銀の鎧細工通信
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2007年07月17日(火) 光りのすあし (伊東×土方×伊東)

 窓外で風が吹き荒れている。閉め切った雨戸ががたがたと鳴り、強い雨足が吹き付けている独特の音も耳に入った。外は嵐だ。ばたばたと雨が、打ち付けている。びょう、だの、ごう、だの唸りを上げる化け物が建物を取り巻いて吠え立てるような。
 「何呆けてる。」
 あまり低くない声が、重低で響く唸りと対照的な鮮やかさで、近くでも遠くでもないような距離から放たれる。表が見えるわけでもない窓から面をそらせば、珍しく少しばかりくだけた姿勢で腰掛けている男が目に入った。
 通常ならばきっちりと正座し、きっちりと背筋を伸ばし、襟元を緩めることもしない。それが今はどうだ。上着を袖を通さずに肩にかけ、襟をくつろがせて片膝を立てている。土方は、こういう方がいつもより物静かに見える、と感じた。あまりに几帳面に座している姿は神経質そうな面を過敏に見せたし、触れれば弾かれそうな緊張感を敢えて演出しているのかも知れなかった。それを「神経の細そうなこった」と片眉だけを上げる仕草で揶揄もしたし、そうすれば男はいつも「礼儀作法の心得もない粗野さではな」と流し目を寄越して冷笑した。
 「そういうほうがいいぜ。ちったぁそれなりの人物に見える。取り繕いは十八番だろう?」
 手にしていた猪口に薄い唇をつけながら、土方は目で嘲笑う。それを真っ向から受け止め、小ばかにした風に鼻で笑うと「振る舞いを心得ていると云ってほしいものだ。回る知恵を持ちながら、使いこなそうとしない輩ほど暇ではないのでね」と澄んだ声音で澱みなく応える。
 ふっと感じた違和感を悟られぬよう、土方は酒瓶に手を伸ばした。何か調子が狂う、と心の奥底から鎌首をもたげた警戒に気を払う。こんな風に、皮肉交じりとはいえ、自分を評価するような発言をむやみにする男ではない。土方を買っているとは口にした。それはいつも「お前が大嫌いだ」という、口に出しても出さなくともお約束の了解があるからである。雨の気配をまとって、どこか少し柔らかな雰囲気に見える男を探るように窺う。目線だけで「何だ」と問われたので、土方は手にしたままの酒瓶を男の猪口に差し出す。
 「珍しいな。嵐だからか?」
 屈託に満ち満ちた薄い笑いと口調でもって尚、この柔和さはどうしたことか。疑心を隠さずに土方は顎で猪口を出せと促した。身を乗り出した時、男の動きに常ならぬものがあった。それは思わずぎょっとするほどの違和。酒瓶の口へと伏せていた目を、見開いたことに気が付かれただろうか。それとも肩でも震えただろうか。土方は身構えたが、男は何も云おうとはしなかった。それどころか、一切の無駄な動きを厭う筈なのに、この男にしてみれば雑なほどの大らかな動作でついと猪口を差し出す。身体のバランスを取れていないかのような無造作な動きを、男は気にしていない顔でいる。
 「野暮天に気が利かないと思われちゃたまらねぇからな。」
 気まずさと、調子を狂わされていることを払拭しようと悪態を吐く。水の様に透明な、けれど芳香が瑞々しい酒を呑み下すと、男は喉奥で笑ったようであった。
 「君の粋者ぶりは男に限ってじゃないか。どちらが野暮だか。」
 「妙な云い方すんな。」
 「女性にそつなく振舞う事など出来ないだろう?」
 胸ポケットを探り、煙草を出すと断りも入れずに火を点ける。深く吸い込んでは、細く鋭く煙を吐いた。
 「やけに絡むじゃねぇか。そういうお前はどうなんだよ、奥手のお坊ちゃんが。」
 行灯の弱い光源で、土方の灰色がかった目は角度によって赤く閃く。男は真顔のまま、どこから出したのか灰皿を片足で土方に押して寄越した。骨が細いのだろうか、華奢な足をしている、と灰皿を手元に引き寄せながら思った。そもそも俺はこいつの素足なんか見たことがあったろうか。土方は少しばかり記憶を探ったが、私服すらも見たことがない気がした。日に焼けていない素足は白い。骨の様に。
 「喜ばせてやるのも、失礼に当たらないだけのこともこなせるさ。だけど大して関心はないな。」
 感情のこもらない声を聞きながら、土方は物珍しさから何とはなしに足を眺める。行儀悪くも灰皿を足で押し出したまま、投げ出されている骨の浮いたくるぶしは球体関節じみてすら見えた。何かが不安定な、危うい骨格に見えた。
 「女はお嫌いかい。」
 「女も男もどうでもいいだけだ。」
 足を眺めていたので、男が土方を見つめていたことには気が付かない。男は息だけで笑う。気が付かない振りでも、本当に気が付いていなくとも、どちらでも良かったのだ。
 「君もそうやって大人しくしている方が利口そうに見えるな。」
 「人を犬みたいに云うんじゃねえ」
 今度は声とも音ともつかないものが混じった。土方は煙に目を細める振りをして眇めた眼で男を見た。俺は、こいつの笑い声を聞いたことがあったか?皮肉の入ったものではなく、こういう普通の笑い声を。また自問してはすぐさま否、と結論付けた。何かがおかしい。それは俺か、こいつか。
 「だって犬じゃないか、違うか?」
 日頃自分が”幕府の犬”と吐き捨てられることを思えば、答えは迷うまでもなく応である。土方はそのことに何がしかの憤りや屈辱を感じるほどに、その地位に執着はなかった。大事なものは別にあったし、侮蔑の言葉などにそれが少しばかりの影響も受けないことを確信していた。だから土方は何とも思わない。
 「まあな。幕府の番犬、上等だ。じゃあお前はどうなんだ。」
 少しも揺るがない、そういう貌で挑むように口角を吊り上げた。その不穏な表情に煽られた様に風が勢いよく唸りをあげた。雨粒が銃弾のように雨戸を叩く。
 「さあ。犬ではないな。」
 なれもしなかった。素知らぬ顔で、喉の奥で呟いただけの言葉は当然土方の耳には届かない。雨が鉛の玉の様に、激しく打ち付ける。
 「は!お綺麗な矜持だ。それで飯が食えりゃ苦労ねえ。」
 咎める風でもなく、からからと笑い声を上げて酒を注いだ。ついでに男の猪口に注いでやる。かすかに首を動かして返す礼に、土方は改めて男の育ちのよさを感じた。自分には無縁なものではあれど、それはいいことだと思った。本人がどう捉えていても、単純にいいことだと。
 顔を上げた時に視線がぶつかる。どうやらじっと眺めていたようであった。今度は土方が目線で「何だ」と問う。
 「君が笑っているのを間近で見るのが初めてだったから、薄気味悪いだけだ」
 淡々とこぼす言葉は皮肉なのか本気なのか判別しがたく、土方は吹き出した。くつくつと笑みを浮べる。酔いがまわってきているのだろう。
 「そりゃどうも」
 「やはり子どものような笑い顔だな」
 むっとするよりも、驚くよりも先に、咄嗟に先ほど感じた言葉が飛び出た。あっけらかんと耳をうつ声。
 「お前こそ、ガキみてぇな笑い声たてるじゃねえか」
 あまりに素直な云い草だったため、土方自身も、男も目を丸くした。
 「それは心外だ。酔っているんだろう。」
 こちらも華奢とはいえ、それなりにごつごつとした指で、思わず笑ってしまっている口元を隠す。気恥ずかしいとでも云うような、無防備な仕草で。
 「酔ってねえ。ほら見ろ、ガキみてーな無邪気な笑い方だな全く。」
 「気持ち悪いぞ。いい歳してバラガキのまんまの笑い方の男に云われたくないな」
 涼しい顔をしていた男も酔っていたのだろう。2人とも何が可笑しいのかよく判らないままに、警戒と挑発と揶揄の色を浮べようとしては頓挫して、そしてまた屈託なく笑ってしまっている。雨足の激しさの音が遠ざかったかのように、静かで穏やかな室内を行灯の火が揺れた。
 照れ隠しと強がりと見栄と、もう刺々しい腹の探り合いなど出来なくなりつつあって、けれど2人はそれ以外のかかわり方を知らない。いつも通りの遣り取りの中に、これまで通りの低音火傷を起こしそうなほどの怜悧さは溶けた。それでも氷の塊がなくなったわけではない。今に限ったことだと土方は思っていた。こんな風にこの男と話すのは初めてであったし、何かのついでだ、今はこれでいいと決めた。
 
 どれだけ刻が経ったのか。随分長い時間呑み交わしていたようにも思えたし、大した時間も経っていないように思えた。男が整った面に、困惑とも苦渋とも満足ともつかないものを浮べていた。
 「どうした、」
 吐きそうにでもなったか、という軽口はその表情を前にして、云わないまま舌の上で消えた。
 「こういうのを、望んでいたのかな・・・?」
 自問とも付かない、脈絡のない問であった。男は眉間に皺を寄せた後、判らないとでも云う風に首を振って息を一つ吐いた。
 「何が・・・」
 ひた、と土方を見据えた後にまた小さく首を振った。呼吸は今、わなないただろうか。急に鼓動の音が耳障りなほどに大きくなった。じわりと汗が滲む。土方は何か云わなければと思った。
 「おい。ま、」
 言葉が続かない。強張ったように、その続きが云えない。
 続きを察したかのように、男は更にかすかに首を横に振った、かのように見えた。薄く微笑んでいる。ああ、また幼い子どものような笑顔だ。透きとおった笑顔だ。
 猪口を煽ると、すっと軽く立ち上がる。酔った風で、あんなにも穏やかに、幼くすらある気配まで漂わせていて、その酔いなど微塵も感じさせない確かさ。
 「僕は、君になりたかったわけじゃない。」
 はっきりと口にした言葉の、決然とした響きに瞠目した。いつも通りの冷静な表情だった。これまでとの温度差に、土方は追いつかない。否、理解しているし、確かな実感は掌にも腕にもこみ上げてきていた。
 僅かに両目を眇め、くるりと踵を返した男を追おうと立ち上がる。
 「意味がわかんねーぞ、云うならちゃんと云え。」
 掴もうと伸ばした掌は空をきった。掴み損ねた隊服の袖が、ふわりとなびく。土方の顔が僅かに歪んだ。本当に、かすかに。掌の中の感触がより強固によみがえる。
 「解らない?本当に?・・・僕の見込み違いだったか、残念だ」
 言葉の割には惜しむ風でもなく、涼しげな笑みを浮べながら、男は引き戸に手をかけた。雨に濡れて重くなっているかに見える木戸は、音も立てずにすべらかに開いた。外の景色はよく見えない。薄暗い荒地のようにも見えた。吹き込んだ強風に土方が咄嗟に目を細めると、その隙に男は土方に真っ直ぐ向き合っていた。
 「僕の、見込み違いだったか?」
 荒れすさぶ風と雨は容赦なく土方を打った。男の、中身のない片袖がなぶられたようにはためいている。男は不思議なほど静かに佇んでいる。雨も風も感じないように。薄く燐光を放つように白々とした肌が、暗闇の中でほのかに明るい。男は愉快がりながら、確かめるようにもう一度同じように問うた。
 「俺をなめるな。」
 眉を寄せ、きっぱりと顔を上げて土方は応えた。男が満足げに頷いた。
 「その足で行くのか。」
 「僕にはもう、必要ない。」
 






 嵐の中を滑り出た男の脆そうな足は、見た目に反してしっかりと歩いていった。歩くほどに、ずれて曲がって逸れていってしまいそうな、そんな危うさはもう、微塵も感じさせなかった。無理矢理に張り詰めて歩いているような様子も、心もとなく寂しげに足を進める様子もない。確かな糸で固定されたように、白いくるぶしは滑らかに嵐の中を歩いて消えた。一度も、振り返らなかった。
 土方は瞬きを堪えて、その後姿を見つめていた。雨は血しぶきの様に重く身体をぬらしたし、風は圧し折ろうとせんばかりに殴りかかってきた。瞬きの一瞬すら逃すまいと、微動だにせずに見つめた。これが、最後だ。











 何を云っても、もう遅い。
 何を願おうと、もう遠い。
 願ったものはなんですか。
 望んだものはなんですか。
 欲しかったものは?
 ずっとずっと、求めていたものは?
 はるかな闇に、祈りの声もかき消えた。








 裏切りの報いが、知ることだったのか。
 汚い企てで惨めに死ぬ救いが、気付くことだったのか。
 救いなど何処にも無いと、とうに知っている。
 それでも「わかった」という風にあなたが云うから。
 本当は独りじゃなかったと、思い知らされながら、
 僕はあなたに斬られて死んだ。
 



 




 果てしのない虚空にその姿が消えた。
 「俺が、殺した。」
 呟く犬の目が、赤く揺らめく。 


















END


あいー。伊東×土方、というか伊東と土方?途中から土方×伊東
なんじゃないのかコレ、と思いもしました。
初書きで死の話でした。
原作で死んでしまっている以上、自分でも消化しておかないと
書けない気がしたので。
書いてみて、うわあこりゃオチがつかないわ、と痛感しました。
結果的に伊東は納得いく最期を迎えたでしょうが、本当は
生きて、あんなことになる前に気がつけたらその方が
願わしかったでしょうから。
なんか、なんとも云えません・・・。


伊東は狡猾な蛇のつもりだったのかも知れない。
伊東は主も枠も食い破る狼のつもりだったのかも知れない。
伊東は犬になりたかったわけでもなくて、なれもしなかった。
伊東は何にもなれなかった。何者にも。
取り返しのつかない最期の最後で、ようやく得た。
それは幸せなことだったのだろうか?



土方の色素薄い目が赤っぽく光ると云うアイタタな妄想は、
だいぶ前の初期SSの銀土で書いているものです。
「赤い雷と黒犬」です。

土方には、あまり語らせたくなかったんです。
後悔もしないだろうし、あの時迷いもしなかったと思う。
辛くないはずはないけど、それを表には出せない状況で、
出せない人だと思うので。
とにかく全部、背負うことだけが、もう全てだと。
うちの土方は泣きもしません。むしろ泣いちゃだめでしょう・・・。

余談ですが、伊東はアジカンが似合うと思いました。(笑
青臭い感じの、葛藤や悶えが、なんかしっくりきました。
たまたま聴いていたら、案外しっくり。「夏の日、残像」?とか。

あう。伊東・・・切ないです。


2007年07月01日(日) レクイエム (BASARA2 かすがと半兵衛)

 苛烈で儚い、美貌の男は刻み付けるように口にした。





      『乱世が終われば、忍は捨てられる運命だ』





 そう艶然と唇に乗せて、酷薄に放たれた言葉は刃。

 云われるまでも無い、わかっていること。だから、わざわざ云ってくれるな。知っているから、解っているから。
 今更事実は要らない。怯えながら殺し、怯えながら生きていた。
 どんな理由であれ、そこへ手を伸べ、そっと抱き締めてくれた人に会えた。大事なものを扱うように、そっと包んでくれた、笑ってくれた。それだけでもう充分。
 

 今更もう、戻る気の無い現実になど、
 戻らないまま 私は死のう。
 ただその時までは何度でも、あの方の元に、生きて帰ろう。
 あの方の知らぬところで、うつつの夢を食むことのなきよう。
 

 この身は忍びの性。仕えたい者の傍らで死ぬことなど有り得はしない。願うだけなら、夢を見るだけなら。そんなことも持たずに在るべきなのだ、と経験則が片隅で警鐘を鳴らす。だが誰に赦されなくとも構いはしない。どの道帰る場所は捨てたのだから。
 気配に気がつき、ふと目を開けば物静かな笑みを湛えた主が屋根の下から見上げていた。
 「おまえはほんとうに、つきのひかりがにあいますね」
 応えた笑いはきっと震えてしまった。
 (そういう風に、生きてきました。そういう風にしか、生きられはしないのです)
 飲み込んだ言葉は、おそらく見抜かれてしまっている。けれどかすがも、抜け忍である自分への追っ手が上杉領に迷惑をかけぬよう、出歩き続けることを、言外に案じて探しては見守る謙信の思いを見抜いていた。
 (人間として扱われるのは、一生に一度だけでいい。それで充分すぎる。こんな風に、扱われて・・・私は何をお返しし切ることができましょう)
 いつだって微笑みには、同時に涙を堪えなければならないような日々。そもそも笑いなど無用な生の者が、笑って見せることの異常さ。それも全て、おまえはえがおがいちばんうつくしい、と笑ってくれるから。
 (それが、あなた様への何かになるのなら、これは私の精一杯)
 「ひとりでばんしゃくはもったいないほどのつきよです。つきあってくれませんか」
 「御意」
 ひらりと舞い降りれば、冴えた月が白く輝いていた。こんな明るい夜に追っ手はかからない。ふ、と吐く息の重みで数を思う。あとどれだけ・・・かすがは昔から思っていた。あとどれだけ殺せば、私はもう殺さないで済むのか。あとどれだけ殺せば、自分は楽になれるのだろう。今は違う。あとどれだけ、傍らにあることを赦されるだろうか・・・身の程知らずな願いは、瞬きと共に暗がりへと消した。自分の闇の中へ。
 (私が要らなくなる世の中が、本当の平和の世界)
 諦めることで得る安堵が、ひっそりと息づく深い闇。



忍は影。
草に埋もれて人知れず息絶えて、その残骸も全て闇に溶けて消える者。
鳥や獣に食い荒らされ、蟲が我らを消してくれる。初めから無かった様に。
初めから、居なかった様に。
影は夢。
自我など不要。感情は無用。
刃は悩まない、
影は迷わない、
夢に実体は無い。
その技能で報いることが存在の全て。
主従に情など、本当は必要が無い。


 いつだったか。まだ里に属していた頃、よく云われたものだった。
 『なまじ才が有るが、お主の不幸』
 『いっそ男で、武士であれば』
 『草の者の才に恵まれねば』

 「詮無き事」
 男として生まれ落ち、正々堂々と戦場を疾駆できたのなら、そのほうがさぞ潔く心安かったろう。忍ぶことを至上とするには目立ちすぎる風貌であるのはどうしようもない事であった。気質にしても、日頃の冷静さは一度堰を切れば燃えさかるように激しいことにだって、流石に自覚がある。忍の才すら持ちえておらねば、自分は浮かれ女か白拍子になっていたであろう。同じく人のために心身を切り売りするのが生業ならば、誰の思うままにも弄ばれぬ殺しの道具である事のほうが自分には救いであった。春を売る女たちを卑しくなど思っては居なかったが、自分は身も心も殺せるほどには割り切ることが出来ないであろう。ならば、心のみを殺す方が楽なはずだ、かすがはそう思ってきた。はじめから選択肢は無かったのだ。
 日増しに豊かに満ちてゆく己の女の身体は重く煩わしく、ごつごつと骨張った身体よりも、木々に紛れる事の困難を思い知らされる。輪郭が違うのだ。けれど、かすがは迷う事は無かった。自分のやり方で忍び、自分の身体一つが唯一の武器なれば、その扱いに慣れればいいというだけの事。

 迷うな、迷えば鈍る。惑うな、惑えば緩む。
 
 幼い頃、同年輩の里の子等に「お前みたいな目立つ髪で、忍になんかなれるわけねえ」と散々に引っ張られては囃し立てられた。泣くまいと堪えながら、夜更けに独りで髪を落とした。それ以来、長いことかすがは丸坊主の姿をしていた。再び金糸の透き通る髪を伸ばすようになったのは、同輩の間でかすがより腕の優れる者が居なくなった時であった。
 
 切り捨てる事で強くなれるのならば容易き事。持たぬものを得ようと足掻くことの方が、余程険しい。持てぬものを欲して願うことの方が、余程苦しい。
 嘆くな、嘆けば衰える。怒るな、怒れば疲弊する。
 
 ただ侮られまいとあれ程意固地になっていたのは、何を求めていたからなのか。それが己の矜持を守るためだったのなら、そもそもかすがは自我を滅する道具には初めから致命的に不向きなのである。
 殺すことは怖かった、殺されるのも怖かった。けれど、選択肢ははじめから無かった。はじめから無かったのだ。どちらも怖いから、消極的に生きては積極的に殺してきた。それだけ。

 ・・・昔の夢か。
 ふ、と薄く透ける月光の睫毛を震わせて瞼を開ける。薄掛けをはいで軒の方へ向かう、襖を開ければ大きな月が浮かんでいた。かすがは月を見るのが好きだった。明るい中で佇むことなど、忍びとして非常識な振る舞いだと教え込まれていたが、潜んでいる最中はどうせ気配を殺している。露見しなければ困ることなど無い。美しいものに心を慰められることは、彼女の無意識の行動だった。ただ「美しい」と、それだけで、醜いことを考えずに済んだから。心が凪ぎ、静かに物思いにふけることが、それすら必要としない境地の者こそが真の忍びなのだろうと解ってはいた。
 (あの男は・・・ああ云ったけれど・・・)
 本気でなかった、と目を伏せた。乱世が過ぎようとも、この世の醜さは途絶えることは無いのだろう。おぞましい身内同士の謀、蹴落としあい、隙を見せれば乱世の残忍な埋火は、また幾らでも激しく燃えさかる。
 (みな、願うように生きたいからこそ、だ)
 この世に焼け野が原のような圧倒的な平等が無ければ、おそらく忍びは必要とされ続ける。光があれば影は生まれ、光が強いほど影も濃くなる。ならば忍びは消えられはしない。
 (竹中半兵衛・・・それが解らぬ者ではなかったろう・・・お前は何故、敢えて私に問うたのだ)
 謙信の望むような世界が訪れて尚、血なまぐさい影を見るのがかすがは怖かった。ならば天下を得たと共に、あるいはその前に、死んでしまいたかったのだ。謙信が消えぬ炎を嘆くほど弱くないことなど承知していたが、泰平などまやかしだと突きつけられるのが怖かった。何度でも、また何度でもこの世に絶望するのは、希望と光を知ったが故に哀しいものだと思えて怯えた。血まみれの身体、毒まみれの血をめぐらせて。何食わぬ顔で平穏な日々を生きていけるとも思えない。戦の炎に焼き尽くされた方がいっそ楽と思えるほど、世界は戦に満ちている。絶望に屈する前に、平穏に狂う前に、謙信の役に立ってつるぎとして折れたいと願った。
 (甘いのは、解っている。お前は、それを咎めたのか・・・?)
 白く輝く月の光は、半兵衛の髪の色に似ていた。自ら屠った者の言葉は二度と聞けない。きっと、本当の平和など有り得はしないし、ならばこの身が無用と捨てられる日も来ないのだ。救いと絶望の間で、かすがはぞくりと震える。
 (自分がいなくなることを願いながら、それでも生きていたいと願うことを咎めたのか・・・?)
 「仕方ないだろう、私は忍びだ」
 かすがはぽつりと月へと呟いた。戦場で見えた細身の男は、哀しいほど静かで覚悟に染まった目をしていた。紫水晶のような深い目の色も、銀糸の髪も、美しかった。
 「お前を、斬ったことを悔やんではいない・・・だが」
 かすがの惑いと恐怖を振り払うほど、切実に執拗に半兵衛は語りかけたのだ。こんな世界はもう御免だ・けれど生きてあの方のお役に立ちたい、引き裂かれ分裂する中、混乱しながら走り続けていた自分を、その白金に輝く剣の切先でおしとどめた。静かに、狂おしく。
 「・・・感謝している・・・」
 生きる世界が違う。だのに、どうしてあんなに。
 (きっとお前も、何か闇を自分の中に宿していたんだな・・・)
 それが何かはわからないし、きっとああして出会わなくとも知りえなかっただろう。それほどに生きものとして、違うのだ。
 かすがは無意識のうちに歌を口ずさんでいた。ちいさな、ちいさな声で子守唄を。自分が誰に歌ってもらったのかも覚えていない、か細い歌を。
 



 私は忍びだ。
 だけど迷う、惑い、嘆き、怒りもする。
 殺したくない、殺されたくない、
 だけど、謙信様のお側で生きたい。
 こんな無様なつるぎとして、その扱いに長ければいいだけのこと。




(およそ忍びらしくない忍びだ・・・・・・あいつのことは云えないな)
 人のことを云えないほどに、主を守るべく自分を道具だと心を殺し、そのくせよく笑っては見せる、赤い髪の忍びを思い出す。
 (竹中半兵衛、お前が咎めたくなるような忍びはまだ、いるぞ)
 歌を紡ぐ唇が、かすかに持ち上がる。歌うなど、覚えている限りではなかったことであった。はじめてのことのような新鮮さが、かすがの気持ちを慰めた。どうして、道具になりきれないのだろう。わだかまりはおそらく消えることは無い。


 (私はお前ほど口がうまくないし、云ってやる義理も見出せないから、云ってなどやら無いけど)





 (私もあいつも、生きて働き続けられれば、いいことだ。主の側で)





 (全く甘いものだね、と云いたいか・・・?)



 見上げた月は、銀の光でかすがに降りそそぐ。2人目に、自分の恐怖を払いさった人。その細い髪と刀の閃きに似た光。
 矛盾だらけの中で生き、人にあらずと思えども思えども、哀しいかな生身の人間。選択肢はなかった、これからも無い。安穏とした日々を希いながら、その中には自分はいない。
 (死にたがるのは容易いことだな・・・どうあっても、生きることを) 
 








 『今日はなけなしの歌を歌おう』




 『これは私からの精一杯のレクイエム』



 『あなたへ最後に贈る歌』








END

タイトルと『』の引用は柴田玲の「レクイエム」より。
もとは失恋らしき歌ですが、かすがちゃんっぽさがあって。


にしても、こんな風に半兵衛を出張らせる気は無かったのです。
むしろひたすら謙信様と穏やかで幸せで、だからこそ切ないものを想定していました。や、書けるかは別問題です・・・ので。
しかも書きながら、うーんこれは佐助と真田でもよかったんじゃ・・・と思いがよぎる瞬間がありました。
もっとも、佐助はきっと多くのものを割り切ろうと諦めようと執着しないようにと、努めているのが癖にすらなっている気がしたので・・・そこは、かすがちゃんの方が素直で強いと思っています。
かすがちゃんは迷わずに「謙信様が大事だ!」と云えるけれど、たぶん佐助は云わない。「旦那は俺様の主だしねー」とか、「俺様のお仕事だからさ」とか、そういう云い方を選ぶでしょう。
生きていく途中で、偶然にも「この人!」という謙信様と巡り合えたかすがちゃんは、里も仕事も裏切っている分迷う余地も捨てたけれど、佐助は仕事の範疇から逸脱した情と、逸脱を赦さない部分があるんだろうなー・・・。
私の中では佐助の強さは脆さとかなりきわどいところにあります。土壇場ではかすがちゃんのほうが強いといいな。
風魔が空ばかり眺めているのも・・・彼が人間だと強く思わせられて切ないです。忍びって、本当に遣る瀬無いなあ・・・。
忍び妄想はキリがありません!
これにて、どろん。

BGM:柴田玲 「レクイエム」



 
 
 
 


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