というアレです。練ってくうちに余計な設定が多少つきましたが。
脇を固めるクリスとニーナ(アニティア)は一芸特化。そしてこの子たちのがよほど王道の主役っぽいキャラ付けになっております。がんばれシアシェ油断してると出番食われるぞ。

ぱっと思いついた文句からアスなんですがタイトルからえらい外れた感じです。
いちゃつきシーンを書きなれようと思ってがんばってみましたがやっぱりむずむずする。いたたまれない。読む分にはまったく平気ですが書くとなると落ち着かない。
たくらみごと。 | 2008年06月20日(金)
控えめなノックの音が、ぼんやりと物思いに沈んでいた彼女の意識を引き上げた。
誰何の声に応えたのは従妹のもので、リズはすぐにドアを開けて彼女を部屋に招き入れる。
「ねえ、リズ。あのね、ちょっといいかしら」
そう言って、どこか怯えたように様子を伺ってくる従妹のお願いに、暇を持て余していた彼女は承諾の笑みを零した。
ぱっと顔を輝かせた彼女が支度をしてくると部屋を飛び出す。外出用の上着と靴を取り出して、あれではすぐに見つかってしまうでしょうにとリズは微笑んだ。従者の目を盗んで出かけたいという割には用心が足りなさ過ぎるが、外見は妙齢の愛らしい娘であってもその中身は十を過ぎたばかりの子供のままであるのだからしょうがない。
規律にうるさいように見えて存外悪戯好きのリズは、従妹のベティとよくつるんで家の者にあれこれと仕掛けたものだ。成長してからはベティをたしなめてばかりだったが、久々の企みごとに心が高ぶる。
上着を羽織る前に廊下に出て、最大の難関である従者の姿を探す。ほどなく中庭に彼の姿を見つけると、リズは首を傾けて少し考え込んだ。

「ヴィクター」
「なんでしょうか、リズ様」
どうやら植物に水を遣っていたらしい彼は、手を休めて冷静な表情で振り返る。
「エリーゼを見なかったかしら」
ここでベティのことを聞いて、意識が彼女のことに向かってしまっては危険だ。リズは同じく屋敷に滞在しているはとこの名前を出した。
彼は思案するように幾度か瞬き、いいえと答える。
「何かご用事でもございましたか」
「いいえ、普段あまり会う機会もないし話したことも少ないし、せっかくだからお茶でも一緒にどうかしらと思っただけよ。あなたはしばらくここにいるの?」
「この水遣りを終えたら、町まで少々買いものに出るつもりでいますが」
何か頼みごとでもあるのかと言外に問いかける彼に、リズは首を横に振る。
「エリーゼに会いそうだったら言付けを頼もうかと思ったのだけど、外に出るのじゃ会わないわね。あなたが不在の間、勝手にお茶を入れていても良いかしら?」
「どうぞご自由に。茶葉の場所などはご案内致しますか?」
「知っているわ」
軽く笑んでリズはその場を離れる。屋敷を抜け出るならば彼が出かけた後にすべきだろう。ベティがこっそり出かけようと言い出したのも、ヴィクターが家を離れることを知っていたからに違いない。

そう考えたリズはそのまま自室には戻らず、ベティのもとを訪れる。あの男が彼女に挨拶もなしに屋敷を離れるはずもなく、であれば嬉々としてお忍びの支度をしているベティのもとを訪れて計画がおじゃんになる可能性はかなり高い。
彼女の部屋を訪れると、ベティは以外にも平然としてチェスの駒をもてあそんでいた。
「支度は良いの? ベティ」
「だって、ヴィクターが出かけてからじゃなくちゃ見つかっちゃうわ。すごく勘が良いのよ、ヴィクター」
「あなた、彼が出かけることを知っていたのね?」
紅茶色の瞳が悪戯っぽく光る。言葉のない答えに、リズは自分の推測が当たっていたことを確信して遠慮なく笑い声を上げた。従妹の心は幼いままだが、その性格は大して変わっていないようだった。
「どうやってごまかそうかしら」
「私のドレスを見せてあげる。着せ替えっこしましょうよ。そうしたら上着が出ていても不思議じゃないでしょう?」
利発で無邪気で悪戯好きの、可愛い従妹の頬にリズは軽い口付けを贈る。
リズはベティに似合いそうなドレスを何着か見繕って従妹の部屋に戻る。自分が着ていく上着をドレスの山の下の方に押し込めると、黒い喪服ばかりの従妹に何色が似合うかとかなり本気で吟味し始めた。
「こっちの色はどうかしら。深緑のドレス」
「リズには似合うけど、私じゃ目の色が違うから無理だわ」
「ううん、結構難しいわね。私たちの髪の色はかなり派手だから、淡い色じゃ負けてしまうし」
ああでもないこうでもないと談笑する彼女たちの元へ、外出の旨を伝えにヴィクターが訪れる。

「……。何をなさっておいでです?」
「着せ替えっこよ」
珍しく驚きを見せるヴィクターに、ベティは満面の笑みで答えた。ベッドの上には出しっぱなしにしたドレスが何着も折り重なり、何着もの靴やリボンやパニエが絨毯の上に転がって、部屋はかなりの惨状だ。
「……服を出すのは結構ですが、出したものは片付けてくださいね。私はこれからしばらく出かけてきますから」
「どこ行くの?」
「町ですよ。幾つか日用品の在庫が切れかけているものですから、その前に補充を」
普段のベティであれば、屋敷に取り残されるのを不安がって引き止めるような言葉を口にしているところだ。けれど今はリズがおり、しかも夢中で遊んでいる最中。いってらっしゃいとあっさり彼を見送ったベティに、ヴィクターが違和感を覚えることはないだろう。
ぱたんと扉が閉じられ、娘たちはあれやこれやとお洒落に熱中しているかのようにきゃあきゃあと声を上げる。十の少女であろうと二十を越えた娘であろうと、そのあたりは変わりはしない。
「……行ったかしら」
さりげなく窓の外をのぞくと、ヴィクターが馬車を駆って門を出て行く様子が見えた。
「……行ったみたいね」
既にふたりとも上着を羽織り、靴も外出用のものに換えている。
笑みを見交わし、ふたりは行動を開始した。

******

存外ベティはおしゃまさん。
リズと従妹とその従者。 | 2008年06月17日(火)
リズはふわふわとした笑顔を浮かべるこの従妹が少々苦手だった。
けして嫌いなわけではない。卑屈な態度の割に傲慢な思い上がりを抱いているはとこに比べれば、素直で無邪気な彼女はずっと好ましい存在だ。
「リズ、リズ。あやとりをしましょう」
はっとするような緋色の巻き髪を揺らして従妹は笑う。
「ベティ。あなたもう十九でしょう。お祖父さまも亡くなられた今、後を継ぐのはあなたなんだから、少しはしっかりしないと」
「どうして?」
「いい加減現実を見なさい。あなたは十の小娘じゃなくて、十九の女なのよ」
「ねえ、あやとりをしましょうよ。新しいのを教えてもらったのよ、すごく難しかったの、頑張って覚えたんだから」
ベティはリズの諫言を耳にも入れず、叱ろうとする彼女の腕を取って歩き出す。
もうすぐ二十になろうかという従妹は、十年近く前に凄惨な事件に遭遇して以来精神に支障をきたしていた。現実を受け入れられない心を夢に遊ばせ、心の時間を止めたまま、ベティは夢と現の狭間に佇んでいる。
その幼い精神と美しく成熟した肉体の不均衡がもたらす危うく抗いがたい魅力に、彼女の姉代わりの存在であるリズは不安を感じていた。
「ベティ。辛いのは分かるわ。でも、もう十年経つわ。あなたはこのままじゃいけないのよ」
「何か辛いの? リズ、嫌なことがあったの?」
くるりと振り返り、ベティはじっとリズを見つめる。心配そうに揺れる瞳に、叶わないわとばかりに彼女は溜息を付いた。わずかばかり身長の低い彼女の髪をそっと撫でる。
「私は別に辛くないわ。あなたのことを話しているのよ」
「わたし? わたしは辛くないわ。お父さまたちがずっとお出かけしているのは寂しいけれど、でも、ヴィクターがいるもの」
髪に触れるリズの手を取り、優しく握り返してベティが頷く。
リズはその名前を聞いて密やかに眉をひそめた。ベティの夢の番人、彼女が壊れてしまってからずっと、傍に付いて離れない忠実な使用人であるヴィクターを、しかしリズはどうにも信用する気になれないのだった。彼がベティを見る目はとても優しいし、彼はベティのためによく心を砕いている。けれどベティからそらされることのない瞳に時折昏いものが過ぎるのをリズは知っていた。あの男は危険だ。

「お嬢さま」
突然背後から掛けられた低い声に、リズはびくりと肩を揺らす。彼女と向かい合っていたベティがその肩越しに声の主を見つけて破顔した。
「あら、ヴィクター。どうしたの?」
「もうすぐお茶の時間ですがいかがなさいますか」
「ええ、もうそんな時間なの? じゃあ、あやとりの前にお茶にしましょう。ね、いいでしょう、リズ?」
「え、あ、ええ、いいわよ」
歩み寄ってきたヴィクターがごく自然な動作でリズの手からベティの指を抜き取り、彼女を階下に導いていく。ただの従僕には許されない親密すぎる態度を取る彼とされるがままの彼女をリズは呆然と見送りかけ、慌ててふたりの後を追った。

******

最近文章が上手く整理できてないなーと感じます。ちょっと書かないでいるとただでさえ高くない能力ががくんと下がる。
さすがにミステリもどきにはプロット切らないといけないだろうと思って頑張っているのですがどうも誰の視点によって話を進めるかが定まらない。
彼と娘と白い猫。 | 2008年06月15日(日)
「アーシェ」
呼びかけられ、銀の髪をした小さな娘が振り返る。
葡萄酒によく似た深紅の髪をした彼とは似ても似つかない子供だった。実際血は繋がっていないのだから仕方ない。
とある事情で引き取った子供で、彼としては実の娘と同じくらいに可愛がっているつもりなのだが彼女は一向に彼に懐こうとはしなかった。
呼べば振り返るし、大人しく抱き上げらもするが、自分から彼に近寄ってはこない。よく絵本を抱えた姿を見るが、読んでとせがまれたことは一度もなかった。彼女の世話を任せている少年にはよく読ませているくせに、と彼は密かに口を尖らせる。
今も大きな藍色の瞳でじっと彼を見上げるが、そこにあるのは静かな凪で、見透かすようなその双眸に彼は思わず伸ばしかけた手を引っ込めた。彼の娘とは同じ年であるはずなのに、無邪気で幼い彼女とは違い、随分と大人びた醒めた眼差しをしている。
「……どこへ行く? そっちには何もないぞ」
「あるよ。みえないの?」
彼女は不思議そうに首を傾げて彼を見上げた。笑うことも泣くことも少なく、感情表現に乏しい娘が珍しく表情を見せ、彼は思わず微笑んだ。
「お父さんには見えないんだ、残念ながら。何があるのか教えてくれるか?」
「アニーのおとうさんにはみえないの?」
さりげなく彼がアーシェの父親であると印象づけようとしたがあっさりと否定され、彼は少し落ち込んだ。血の繋がりはなくとも彼女の父親でありたいと思っているのだが、彼自身は意識していない隠れた真意を彼女は見抜いているようだった。その鋭さは一体誰の血を継いだものか。
苦笑しながら、彼は視線の高さを彼女に合わせる。一冊の絵本を彼女は抱いていた。
「何があるんだ?」
「……みえないひとには、いっちゃいけないの」
距離を詰めようとすると、するりと彼女はそこから離れた。ごめんなさい、と呟くと、彼女は暗がりに向かって駆け出す。
慌てて追いかけようとすると視界を白いものが横切り、思わず立ち止まる。
彼の歩みを留めたのは一匹の白い猫だった。艶やかな毛並みは思わず撫でたくなるように美しく、細身の体はしなやかな動きで見るものの心を惹きつけ、黄金の双眸は爛々と輝いて彼を見据える。
敵意に満ちたその瞳に、この猫が彼女の秘密を握っているのだろうと彼は直観した。猫一匹捕まえるのはたやすいが、白猫については彼には苦い思い出がある。それを思い出させるこの猫には、できれば関わりたくはなかった。
「……あの娘に危険はないんだな?」
賢しげな顔をした猫が、呆れたように彼を見遣る。
「これでもアーシェの父親のつもりなんだ、そんな目で見るなよ」
猫は厳しい視線を緩めない。当の本人にも認められていないくせに何を言うかと言いたげに一声鳴くと、猫は悠然と暗がりに消えていく。
「……捻り潰してやろうかあの猫」
独り言に応えるように、にゃあ、とどこからともなく泣き声が聞こえてくる。彼は忌々しげに舌打ちをすると、未練がましく娘と猫が消えていった暗闇を見つめ、静かに踵を返した。

***

床に座り込んで彼女は絵本を開いていた。
毛足の長い赤い絨毯は柔らかく暖かい。どこからともなくやってきた白猫がするりと彼女の腕の中に入り込む。
「どこかいってたの?」
猫は応えない。彼女は気にした様子もなく途中まで読んでいた絵本をめくり、初めから読み上げ始めた。
「ええと、ひがしのくにのちいさなむらに、とてもかしこいおんなのこが、おとうさんとふたりでくらしていました。ふたりはとてもしあわせでしたが、おんなのこにはおかあさんがいる、べき、だ、とかんがえたおとうさんは、きれいなおんなのひとと、けっこん、しました」
ところどころ詰まりながらも、彼女は音読を続ける。
猫は神妙な顔つきでそれを聞き、ときどきぺちりと絵本を前足で叩いて彼女の間違いを知らせる。普通の猫とは思えない賢さに、しかし彼女は不思議がるわけでもなく、その指摘を当然とばかりに受け入れ、物語を読みすすめる。
「おんなのこは、まほう、のとけたおうじさまとけっこんして、しあわせにくらしました。めでたしめでたし」
全部読めたと嬉しそうに言う彼女に、猫は鷹揚に頷いてその頬を舐める。くすぐったそうにきゃあきゃあと笑って猫に頬を寄せる彼女の様子を義理の父が見たらあまりの珍しさに目を剥いただろう。
ぎゅうと猫を抱きしめていた彼女は、笑顔を突然曇らせた。白猫が訝しげに一声鳴くと、彼女はきゅっと唇を結ぶ。
「アニーのおとうさんは、わたしのおとうさんになりたいのかな」
「にゃあ」
「……アニーのおとうさんはきらいじゃないけど、でも、わたしのおとうさんになっちゃったら、わたしのおとうさんはどうなるのかな」
猫は彼女の腕からすり抜けると、絨毯に寝転がって腹を見せた。
撫でろという意味に解釈して彼女は猫を撫でる。柔らかな毛並みは触れていると心地良く、沈んだ彼女の心を癒した。
「わたしのおとうさん、どこにいるんだろ」
猫の隣に寝そべって、アーシェは囁く。
「あなたがわたしのおとうさんだったらいいのに」
賢い猫は何も言わずに、ただその黄金の目を細め、小さな手に撫でられるままだった。

******

新米お父さん猫に敗北するの巻。お父さん猫とは相性が悪い。猫は子供に甘い。
よびごえ。 | 2008年06月12日(木)
闇の中に声が降りた。
淡々としたその呼び声は聞き留めるにはあまりに凡庸で、暗がりに潜むほとんどのものは風の音と同様のものとして聞き流していた。
けれど、闇の最も深いところでうずくまっていた彼は顔を上げた。
じっと耳を澄まし、瞳を果ての見えない天に向け、ただ声を聞く。
途切れることはないけれど、彼らの魂を魅了するには輝きが足りないその声に、しかし彼は耳を傾け続ける。それは確かに誰かを呼んでいた。
いやがおうにも意識を惹きつけて離さない眩さも、思わず目を眇め手を伸ばしたくなるような温かさも、その声の主にはない。
あるのはただ静けさだけだ。諦念に包まれた、穏やかに死に逝く声が、来るはずもないものを呼んでいる。

その声に応えるのにふさわしい者は誰か。
彼はすっとその身を起こすと、深淵にまでは届かぬ小さな光に向かって身を躍らせた。

*

彼女は呆然として目前の光景を見つめていた。
そこにあるのはひとのかたちに凝った闇だ。彼女が呼ぼうとしたものは、これほど強大なものではなかったはずだった。ささやかな、何の力もなくていい、ただことばを交わせる程度の相手を呼ぼうとしてはずだった。
訝しげな瞳に、ひとのかたちを取った闇の塊は呆れたと言わんばかりに肩を竦める。
「お前の声は遠くまで響くが穏やかな風だ。聞き流されてそれで終わる」
「それなら、どうして」
座り込んでじっと彼を見上げる娘に、闇は穏やかに微笑んだ。
伸ばした手でそっとその髪を梳き、揺れる双眸を見据えて彼はひとつの約束を囁く。

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だめだねむい。
律その2。 | 2008年06月10日(火)
灰色の髪の男は、眠たげな瞳で遠くを見つめ、隣に座る娘にとつとつと語りかける。

「お前の世界では、世界というものがどういう認識をされているのかは知らないが……この世界では、世界は『律』という小さな法則の集合体だという認識がある」
「律?」
首を傾げた彼女に、彼はこくりと頷きを返す。
「お前の知識と同じかどうかは分からないが、単純なところでは水を火にかければ沸騰するとか、常温で生肉を放っておくと腐るとか、皆が当たり前に理解していることから律を研究しているものでなければ分からないような小難しいもの、まだ発見されていないものまで、『これをこうしたら、こうなる』と確定している規則のことだ」
「私の世界でもその律は通用するわよ」
とろりと瞼を下げていた男は、背にしている大木に背中を預け、ずるずると姿勢を崩す。
「そうか。……それで、この世界では律を操作する技術が発展している。律を捻じ曲げ、或いは繋げることで自分の望みの結果を引き出す技術だ」
「それが印術ってやつ?」
ちょいちょいと手招きをされ、彼女は最早木の根を枕代わりに寝転がっている彼の胸に頭を預けた。そうして丁度、彼と直角になるように芝生に横たわる。
「そう。律はこのように言葉で説明することはできるが、世界に溢れる律に影響を与えることはできない。それぞれ意味をもった図形を複雑に組み合わせ、特殊な道具を用いて記すことで初めて律を操作することが出来る。無限に近い図形の組み合わせのことを印と呼び、それを扱う術ということで印術と呼んでいる」
さらさらと零れる美しい木漏れ日に目を細め、彼は穏やかに説明を続ける。
「了解したわ。それって図形覚えれば私でも使える?」
「……覚えることができれば……おそらくは、使えるだろう。ただこの技術は秘匿されていて、誰もが知っているものではない。無駄なく美しく図形を組み合わせる才能も必要とされるから、誰もが使えるようになることはないだろう」
「ふうん。そういう術があるって知ってるのは誰なの?」
「印術を管理しているのは神殿と呼ばれる神を奉じる組織だ。ひとびとはよく神殿に参拝にも行くし、印術で作られたお守りを買うことも多いから、そういう、よく分からないが不思議な力がある、ということは理解しているだろう。それを印術と呼び、なおかつ仕組みを理解して行使しているのは神殿と一部の貴族、あるいは他の高度な知能を持つ生きものといったところだろうな」
「ああ、そっか。そういう便利な知識って一部のお金持ちとか偉いひとのモノなのよね、大抵」
くすくすと声を零す彼女に彼も微笑み、ゆっくりと瞬きを繰り返す双眸をついに閉じた。
「一概に便利と呼んでいいのかは疑問だがな。ともあれこの世界は律の塊で、その中で生きる生きものは律を弄って生活している」
「私の世界も、印術とは別の技術だけど、世界を弄繰り回して自分たちの生活を楽にしてるよ。どこも同じね」
「どこも同じだな。……人間たちで気付いている者はほんの僅かだが、当然、乱された律は元の正しいカタチに戻ろうとして歪みが生まれる。その歪みが凝って誕生したのが俺のような生きものだ。分かったか?」
彼女は上半身を起こし、彼の隣に並ぶように体の位置を変える。
「だとすると、あなたの仕事は人間に好き勝手ぐちゃぐちゃにされた律を直すってこと?」
頭を引き寄せられ、ひどく声が近くなった。
「……仕事、というか、俺の存在そのものが調律の役割を果たす、というか……表現しにくいな。俺が律を正すことに間違いはないが」
「実はあなた、いいひと?」
問いかけに耳元で吐息混じりに微笑まれ、彼女は思わず頬を赤らめて首を竦める。目を閉じていた彼はそれに気付かず、穏やかな声で続けた。
「ひとではないし、人間にとってはむしろ邪魔な存在であろうがな。だが俺のような存在がいなければ律の歪みはますます歪み、いずれ世界は壊れるだろう」

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世界設定説明編。どこかのだれかさんたちと同じ世界のお話。しかし存外らぶらぶだな君たち。
あかあおみどり。 | 2008年06月04日(水)
アニティアの瞳は赤い。
けれどもそれは炎のような猛々しさとも血に似た鮮烈で戦慄するような強さとも違う、芳醇な香りを放つ葡萄酒のように美しく深みをもった、見たものの意識を惹きつけ酔わせるような色だ。
無言でじっと瞳を覗き込まれ、さすがに居心地の悪さを感じたのか、アニティアは困ったように眉を下げた。
妖艶さを湛える色に宿る光はひどく稚く、苦笑して視線をそらす。

シアシェの瞳は蒼い。
ただそれは遠く突き抜けるような晴天の青とも海のような慈しみに溢れた青とも異なる、たとえるならば誰もが見惚れる西の黄昏の、その裏側にいる静かな東の空のような美しく寂しげな藍色だ。
不思議そうに瞬きを幾度か繰り返した彼女は、自分を見つめる双眸を同じように見つめ返した。夜が訪れる直前に満ちる静謐は、何も暴くことはないが何もかもを知っている。
覗き込むつもりが覗き込まれそうで、そっと眼差しを落とした。

クリスの瞳は翠色だ。
芽吹いたばかりの双葉のように瑞々しく、初夏の陽光を浴び微風に揺れる若葉のような、澄んだ明るい色をしている。
見られることに慣れているのだろう、視線を平然と受け止め、彼女は少しばかり不機嫌そうに睨み返す。
若い美しさは加減というものを知らぬ。豊穣と希望の翠に燃やし尽くされそうな錯覚を覚え、目礼を返して視線を外した。


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眼の色の話。外見に関する形容が大仰というかきらきらしい感じだとああ耽美だなーラノベだなーという気がします。
まどろみに見る過去。 | 2008年06月01日(日)
彼女には五つより前の記憶がない。
はじめの記憶は大樹の蔭で、赤茶の髪をした派手な印象の女性をじっと見上げていたときのものだ。
しばらく見つめあった後、女性は困ったように頭をかいて彼女に手を差し伸べてきた。思わずそれを掴むと引っ張り上げられ、引きずられるようにして大樹の傍から引き離されたことを覚えている。
その次に鮮明な古い記憶は、黒髪の美しい童女との邂逅だった。大きな緑色の瞳は意識を惹きつけて離さない強い力を秘めていて、彼女は吃驚しながらその眼を見つめ返していた。

けれど時折、本当に稀なことだったが、それより以前の記憶がそっと意識にのぼることがある。ゆめうつつにまどろんでいるとき、堅く閉じられている箱が溢れんばかりの中身に耐え切れずそっと開くかのように、それは彼女の心のうちに零れ落ちてくる。

ゆらゆらとゆりかごのように揺れる長椅子に腰かけた男が彼女を手招き、膝の上に乗せていた。
父親がいればこんな風にあやしてくれたのだろう、彼は優しく彼女の頭を撫でていた。
そう、彼は彼女の実の親ではなかった。親のように可愛がってはくれたが、彼女は彼のことを父とはけして呼ばなかったし、彼は自分のことを無理に父と呼ばせようとはしなかった。
呼びたいと言えば許してくれたのかもしれない。おそらくは許しただろう。彼は彼女のことを実の娘のように思っていると、彼女に何度も語ったのだから。
けれど彼女は彼のことを父と思うことはなかった。彼のことは好きだったしとても感謝していたが彼は家を空けがちで、実際にこまごまと面倒をみてくれたのは別の人物だった。けれどそのことはさしたる問題ではない。
彼女が彼を父と呼ばない理由は別にある。
同じ家には、彼の妻と血の繋がった娘がともに生活していたのだ。

一つ屋根の下とはいえ行動範囲が被ることはなく、彼女たちと見えることは殆どなかった。ときたま出会う彼女たちはとても優しく、同い年の娘とは遊んだこともあるが、どこかよそよそしい壁は消えなかった。
夫が実の娘と同じくらい彼女のことを気にかけているという事実は、妻にとって親のない子供に対する同情心よりも警戒心を呼び起こすものであったのだろう。彼女はいつも優しかったが、ただそれだけだった。
彼女の方も、妻子に対して何かを訴えることはなかった。夫婦と子供という幸せな家庭に羨ましさと寂しさは覚えたが、彼女に向かってその扉は開かれていなかったし、それに何より、自分の両親のことを思うと、そこに混ぜてもらいたいと思ってはいけないような気がしたのだ。

ゆったりとからだが揺られ、幼い彼女は眠気を覚えて目を擦る。
丁度やってきた少年が男から彼女を受け取り、ぽんぽんと背を叩いてあやしながら寝室へと向かってゆく。
眠りに落ちる過去の意識とは裏腹に、現在の彼女はゆるりと夢から意識を醒ました。

******

記憶喪失と転生ネタはそれほど使わないんですが(特に後者は読む分には嫌いではないけれど自分ではあまり書こうという気がしない)、そういえば記憶喪失なやついたなぁと思い出しました。

そういえばアニティアはてきとーに音ひねくり回してつけたんですが検索かけたらサンスクリットで無常とか出てきて吹いた次第です。
同じ作品内でいくとシアシェも音感だけでつけたんですが(10年近い前の話)(人名事典使い始めたのは5、6年ぐらい前から)、xiaxueと書くと中国語で下雪(=雪が降る)との意になるらしくてへーと思いました。
偶然とか無意識というのは案外侮れない。
written by MitukiHome
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