銀の鎧細工通信
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2009年04月22日(水) 臨界反応 (近高そよ 続き物8話目)

 遠くの方で声がする。随分と酷ぇ悲鳴だ。耳障りにわんわんと残響する。そんな声を出すんじゃねえよ、頭が痛いんだ。



私たちを呪えばそれで簡単よね、あなたには憎むのものがあっていい。
 でも私はどうなるの、そんなもの、
 自分を呪うしかないのよ



 違う。
 呪われ、憎まれるべきは俺だ。
 お前のことは知らない。告発されるべきなのは、いつだって俺にとっては俺自身だ。他のやつのことなんぞ知ったことか。
 お前にとってもそうなのか?
 告発されるべきは、自分であると?
 それも、違うだろ。
 だってお前は、あの戦においての、一人の死者も知らないではないか。
 お前は確かに生きている。数多の、ひとりひとりの死の積み重ねの上に。けれどそれはお前の責任じゃねえ。お前には関係がない。何故ならお前は、あの頃にはまだ生まれてもいなかった。何も知らないんだ、知る由もないんだ。
 それなのに、お前は自分が告発されるべきだと思うのか。
 ひとりの死者も知らぬまま、ひとりの生者として。
 重いと云うのか。
 赦せないと泣くのか。
 不遜だな。
 単なる情報だけで、自分自身を告発すべしと挙手するのか?お前はあの戦の現場を知らない、そこに立っていた者ではないではないか。
 だというのに、ただ生まれて生きているだけで、お前は自分を告発すべしとそんなにも暗い眼をするようになって、進み出るのは何故だ?
 ああ。
 将軍家の人間だからか。
 でもそれは、他の誰も背負おうとはしなかったことだ。お前だって、これまでの将軍同様に、見て見ぬ振りで目を伏せればいいだろう。自分の知らないことでまで、罰してくれと両手を差し出すのなんか、ヒロイズムに酔った勘違いのマゾヒズムだ。死人を使ってオナニーがしたいならひとりでやりやがれ。
 本当はわかっている。生きているだけで、罪だということなんかない。だけど俺は生き残ってはいけなかった。俺が招いた、俺が誘った、俺が呼んだ。そんなやつらが殺されて殺されて、俺だけが生き残っていいはずはなかった。
 お前のことなんか、俺は知らねえ。

 今も生きている。
 死者ではないんだ、俺は。
 あいつらとは、決して和解できない。何をしようと、永劫に。生きている者と、死んだ者を繋ぐものなど、なにひとつない。接点などどこにもない。詫びる言葉もない。何をしても、何を云ってももう届かない。
 何をしようが、俺は、ついに死者ではない。
 それだけが厳然たる、事実。


 死んだひとりひとりの顔が、名前が、姿が、常に俺の中で像を結ぶ。生きてはいないあいつら、総ては俺の勝手な回想。
 あの天人との戦において、仲間とそうではない奴(天人含む)、は計量された。天人の死者数、民間人の死者数、攘夷志士の死者数、そのうちの鬼兵隊の死者数(斬首含む)。悪趣味な統計に胸が悪くなる。その計りをぶち壊してやりたい。そんなデータを取って、きれいな円グラフでも作ろうってのか?何の意味がある?量で悲劇性の尺度をも計ろうというのなら、そんな下衆で愚鈍な試みはあきらめた方がいい。量の問題じゃねえ、死者数の問題なんかじゃねえだろう。一人だろうが二人だろうが百万人だろうが、原点は、ひとりの死だ。
 そんなことしたって、死者にはなり代われやしねえ。
 俺が、お前が、何をしたって死人には赦されねぇし、届きもしない。

 

 瞼を開けたら、そこは牢だった。暗い水の中に浮かび上がってはまた沈むような感覚の中で、何度も途切れ途切れに夢を見た。
 軽い吐き気と酷い眩暈。自分の身に起こったことを思い出して、それはますます酷くなった。胸くそ悪い。
 だるい身体をずるりと起こすと、格子から離れて座っている男の姿が目に入った。背もたれのない丸椅子にゆったりと腰掛けている。長い前髪で目付きは見えないが、頬や口元に警戒や緊張の色はない。こいつは一度見たことがある。あの小娘が街に出た時に一緒にいた野郎だ。あの時は警察関係者だと思ったが、今の格好を見れば忍だと判る。
 「ほい」と何かを投げて寄越す。それはきれいに格子の間から俺の手元に飛び込んできた。どうやらくないではないらしい。それを受け止めてみれば、竹筒だ。
 「即効性な上にいい感じで身体に残ってくれるんだが、どうにも酷く気分の悪くなる薬ですいませんね」
 少しも悪びれず飄々と云う。確かにこれではまともに動けやしねえ。栓を開けて、くんと匂いを嗅いだら「何も入れてやしないっすよ。そんなことする必要が俺にゃないんでね」と云った。
 「あいつの命令だからか」
 「まあね」
 真意の読めない男ではあるが、それは嘘ではないだろう。あいつが俺を殺すつもりなら、あの時そうしていたはずだ。ただ眠らされていただけというのなら、殺すつもりはないってことだ。もっとも、あの娘が俺を殺そうとすることはないんだろう。
 その奇妙な確信は、つくづく最悪だ。近藤にしたって、あいつらにとって俺はただ邪魔な存在だ。害をなすことはあっても、それ以外は何もない。それなのに殺そうとしない、捕まえようともしない。それがいつだって歯痒かった、不愉快だった。理解できないし、したくもない。現にこうしていざ捕まってみても、やはり不愉快で腹立たしいことこの上ないのだが。
 喉を滑り落ちる水が心地よい。
 「あいつ、何をしでかすつもりだ」
 忍は答える気はないだろう。案の定、口の端を持ち上げて「さあ?」と肩を竦めて見せた。嫌な予想がある。俺を殺す気のない奴が、俺の身柄を拘束しておく必要があるとすれば、それは。
 
 俺の手足を封じて、あいつがすること。
 そもそもはっきり云ったんだ。「私がこの国を壊す」と。はったりや酔狂で口にすることじゃねえ。だが、どうやって?何をする気だ。
 ひとつ判っていることは、あいつが、俺を「守ろう」としていることだ。俺が巻き込まれることから、否、俺が進んで飛び込むことから。俺自身から、俺を。「あなたには、やらせない」、そうきっぱりと云い放って。
 頭の中が真っ白く弾けるような怒りに任せ、空にした竹筒を格子に激しく叩きつける。古めかしい木造の牢は、未だ強固なつくりを保っているらしく音の反響ひとつ寄越さない。
 「こっから出せ」
 男は無言でまた肩を竦めた。
 威嚇して「それでは」と出されるくらいなら、はじめからこんなことはしない。聞こえよがしに盛大な舌打ちをする。これだけのことをするということは、あいつはそれだけの何事かをしでかすつもりなのだ。俺が飛び込まずにはいられないような、大きなことを。この国を、壊す?あいつが?将軍家の姫君が?あんな非力で無知な小娘が?
 どうやってだ、どうする気だ。壁の染みを睨み付ける。俺は、こんなところにいるわけにはいかない。「守られ」るわけには、断じていかない。またしてもおめおめ生き残るつもりか。
 
 俺は、俺を赦さないと決めてんだよ。
 俺も、俺以外のものも、赦さないことをとうに決めてる。
 誰に何を云われても、何と引き換えにしても。
 そうでなければ、生きていけねえんだ。のうのうと自殺するわけにはいかない、じゃあ赦さないことでしか、俺は生きていかれねえ。
 俺自身の呪いが俺の息の根を止める時まで。
 
 何の為にかはもう判らない。判らないうちに想いは身体の中でどろどろに腐敗しはじめた。今では身体も頭も蝕む毒だ。それでいて、他のどの器官がなくなったとしても、これだけはないと生きていけないというほど俺を生かすもの。蝕まれることで、俺は呼吸を続けている。
 生き残ったほかの仲間に、忘れて無かった事にして生きていけ、と俺は思った。そうして離散していった仲間ですらも、その後殺されたり自殺した。あのまま怨みだけで戦い続けても仲間はことごとく死んだだろう。なのに、戦を離れても仲間は死んだ。何をしても助けられはしなかったのか、何をしても結局駄目だったのか。じゃあ何故俺だけ生きている?何故俺は死なない。

 鬼兵隊を、あいつらを、奪われ踏み躙られたことが俺の呪いだ。赦さない、殺せ壊せと喚きたて暴れまわる獣が俺の呪いだ。それが頭も身体も俺を蝕み苛んでる。なのに、俺はそれと分け離れたら生きてはいけない。つまりそういうことだ。
 俺は、いまだに鬼兵隊の仲間に、あいつらに生かされてる。
 死んでいった奴もそうでない奴もが、俺を生かしている、支えてる。
 死人を喰らって呪いを育て、死人を喰らって赦さないと想いを深め、
 俺は、俺が、死人を利用して生き永らえてる。


 (この毒に殺される以外に俺に見合う死に方は無い)


 こんな、考えても仕方のないことをぐだぐだ考えちまうのは、ここがおそらく江戸城だからだ。敵の腹の中に匿われて、俺は何をしてる?こっから出ないことにははじまらねえ。
 見張りはひとり。だが忍のやることだ、おそらくは見えないところにも隠れているだろう。そもそもあいつひとりにしたって油断ならねえ。刀から隠していたものから一切合財あいつの足もとに並んでやがる。
 「ん、読みます?」
 視線に今気がついた、という風で手にしていた雑誌をひょいと持ち上げる。とっくに俺が見てるのなんか知ってただろうに。
 「いらねえ。いつまでここにいりゃいいんだ」
 「なあに、夕方まではかかりませんよ」
 「今何時だ」
 「2時くらい」
 忌々しい。今日は新条約の締結日だ。3時からターミナルにて諸星の偉いと”将軍”とで調印がなされる。天人がやってくるゲートであるターミナルで、新たな関係の門出ときたもんだ。全国ネットで中継すると幕府は発表した。多くの攘夷志士が気が狂いそうになっていることだろう。この間、いやに静かだったのは、おそらく一様に今日が決戦の日と思っていたからのはずだ。どんなお祭騒ぎが起こされるか、興味があった。
 あいつは俺が何か起こすことを懸念したのか?違うな、予め何かする気がったなら当日になって俺ひとり隔離して閉じ込めたところで、計画は頓挫しないことくらいわかるはずだ。天人を呼び寄せて、この国が食い荒らされて内部崩壊することを狙うというのなら、やはり俺を閉じ込める理由はない。
小娘の云う「壊す」とは、なんだ?まだまだ利益を吸い取ろうとする天導衆にしろ、癒着関係の春雨にしろ、この国を焦土にしようとする目論見なら阻止するだろう。どうやって壊すというんだ。
 「おい、煙管寄越せ」
 毒にしろ針にしろ、いずれの仕込みもないことは確認済みなのか、男はあっさりと煙管を投げて寄越した。あ、と呟いてライターを放り投げる。「使ったら返してくださいね」と云う。
 相手のほうも見ずにライターは適当に投げた。細く煙が揺らぐ。

 脱出の術を思案しながら、ごろごろ横になっていると、不意に甘い花の香りがした。音もなく女がひとり姿を現す。
 「全蔵!」
 全蔵?ああ、服部の当主か。名高きお庭番衆の先代が死に、跡を継いだという倅の名前だ。江戸城にお庭番衆の組み合わせなら、何も不思議な点はない。
 「どうした」
 名前を呼ばれた服部全蔵が緊張した声で返事をしている。女のほうは少し青ざめているようだ。息を切らしている。
 「あの方が、急ぎの伝言だって」
 あの方?小娘のことか?
 「なんだ」
 「あの娘、死ぬぞ。早く行け。ですって」
 違う、小娘じゃない。だが、云われているのはあいつのことだ。何だって?死ぬ?あいつがか?
 「なんだと?!だってあいつ、死なねえって・・・!」
 血相を変えた服部に、女は続けた。声が少し震えている。
 「本当に見えるのね・・・あなたがそう云うの、解ってた。わしの目とて万能じゃない、現にお前は死ななかった。とも云ってたわん」
  目?本当に、見える?
 「天眼通か!」
 俺の大声で、存在に今気がついたとでもいう風に二人は振り返った。
 天眼通は個人の未来や金の動きは予見するが、政治に関しては一切見えないと公表していた。事実かは知らない。けれど、謀反の嫌疑、和議の可否、敵対星を出し抜くこと、それらは一切見えないと公言することで、幕府・天導衆は云うまでもなく、各星からも狙われることを多少は回避していた。政治には不干渉だ、という立場表明。
 もっとも春雨内部には目をつけるものもあった。だが、「そんなのの力を借りなくても、俺たちは金には困らないでしょ」だのなんだのと、金に興味もなさそうなくせに頑なに待ったをかける男がいたため、拉致の計画はいつも保留になっていた。神威とかいう、夜兎のガキだ。
 「やっぱり幕府は天眼通も抱き込んでやがったのか!どこまでも下衆な遣り口だなァおい!」
 「うるせえ!俺個人のコネだ!」
 罵声に対して真剣に怒鳴り返され、俺は面食らった。何をそんなに血相を変えている?死ぬ?あの小娘が?国を壊そうとしている奴が、死ぬだと?
 「薫、この兄さんから目を離すな、条約の締結後に生きて開放が命令だ。それまでは押さえてろ、絶対に死なせるな。術を使ってもいい」
 やっぱりだ。全身の血が逆流するような思いがした。
 やっぱりそよは俺を「守ろう」としている。生かそうとしている、死なせまいとしている。誰が頼んだ、俺がそんなことを望んでいると思ったか。そうじゃないことを、あいつは知ってる。知ってるくせに、こんな真似をしやがるのか。本当に救いようがねえほど傲慢なガキだ。エゴだ、自分本位だ、あいつは俺に「それはあなたの身勝手だ」と云った、どっちがだ。俺に生きろと形振り構わず強要する奴が、死ぬだと?
 「待ちやがれ!俺をここから出せ、今すぐにだ!」
 気が狂ったように怒鳴りたてる俺に、服部は「それはできねえ」と云い捨てて姿を消した。女が重い溜息をついて俯く。
 俺が生きたいといつ願った。はじまりはなんだったのか、終わりは一体何処なのか。俺にはもう、身のうちでのた打ち回る獣しかない。それしかないし、他には何もいらない。早くとどめを刺せ、早く終わらせろ。幕を引かせろ。
 俺はもう、生かされて残されるのは、御免だ。真っ平なんだ。



 くたばった俺の身体からじわじわと毒が染み出て、この世の総てが蝕まれればいいと願った。
 萌芽しろ、他の総てを呑み込んで成長し、食い破ってしまえ。
 潰れろ。
 世界よ、終われ。
























 ただし、決して俺を残さずに。






NEXT




すっごい難産でした。
高杉一人称で書くのは決まっていたのですが、書きたいキーワードが頭の中に降臨しきっていないまま書くことがこんなに辛いとは。
なので、ぎこちないし、切れもないし、勢いもないです。私の悪文の僅かなとりえは、勢いだけだと思うのですが。 

更新を急いだのは、この間別ジャンルでの更新を続けており、おそらくは銀魂ジャンルの方を不愉快にさせてしまっているだろうなと危惧したからです。
でも、やってみて、納得いかないままのものに無理矢理形を取り繕わせて放り出しても、(自分にとって)つまらないものしか書けないことが解りました。これではかえって失礼だと心底実感したので、次は形を取るまでは書きません。頭の中に浮かんだものに、正直になろうと思います。
とか云って、最終話のキーワードはかなり浮かんでいるので、あとは詳細を煮詰めるだけなんですが。
 
  








 

 

 





 


2009年04月19日(日) Garnet (有栖川有栖川 アリ江)

 

 きみの上に照る毎日毎日を最後の日と思いたまえ。
 そうすれば君の予期していなかった時間を君は感謝を持って受け取ることだろう。
 −ホラティウス−








 あなたのことなど、いっそのことはじめから知らなければよかった。



 
 「なんですかそれ。んん?関数?・・・¬A の際にはA⊃Bも否定される。しかしA⊃Bは¬A∨Bと書き換えられる??暗号ですか」
 学館の机の上に広げられたプリントを覗き込んで望月が首を捻る。もっともらしく顎に手を当てている。
 「いや、論理学や」
 「論理学ゥ?えらい数学的やないですか」
 「ああ、お前の云うた通りや。これは命題関数」
 望月の素っ頓狂な声に興味をそそられたのか、はたまたEMCの面子の中では比較的数学に強いためか、織田が首を伸ばして会話に加わった。
 「へえ。でも論理学なんて云うたら江神さんお手の物やないんですか」
 望月もうんうんと首肯する。窓外で新緑の葉の間を縫って落ちる光が眩しい。江神さんは少し目を細めた。僕はそれを離れて眺めている。
 「そうでもない」
 「なんでですか?」
 肩透かしの様にあっさりと返された言葉に二人が首を傾げる。それを後ろで眺めている僕には、二人がまるで申し合わせて「せーの」でタイミングを揃えたように息のあった動作であることがよく判った。ついつい小さく口元がほころぶ。
 「命題が絶対のもんやからな。たとえば、」
 と江神さんは少し思案するように親指を顎に当てた。
 「マリアの弁当が何ものかに無断で食べられてしまった、とする。その犯人はー・・・アリスをAやとしようか、モチがBや。で、犯人はAまたはB、論理記号で書くとこうや」
 江神さんは手近にあった裏紙にA∨Bと書き付けた。名指しされた以上は僕も首を突っ込まざるを得ない。がたがたと椅子を引き摺って近寄る。弁当の盗み食いという不名誉な濡れ衣は謹んで返上したい。
 「これやと犯人は必ずAかBのどちらかなんや。共犯はありえない。けど実際はどうや?二人でこっそり食ったんかも知れんやろ。数学的な領域には嘘や矛盾やアリバイは関係ないんや」
 QED、とばかりにペンを挟んだままの長い指をひらひらさせる。
 「それでかえって江神さんには考えにくい、と」
 「そういうことや」
 織田がふうんともううむともつかない声をあげると、望月がそっと呟いた。 
 「『人間的、あまりに人間的』ゆえにかえって考えにくい、というわけですか」
 「なんや、詳しいやないか」
 江神さんは花が開くように笑う。エラリアンの後輩が、ミステリ以外の作品の名を挙げたことが面白いとでもいうように。もっとも望月がミステリのみならず文章による作品を幅広く愛していることはEMC内では周知のことである。
 人間的、あまりに人間的、やて?それは「罪を犯す者」がか?それとも江神さんのことがか?胸の奥がなんだかきしむ。
 「しかし哲学科ってのはこんなんやるんですねえ、なんや意外です」
 他学部の講義内容というのは案外と判らないものだ。経済学部と法学部は2人ずついるために、自然講義や試験や課題のことが話題がのぼる。その中には学内古参学生の江神さんも聞いたことのある名物教授の講義や、或いは内容をある程度想定できる名称のものあった。江神さんは先ず話題に出さないが、西洋哲学史や倫理学概論など、哲学科においても他学部の学生に内容の予測しえるものがあるにはある。ようだ。
 「哲学は総ての学問の基礎やと云う教授もおる」
 「そりゃまた凄い」
 織田が肩を竦めた。
 「あながち否定もできんけどな」
 「たとえば?」
 今度は望月が合いの手を入れる。 
 「卒論は何でもありや。フランス哲学からカミュへ走って文学論をぶつ奴、バタイユとメルロ=ポンティで芸術論をかます奴、ベンヤミンの暴力論からいじめについて書くも良し、ハイデガーでヘヴィ・メタルについて書いた奴もおるらしい。イグナティエフで淋しさについての考証、つう先輩もおったな」
 幾人かは名前を聞いたことがあり、また幾人かは存在どころか国籍さえ不明な名前が並べられる。淋しさについての考証という言葉に、神倉でマリアに話したことを想起する。
 江神さん、江神さんには、淋しさという言葉が、その意味が自分なりに解釈して理解できているのだろうか。彼の存在は、淋しい。それは傍で見ている僕が感じる印象だ。彼自身は、淋しいと思うことにまるで縁がなさそうだと僕は思う。根拠はない。これもただの印象だ。
 「案外つぶしがきくんですね」
 「何でもあり、や」
 「じゃあ江神さんの卒論のテーマが人類協会でもあり、と」
 望月がにやにやしながら口にした。やはり江神さんと卒論が結びつかないようだ。或いは、彼こそ卒業論文を前にしているからこそ出た言葉かも知れない。
 「そうやな。宗教や信仰と哲学は切り離せん。せやから卒論ではつぶしが利くけど、実生活に具体的に役立つようなことはあまりない」
 「なるほど。でもそない云うたら経済学やってそうですよ」
 4人で笑っていると、マリアがやってきて保坂明美から送られてきたという香り豊かな柑橘を配った。







 かくり、と首が揺れた振動で瞼を開く。どうやら眠ってしまっていたらしい。
 背後の窓を見やって景色を確認する。夜に包まれているため判然とはしないが、どうやら寝過ごしていはいないようだ。こき、と首を回して軽く息をつく。随分と他愛ない夢を見た。あれは俺が出る直前やったから、一ヵ月半前くらいのことだったろうか。
 初夏の緑が眩く、小汗ばむような陽気の日だった。つい最近のことに違いは無いのに、どこか夢うつつのようにふわふわと淡い。同時に目を焼くほどに鮮やかにきらきらしい。
 美しいもの。愛しい日々。
 時折アリスが思案に耽るような顔付きをしていたかと思うと、不意に顔を上げて俺を見た。その、目。まっすぐな。
 俺が「現実への復讐」と云った言葉を、画家は「自らに云っているようではないか」と投げ返して寄越した。優雅な生活、現実への復讐。
 復讐、とそのざらつく言葉を俺は口の中で転がしてみる。
 その言葉は、強すぎる。形にしてしまうと、随分と大仰にも格好付けのようにも聴こえる。
 そうやない。何かもっと、不確かであやふやで、漠然としたものだ。強いて表現するなら復讐という単語の枠の中におさまる程度のもの、というだけの、何か。嫌悪?侮蔑?違和感?諦念?疎外感?悪意?
 どれもしっくりこない。
 改めて瞼を閉じる。電車の走行音が振動とともに鼓膜を打つ。
 葉の間から零れてきらめく残光が瞼の裏側で弾ける。自分の髪からは土の匂いがした。現実は、現実には美しいものも多く用意されている。それは常に馴染みのない新鮮なものであり、また見慣れた懐かしさをも俺に与えきた。
 そう。確かに俺は優雅な生活を送ってきたんやろう。授業料は安いものではなかったが、それでも好きな時に好きなだけ本を読み、好きな時に起きて好きな時に眠った。気が向けば授業に出た。それには興味深いものもそうではないものもあったが、どれも楽しいと云うには充分だった。そして、俺は延々と学生でいることを選んだ。それは確かに復讐じみているだろう。
 予言などは当たらない、と笑うために?
 予言の通りになるという可能性を消去しないままで否定するために?
 だとしたら、俺の行動は母への復讐なんやろうか。それとも、父への?そうした親のもとに生まれたという「運命」への?
 やはり随分とオーバーになる。そんなにご大層なものでもないはずだ。
 それでも俺は考えたんや。兄の死について、親父が俺より先に死ねば予言の構成条件が変わるということ、そもそも大学に行かないこと、すんなりと卒業してしまうこと、愚にもつかないような妄想から現実的な問題から、俺は俺なりに考えて選んできた。投企、アンガジュマン。
 確かに実の肉親に死を予見され、先天的な病でも何でもなくそれが実際に起こるという経験はそうは転がって居ないだろう。
 兄が死んだ時、勿論母は哀しんでいた。けれど、
 「やっぱり」
 と涙声で呟いた声は、やっぱり忘れられん。
 何がやっぱり、や。どんな予定調和やろうと、人が1人死んで、やっぱりもなにもあるか。
 母も死なずに済めば良いと思ったろうか。思っただろう。
 けれどそうはならなかった。兄貴は死んだ。
 それを仕方が無いと諦めるのか。仕方が無かった、で人が1人いなくなることを受け入れられるものか。諦めきれるものか。
 つきりと頭の奥が痛む。この3年間、あまりに人が死ぬ、否、殺される場に出くわしすぎた。これは間違いなく異常だ。その異常さは、正直なところ、俺にますます死んでなるものか、死んでなどやるものか、という思いを強くさせた。
 (俺は人でなしやったんやな)
 言葉で語りきれるほど、「現実」とやらはシンプルでもなんでもない。 
 −運命なんて犬と同じだ。逃げる者に襲いかかってくる。−(有馬マリア)
 なんて。以前に独白めいて呟いた後輩の言葉は、なんと潔く勇ましく、逆ギレじみた人間臭いアフォリズムだろう。秀逸やな。
 瞼を開けて眺めやる窓外の景色は、飛び去っていく中にも人間の生を確かに感じさせる光がある。
 生きているものの、生きていくものの、放つ光だ。
 俺には、どこか遠い。




 下宿に戻ると植木鉢の位置が少しばかりずれている。あれ、と思って戸を開けると、真っ暗な部屋でアリスが振り向いて悲鳴のような声をあげた。それは単に驚いたようにも、俺の名前を口走ったようにも聞こえた。 
 「どっ・・・どこ行ってたんですか?!」
 大股で俺に歩み寄ると、胸倉に齧り付かれた。随分と切羽詰った表情と声で問われる。
 「奈良や」
 やっぱり心配をかけたな、と心苦しくも、俺はいつも通りの顔を作ってみせる。自覚はあるが、こうした素直さを持つ相手に接する際には、これは誉められたことではない。
 「奈良ぁ!?」
 下宿中に響き渡りそうな大声が寄越されるので、俺は慌てて人差し指を自分の唇に持っていった。察したアリスがしまったという風に目を丸くする。
 「何でまた奈良なんですか・・・っ!僕の推理は丸外れやったってことや!」
 なんや、賭けでもしとったんか、と俺は云おうとして、やめた。そんなはずが無いことなら、この素直な後輩を見ればよく判る。茶化すことも煙に巻くことも、誤魔化すことすらも躊躇われるほどの真っ直ぐさは、時として暴力じみている。何かを圧倒的な力で持って左右するという意味において。暴力には、きっと本来純粋に力の作用という含意がある。
 「何で、ってバイトや。長期発掘の」
 俺の言葉が、真摯に彼の耳に届いたらいいと思う。
 言葉にならないという風に、後輩はえもいわれぬ珍奇な顔になって口をパクパクとさせる。失敗したか?
 「だっ、だって・・・!休学届けも出さないで試験は、単位は、卒業は!」
 「待てアリス。落ち着け」
  すう、とひと呼吸大きく吐くと、「あの意味深な葉書はなんです」と云った。そう来るか。ひた、と俺を見つめている。
 「片付けしとったら、出てきたんや」
 「は?」
 「フィニの絵。なんかの時に話題に出て、観たい云うとったやないか」
 呆然と無言になってしまった後輩は、どうやら例の「予言」を知っているらしい。マリアが話してしまった、でも人に簡単に話していいことじゃなかった、と謝ってきたのだ。人が人に振り回されることは、ひどく無惨で腹立たしい。
 違うんや、アリス。俺があんな状況であんなことを口走ったら、マリアが気にしないはずはなかったんや。俺にはそれが、解っていた。それでもふと口をついたのだ。気に病んだマリアが、誰かにそれを溢したことは何も悪くない。
 せやから、そんなに憂いてくれるな。
 俺に、振り回されたりしたら、あかん。

 「単位はもう、揃っとるんや。せやから、試験もレポートも関係ない。奨学金を少しでも返しておきたいと思ってな」
 立ったまま暗い部屋の中で詰め寄られている理由が見えてきた。思い違いや。神倉でのことがあった後やから、ナーバスになるやろうと思って一筆書いた。大きな誤差や。こいつは、絵葉書のメインである絵すら見ずに、俺の言葉に気を取られた。そうさせたんは、俺や。
 電気を点け、腰を下ろして灰皿を引き寄せた。明るくなった部屋を見回して、「これで片付けたんですか」とアリスが揶揄を寄越して腰を下ろす。
 「そうやけど」
 と俺がきょとんとするのが面白かったのか、アリスは派手に吹き出した。気が緩んだのかも知れん。「茶か、コーヒーか」と訊きながら立つと、コーヒーと背中に応えが寄越される。
 「アリス」
 「はい?」
 白々しいほど煌々とした蛍光灯の下で、煙を換気扇に吹きかける。渦を巻き、引き千切られては吸い込まれるそれ。
 「俺は卒業するつもりや」
 「・・・・・・そうですね」
 察しがいいことは、時として不憫だ。
 30までに死ぬ、ということは30歳になる前であればいつでも有り得るということだ。今ガス管が破裂して死ぬことだって構成条件としては有りだ。いや、それだとアリスが巻き添えを食うから、やっぱりなしや。俺は捨て鉢な冗談を胸の奥に押し込める。ただ、アリスが気にしているのはそういうことなのだ。
 本当は、予言なんかなくとも人はいつ死ぬか判らないというのに。
 なのになぜ、こんな風に縛られなければならないんだ?
 俺が復讐すべきだというのなら、それに対してこそやないのか。
 取りとめもなく、そして何遍も繰り返し考えてきたことを遮るように薬缶が悲鳴を上げる。
 俺は卒業するつもりや。そうしたら、30になる頃には学生やない。それだけのことや。アリス、それだけのことや。
 
 光は、いつもどこか遠かった。
 ただ、君という光が真っ直ぐに俺を見つけて飛び込んでくる。
 どうか俺に、つよい「力」を。
 睡蓮の葉の船から降りて、見送るだけの。
























 卒業式の後に、江神さんはみたび姿を消した。下宿はもぬけの空だった。
 今度は葉書も届かなかった。
 「ほな、またな」と云って別れたのが最後だった。彼は笑っていた。

 彼はきっとどこかで生きているのだろう。
 江神さんの「必ず帰る」と、「またな」の言葉が、僕に残された予言だ。

 







END



バッドエンドのつもりじゃないですよ?(二回目。
一応、両想いなんですよ?すれ違うだけで。

だめですわ。ムーミンにはスナフキンを引き止められないんですよ。そういうことなんですよ。どこかに行くことを、それこそスナフキンの四肢をもいで阻んだとしても、そうしたらそれはもうスナフキンだけど自分の敬愛するスナフキンじゃなくなるってことを、ムーミンはわかってる。だから淋しいけど、毎回見送る。つまりは、そういうことなんですよ。
学生アリスの結末に、私はどうしても江神さんが失踪することを考えてしまう。自由になってもならなくても、彼はどこかに行ってしまう人に思えてならない。それを、アリスはたぶん止められない。付いて行くことも、きっとできない。

いやあ。しかし江神さんモノローグ、難しい。しかも初っ端から核心をつこうとしてしまった私が愚かでした。いやしかし江神さんを書く際に「予言」は無視できないんだ。それを他人ではなく、本人に語らせたかったんだ。
(私の頭の中の)江神さんてなんか時々ふっと喋り出すんだけど、そういう断片の言葉以外を喋らせようとすると、客観性がやたら強くなって一人称の文じゃなくなるみたいになる。説明口調で。なんなのこの人。いやなんなの私の江神さん観。

イメージはCocco「ガーネット」、宇多田ヒカル「光」
だったのに、何故かリリィ・シュシュの「共鳴(空虚な石)」を聴いていたらしっくりきてしまって参った。

本文内のマリアの言葉はモノローグなので、本当は口に出されてないです。単に私が好きなのです。


2009年04月11日(土) Celest Blue (有栖川有栖、アリ江)

彼はやさしい人だった。

 穏やかで物静かで、適度に他人に無関心で、本心からというよりは「そうしたほうがいい」という己の分別と思慮に則った上で、他人が必要としている振舞いを差し出してみるような人だった。勿論、それは誰に対してもそうしているわけじゃない。それでも(少なくとも僕には)、伸べられるしなやかな手に、まことなどなくても縋ってしまうような鮮やかなタイミングとやり方だった。それは倫理と理性には則っていたが、おそらくは純然たるhumanismではないというのに。少なくとも彼自身の血の通ったそれ、では。
 彼はやさしい人だった。
 それは嘘ではない。しかし優しく暖かい目はいつも透き通っていた。humanityと云うには無性に人間味に欠ける彼。
 彼はつめたい人だった。
 ひどい人だった。
 とても忘れられないような振る舞いを惜しみ無く与えてくるくせに、「別にたいしたことやない」とさり気なく笑っては寄せられる思慕を受け流すような人だった。関わったら相手が魅了されて踏み込んで来たがることだって予測できるだろうのに、そしてそれを真っ向から受け止める気もないくせに、彼は中途半端に(云い掛かりもここまでくれば開き直りだ)人に関わることは決してやめない。深入りしないし、させないくせに、人と関わることを求めている。
 人が皆あなたのように淡くほのかにあれるわけないやないか。しがらみや執着から逃れられんことなら、僕にかてわかる。
 
 みんな僕の云い掛かりなんも、わかっとる。あなたかて、自由やなかったことも。
 それは、予め忘れ去られるようにと、忘れ去られることを念頭において誰の掛け替えのない者にもならないように努めていた風にも見えた。そういえばそんな奴おったなあ、とでも云われれば満足ですか。僕がそう云うとでも思いましたか。
 彼はまったく聖人然としている。
 乞われれば手を差し延ばすくせに、「ほら、お前はひとりでちゃあんと立てるやないか」と淡く笑って手を離すような人だった。
 彼はどこに行くつもりなのだろう。一緒に行きたいと縋る腕を柔らかくそっと拒み、彼はいつもひとりだ。
 その手をとることすら許してはもらえませんか。
 無為に神格化しては貶め、それら外野の思惑も寄せつけず、ああきっと彼の血は春の晴天のような醒めた青の色をしているのだろう。
 彼は美しい人だった。
 いったい誰になら、彼のいる場所に着地できるのだろう。どんな人間なら。
 とても僕にはできそうもない、と思った。
 それでもこの手は離せない、離すくらいなら腕が千切れたほうがマシだとさえ思った。思っていた。自分から離したら、きっと僕はこの人を一生忘れられない。見失ってしまった彼を追い求めながら生きていくことになるだろう。そんな自分を、哀しげに微笑して見つめる彼の透き通った目を常に意識しながら。それはそれで甘美なようにも思えた。
 


 ほんとうは、予感ならいつだってあったんだ。
 なぜ、気付けなかった?
 どうして、止められなかった?
 










 僕は軽く頭を振り、不意に自分の中に湧き起こった哀しい予感を打ち消した。
 こういうものの考え方に囚われるのは良くない。それに、どうあれ僕は彼を忘れやしないだろう。

 そっと横を見ると、膝に乗せた腕の向こう側に江神さんの頭が覗く。
 布団の上で立てた膝の上にそれぞれ肘を乗せ、俯いた額の前で指を組む。それはさながら祈りの形のようだろう。
 ゆるゆると波打つ髪がシーツの上を滑ると、もそもそと頭の位置を動かしている。
 「起きとったんか」
 靄の向こうから柔らかく響くように、いつもよりか少しだけ甘い寝ぼけ声を出す。やはり自分は浮かれているのだろう。江神さんは、こんなことで変わったりしないに違いないのだから。
 「喉渇いて、」
 布団から滑り出ると、目測を付けていた布の小山から下着を探って身に着ける。こういう時の振舞い方が皆目判らない。
 「水とってきます」と云うと、俺にも頼むとくぐもった返答。
 きっちりした肩の骨が夜目に何とも淫靡に写り、僕は慌てて水を汲みに部屋を出た。
 立て続けにコップ2杯をあおり、みたび満たしたそれを持って慎重に運ぶ。意を決して引き戸を開けば、布団の上に座り込んで煙草を呑んでいる。カーテンは開け放たれ、窓もうすく開いていた。江神さんは換気が好きだ。ふわりと髪がなびく。
 差し出したコップを受け取り、軽く礼を口にしてから「今日はあったかいなあ」と歌うように云った。確かに半裸でうろつける程度の気温だ。
 半裸、と思って江神さんに目を向けると、彼は全裸だった。目をそらして形のよい踝を眺める。骨もそうだが、それを支える筋肉のつき方も均等で美しい。江神さんは顔もからだもきれいなんやな、と思ってから僕は己の考えに脳内が弾けたようになった。うわぁああと取り乱す表情を誤魔化すために、俯いて鼻をすする。
 「寒いか」
 「いえ、大丈夫です」
 不自然なほど即答した僕に、江神さんはふっと笑った。そもそもどうしてこんなことになったんだ?
 
 彼に、あなたのことが好きで好きで仕方がないんだ、と貯水地が決壊するように云ってしまったのは1ヶ月ほど前のことだ。
 EMCの面子で呑んでおり、終電をなくした僕は江神さんの下宿に泊めてもらうことになった。マリアが事も無げに「うちに来たってかまやしないのに」と云い、そしてからかうように笑ったので、信長さんとモチさんと僕とでアホ!と喚いてはマリアの赤い髪をわしわしと撫でたり小突いたりしたのだ。それで彼女があははと高く笑って江神さんの背中に隠れた。そうしたら「確かにマリアの家のがうちより広い」などと江神さんが真顔で云い出したのだ。皆、ひどく酔っていた。モチさんがさも驚き呆れたように「紳士や!紳士がおる!」と高い声を出せば、信長さんが「あほ!そない騒いだら俺らがケダモノみたいやないか!」と、相棒にいささか激しいツッコミの平手を入れた。
 そんな帰り道だった。
 他愛ない身内話をしていて、そんな時に気が緩んで、つい僕は口にしたのだ。ゆらゆらと揺れる視界に映る滲んでぼやけた街灯がきれいだった。ふらふらと酒臭い息を吐いて、僕は今にも泥になりそうだった。これは云い訳にもならないけれど。 
 そうして僕はぶちまけた。皆あほでいい奴で大好きで、でも僕は本当に江神さんが好きでたまらないと。この恥知らず!思い出しても全身から火が出そうになる。江神さんは「ありがとう」といつも通りの口調で応えた。ごく普通の意味で解釈されたのなら、それでいいと思って僕はうふふと笑った。先輩として信頼して敬愛しているのだって事実だ。
 うふふと笑う僕がよろめいて江神さんの肩にぶつかると、彼は「ほれ、あと少しやから真っ直ぐ歩け」と云ってはつられたようによろめいた。江神さんも真っ直ぐ歩けとらんやないですか、と笑ったら「やかましい」と彼は笑って僕の頭を大きい手のひらで撫でた。そんな夜だった。
 翌朝、宿酔いの頭で何かとんでもないことを口走ってしまったと、穴でも掘って飛び込みたい気持ちになったけれど、江神さんのリアクションが淡々としたものだったことで思いとどまった。ましてやさほど酒に強くはない人のことだ、覚えていないかも知れない。そんな都合の良い期待までした。
 それからまたごくありふれて、何事もない退屈で平和な愛しい日々が訪れた。
 それなのに江神さんが不意に僕をじっと凝視して「そんなに喰い付きそうな顔するな」と云ったのだ。戦慄した。
 そんなに物欲しそうな顔で、浅ましい表情を浮べて彼を眺めていたのだろうか?
 凍り付いて絶句した僕を、哀れむように柔らかく見つめると、彼はあろうことか
 「アリス、これからうちに来へんか」
 と云ったのだ。
 この話の流れで?そんなことを云うのはどういう神経のなせる業?
 からからに喉が渇いていた。声が出なかった。椅子を蹴倒して今すぐ逃げ出したかった。けれど、この時を逃したら、彼はもう腕を広げては見せないような気もした。どういうつもりなのかは皆目解らなかったが、僕は、もう、江神二郎という人が一体何を考えているのかというその謎だけで、それに触れられるとまでは云わずとも、近づけるのではないのかという想いだけで喰い付いたのだ。目の前に下げられた餌に。
 結果、惨敗。
 さっぱり彼の考えていることは解らない。当たり前だ。身体を繋いだからって何かが見えるとでも?僕は哀しくなって、俯いたまま江神さんの隣りに腰を下ろした。右腕の横に長い脚が放り出されている。 
 本当の本当に彼のことが好きだというのなら、僕はここに来るべきじゃなかったんだ。僕は好きだと云った、彼はありがとうと云った。それだけで留めておけばよかったのだ。どうして、僕に触れても構わないと手を差しのべてみせたんですか?
 好奇心?興味本位?どちらも大差ない。それに江神さんが僕を好ましく思って可愛がってくれていることくらいは判っている。僕だけではない、EMCの皆を、この人は確かに好きだ。それは間違いがない。この人は淡白な風に見えて、思い遣りにも情にも深い。その中で特別な想いを、恋慕を募らせてはみっともない飢えた顔を晒していたのが僕ですか?哀れみですか?お情けでしょうか?
 浮かれて舞い上がった分だけ、哀しい想像は僕を追い落とした。我ながら随分と過剰にペシミスティックだという自覚はあった。それでも、こんな風に訳が判らなくなるほど、振り回されるほどに彼を好きなのも事実だ。だから、悲惨だ。みじめだ。
 「アリス、泣くな」
 「泣いてませんよ」
 証明するように顔を向けてみせると、僕の負けん気が面白かったのか彼は軽く吹き出した。失礼な人や。好きだ。わけがわからんくらい。
 「ちゃんと、好きやよ」
 僕の頭の中を掠め見たような言葉に、一瞬反応が出来なかった。ましてや、「ちゃんと」?なんとも引っかかる物云いではないか。
 「え」
 呆けたように訊き返すと、「野暮やな」と応えて片方の口角だけを吊り上げて笑った。
 珍しいニヒリスティックなそれは、今思えば多少の照れ隠しもあったのだろう。あまりに明け透けな僕に合わせるために、慣れないことをしているという。
 








 彼は彼なりに、きっと、本当に、僕のことを好いてくれていたんだ。
 そう思いたい。
 まだことの次第を僕らが受け止めきれていない頃、マリアが「もしかして・・・」と涙声で呟いた言葉に、僕は厳しく詰問口調になる自分を抑えられなかった。うろたえきった彼女に対して随分とひどいことをした。僕だってマリアの立場だったら、それを事前に誰かに云っただろうか?否だ。自分のことを語らない彼の、非常に個人的なことを誰に云えただろう。ましてや、それはただの予言だったのだ。

 江神さんが、姿を消した。
 何が『30歳を迎えずに死ぬ』だ。『多分、学生のまま』だ。
 猫じゃあるまいし、死を悟って姿を消したわけでもないだろうのに。
 目の奥がじんと熱くなった。
 何か、心の整理でもつけようと思ったのか。因縁との決別か。そうであればいい。そうに違いない。僕は占いなんか信じない。あなたかて、そうな筈や。彼が生きるつもりなのを疑ったりしない。するものか。
 なのに、どうしてあなたは僕に何も話してくれなかった。
 なのに、どうして「必ず帰る」なんて書いた葉書を、僕に寄越した。




 それからあてどなく宮津と山科をはじめとし、あちらこちらを彷徨った僕は、試験を放棄して留年が決定した。行っては見たものの、手がかりは何も見つからなかった。消息は不明だ。
 必ず江神さんは帰ってくるだろう。
 根拠も当てもないようなことを、軽率に云う人ではない。少なくとも「帰るつもりだった」などという結末は認めない。発した言葉の責任の重さなら、望まずとも演じてきた「名探偵」の顔を持つ彼ほど判っている人もそういまい。
 それでも不安なのは、彼がやさしい人だからだ。やさしい嘘を、こと自分の周りのものにだけは残しそうな気がするから怖いのだ。ひどい。つめたい。冷酷だ。どうして何も云わずに。
 まさか「予言」の通りに江神さんが「死ぬ」などと思っているわけではない。けれど、彼自身がその予言を意識していたことの辻褄は合う。でなければ、このタイミングで姿を消す理由もない。
 目の奥で吹きだまる熱さを僕は堪えた。彼は帰ってくる。こんな嘘は許さない。














END&NEXT

えーと。バッドエンドではないです。帰ってくる前提の話です。
なので正直、これ1話で完結といえばそのつもりです。
本文中でも書きましたが、帰るつもりがないのに「帰る」とか絶対云わないだろうし、江神さんは。
正直に云います。前半「誰なら江神二郎のいる場所に着地できるのか」は、本当はこの話が別カプに進行していく予定であったことをあらわしています。
したら駄目だったよ!アリスが許してくれなかったよ!すげーよ!何このラヴ展開!あたしこんなん書けるんだ!すげーよアリスの「江神さん好き好き大好き」パワー!!!!!!!!!!(興奮。
いやあアリス一人称書きやすいですね!あっ、お前が夢見てるからだという突っ込みは解っているので結構です(笑。嘘です。突っ込んでくださって構いません。
江神さんへの夢見すぎっぷりとか、もう度し難いのですが、どうしようもないです。(開き直りやがった。

タイトルはCocco「セレストブルー」です。神の住まう天界の青。で、Coccoお好きな方には次の話のタイトルもお察しいただけるでしょう(笑。
イメージ音楽はウタダの「Letters」「光」。「Letters」とか、アリス視点で江神さん30歳前に失踪にしか聴こえません。夢見過ry
対して「光」は江神さん視点のアリ江で。
ていうかメンタリティはアリ江アリです。肉体的にアリ江なのは、江神さんが自分からアリスにちょっかい出すように思えなかったからです。誰に対しても自分の欲望で攻めていくタイプに見えないという私見です。誘い受けか流され攻めとか・・・ええと・・・。

30歳前にして失踪は、私の頭の中では割とデフォです。初めて出てきた彼のバックボーンてのもあるけど、これは看過できないことだと思うので。江神さんならけじめをつけようと1人で立ち向かうんじゃないかと。で、失踪。EMC涙目。ていうか号泣。


高杉について悶々としていたのですが、マグマのごとく江神さんが降臨している状態で、近高そよをお待ちくださっている方には本当に不義理致しております。でも銀魂熱が冷めたとかじゃないですから!
て、これここで書いてもしょうがないよね・・・ブログでもお詫びします。

どれだけ好きでも全然書けない佐助(@BASARA)と違い、なぜこうも江神さんんを書こうとしてるのか・・・こういのってほんと不思議。
好きなのに書けない場合もあって、好きで書こうと悶えてる場合もあるし。

方言についてはほんともう・・・勘弁してください・・・。翻訳サイトハシゴ(マジ。


2009年04月06日(月) linoleum (有栖川有栖×江神)

 桜でも銀杏でも、大きな樹木がぎしぎしと伸ばした枝から花や葉を散らす様は、いつも彼を不安にさせた。



 「江神さん」

 「おう、アリスか。なんや、どうした」

 江神は静かな人物である。所作も、存在も。基本的には言動も。
 長身に見合った伸びやかな手足を折りたたむようにして、ゆったりと樹にもたれていると、さながら樹木に存在を溶け込ませるているような印象が強い。それを意図しているのかと勘繰りたくなるのは、江神は上背も高く、機能美そのものとも呼べるしなやかな筋肉を纏い、あまつさえ整った顔立ちをしているからであった。本来なら人目をひく容貌を持つ江神二郎という、その人がいつだって悠然と、或いは茫洋と周囲に埋没している様は、アリスには酷く不穏な気持ちを抱かせた。その名を、不自然という。違和感とも。
 「なにがです」
 キャンパス内で出会うことがそんなにも変わったことだろうか?と言外に込めて小首を傾げてみる。
 「いや、ええわ」と云いながら、江神が自身の眉間を細長い指で突付いた。アリスがそれを見て、自分の眉間に指先をあてる頃には、もう立てた膝の上に置いた文庫に顔を向けている。
 「授業はもう終いですか」
 そちら、の世界へ行ってしまっている様も、不安をざわりと掻き立てる。アリスは「僕はさっきので終いでした、学館にでも行こかと思うてたところです」と問わず語りをしつつ江神の横に腰を下ろした。読書の邪魔もせず、かといって存在を忘れてしまう距離でもない。
 アリスのこうした気遣いというか、対する人間に緊張や警戒を与えないところが江神は好ましいと思っていた。予め相手の心情に前置きをする配慮とでもいうか。もっとも、それをアリス自身は自覚しているのではなく、ごく自然に行っているのではあったが。
 比較的思っていることが表情や身体に出るわりには、それが押し付けがましくない。アリスにはつい余計なことまで話してしまう、という者が多いのにも頷ける。これはアリスの持つ愛嬌なり美徳だろうと江神は思いつつ、「そうか」と返した。
 自然体。
 ホメラレモセズ、クニモサレズ、
 ああ、賢治やな。と思ったところで江神は顔を上げた。アリスはキャンパス内を行き交う人の姿をぼんやりと眺めている。
 生来のものか、或いは。
 7歳下の、まだ少年の雰囲気を残しているこの生きものにも、何かそう振舞うようになる動機があったのだろうか。自分には知る由もないのだけれど。と、江神が散漫に思考をめぐらせていると、アリスがふいに江神に振り向いた。他者の視線に、自然に反応できること。それを哀しいものだと漠然と感じる。俺は傲慢なのだろうか?
 先ほどと同じく、否それよりも露骨にアリスが怒ったような不安なような表情を浮べている。
 「なんや。さっきから。なんかあったんか」
 さしたる抑揚もなく淡々と江神が言の葉を紡ぐと、アリスはぐっと思いつめたような目をして、俯いた。遠くの方で女生徒の甲高い笑い声が響いてくる。
 「べつに、云いたないんやったら、かまわんのや」
 江神はそう呟いて、傍らに放り出してあったキャビンを手にする。ふわ、と煙が横に流れて掻き消える。風が出てきたようだ。アリスはまだ俯いている。何かを見ないように。
 すると、ざ、と葉擦れの音がして、一層風が強くなった。江神の長い髪がゆるくうねって頬にかかる。煙草の火で髪が燃えることを厭い、するりと前髪をかきあげると、アリスがまた眉を歪ませて江髪を見ていた。
 「お前、変やぞ」
 ぱちりと瞬いて、咎める風でもなく江神が云うと、アリスは「変なのは、江神さんのほうですやん」とくしゃりと顔を歪ませた。
 これではまるで自分がいじめているようではないか、と片方は思ったし、これではまるで駄々ではないか、と片方は思った。
 





 なんだかあなたは、はじめから自分はいなかったとでもいう風に、極力さりげなく在るようにしていませんか。
 いなくなるつもりですか。
 どこかへ行くつもりですか。
 どこか、自分を知らない、縁もゆかりもないような、しがらみもつながりも薄いところへどんどんと流れて消えていくつもりですか。
 そういえばそないな奴おったなあ、と云われるような、そういうものにあなたはなりたいのですか。
 なるつもりですか。
   


 はじめからいなかったように? 
 季節ごとに去り行くもののように?







 アリスは、それらの言葉をとてもではないが云えはしないと唇を噛み締めた。口にしたら、それは立ち入りすぎで踏み込みすぎで、江神には「なにゆうとるんや」とあえかな笑いではぐらかされ、そして何かを確実に隔て壊すだろう。とてもではないが、云えはしない。
 図体ばかりは大きいくせに、頭だってよく回り、顔だってよくて、それなのにどうしてこの人はこんなに、こんなに絶望的に儚いのだろう。
 何が江神にそうさせているのかは解らないし、それは江神が好き好んでしている振舞いと表裏一体で切り離せないだろうとも思えた。
 尊敬と憧れと、敬慕の念が増せば増すほど、江神という人はあやふやに霧消していくような不安に駆られた。舞い散る花弁を掴めないように、はらはらととめどなく散ってゆく木の葉のように、観念とも諦めとも自棄のようにも思えるそれで、江神はそこに在るのに、何かをいつも落としている。
 その、あまりのあてどなさに、アリスは泣きたいような気持ちになった。
 江神の表情を髪が覆い隠す。なびいて、江神がどんな顔をしているのか判らない。
 「えがみさん」
 思わず名を、呼ぶ。本当は縋りつきたいくらいの焦燥がアリスの中にはあった。

 
 「飯でも食いにいこか」
 江神が煙草を揉み消して、それをパッケージとそれを包むフィルムとの間に押し込んだ。
 腹が減ってるわけじゃ、ないんだけどな。
 それなのに、この人が、自分を、他人を気にかけることがこんなにもうれしい。まだ、こちらにいてくれるのだと思えるから。











END



初、有栖川。
SSSみたいな。超ミニ話。
もうね、江神さんがね、好きすぎてやばいってことなんですよ。
あまりのことにアリスまで巻き込まれて儚くなっちまいますよ、そりゃもう。江神さんの儚さってなんか異常。存在が異様。まったく異様さを感じさせないのが、異容。なんなの、この人。どうしたらいいの。どうしよう。
ルサンチマンとかトラウマとか弱さとか脆さとか抱えて、それでギラギラしたり毒吐いたりしそうなイメージの火村にさっくりハマったほうがまだ救いがあった気すらする。いや、それもどうかな。
ていうか私の中では江神さんは168センチくらいで、ちょっと猫背で、別に美形でも何でもないもっさりした風貌を想定していたのだけど、長身で体格のいいイケメンとかなんだそれは。何事だ。大変なことじゃないか。勘弁してくれ。
誰か、江神さんをなんとかしてくれ。
で、何故か江神さんの風貌によつばのとーちゃんのイメージが強いのもどうにかしてくれ。
なぜだ、髪が長いからか。そして私が当初想定していた風貌に近いのがよつばのとーちゃんか。なので、なぜか、志度の風貌にヤンダをイメージしている自分とか、違う!やめてとめて!全部妄想なのに!>月光ゲームしかまだ読んでいない。
元絵描きの意地なのか、ちょっと江神さんを自分の絵でイメージさせることにいやにムキになっています。躍起。
本当はアリス視点で書く予定だったのに、書き始めたら江神さんが意外と喋るので驚いた。でも私には彼の視点や思索や視座は書ききれないんだろうに・・・どういうことかな、これ。

BGM:ハナレグミ「家族の風景」
 
あ、あとあれ。
生粋関東人の鉄火には、関西方面の言葉の出てくるジャンルは鬼門です。
大阪も京都も奈良もわからないよ・・・!!!
大阪の言葉なら友人に訊ける・・・か。うん。
方言で親和性が高いのは博多弁です。ネイティブに間違えられたこととかある。 
 
もう坂本や陸奥の方言だけでいっぱいいっぱいなのに・・・!すきだ、江神さん、すきだ。なんかもうやばい、しんどくなってきた。好きで。




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