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JIROの独断的日記
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2005年10月12日(水) 杉原千畝氏の話はそのまま素直に感動すればよいのである。

◆日本人だけが、ケチをつけたがる、杉原千畝氏の物語。

 

 日本テレビでドラマを放送していた。

 Googleで日本語のサイトを「杉原千畝」で検索すると、約53,700ページヒットする。 

 検索結果を見ると、数件目に、「ねつ造」とか、「政治利用」などの文字が目に入る。

 世の中には、このような美談を聴いたり、読んだりすると、なんとか、ケチをつけたくなるひねくれた人がいるようだが、非常に卑しいと思う。

 こういう話は、あら探しをしないでいいのだ。 例え、杉原の行為を外務省が黙認したとしても、杉原が後で受勲していようがいまいが。



 英語で検索すると、35,400件である。

 英語の検索結果を見ると、細かい事はさておき、とにかく、杉原はユダヤ人を救ったのだ。その事実は変らない。と賞賛しているのが大勢を占める。

 私は4年以上前に、たまたま、アメリカのソルトレイクシティ(ユタ州)の"The Salt Late Tribune"という新聞が、過去何度も杉原千畝の話を掲載して、讃えているのを見つけた。

 但し、11年も前(1994年)の記事なので、5ドルぐらい払って買わなければならなかったが、それぐらいどうでもいいから、何としても読みたかった。

 これは、日本では諸説紛々としているのを承知の上で、それでも手放しで、杉原氏を賞賛していて、胸が熱くなる。

 無論、ユダヤ系のアメリカ人が書いた記事だろうが、それはつまり、「杉原の命のビザによって救われたユダヤ人とその子孫が、杉原氏の死後、なお、感謝している」ことを雄弁に物語る。

 当時の米国政府が日米関係に考慮してこの記事を書かせたとは思えない。

 何故なら、ユタ州のソルトレイク・トリビューンですよ。完全な田舎新聞(失礼だが)である。

 広報的意図があるなら、NYタイムズとかワシントンポスト(これらも勿論杉原を取り上げたことがあるのだが)を使うだろう。

 したがって、この記事は、完全なる善意(感謝)によって書かれたと考えるべきである。


◆記事:「杉原千畝、自らの職を賭して、ユダヤ人の命を救った、物静かな英雄」(1994年3月24日付 Saltlake Tribune紙 翻訳)

  

  1940年の初夏のある日、リトアニアに駐在していた日本人外交官、杉原千畝は、早朝5時15分、窓の外のざわめく音で目が覚めた。

  そっとカーテンの隙間から外をのぞいて、彼はひっくり返るほど驚いた。そこには何百人という外国人がひしめいていた。

  杉原は、何か暴動が起きたのかと勘違いして、妻子にクローゼットの中に隠れていろ、と少々狼狽気味に言った。

  彼は、あたらめて、領事館の外の人々を見た。彼らに、自分(日本)に対する敵意は無かった。彼らはただ、絶望していた。

  彼らの目は真っ赤に充血して、幾晩も寝ておらず、疲れ切っているようだった。髭が伸びきった老人、まだ幼い少年。赤ん坊を抱いた母親・・・・。

  彼らは、杉原の姿を見つけると、祈るように、黙って手を組んで哀願する意思を示した。

  この人々は、迫り来るナチスから逃げようと必死の、ユダヤ系ポーランド人達だった。 



  ユダヤ人達にとって、杉原だけが生きながらえる最後の頼みの綱だった。

  ポーランドからヨーロッパの他の地域への出口は既にナチスによってふさがれていた。

  唯一の逃げ道は、リトアニア経由でソビエトの奥地を通り抜けてウラジオストクに行き、そこから日本へ渡るルートだった。

  彼らの願いは杉原に、普通の人間は一生経験しないほどの辛いジレンマをもたらした。

  人としての良心と国家の命令との板挟み。

  生と死。

  ユダヤ人にビザを発行することは、「ユダヤ人に構うな」という祖国の命令に背くことになる。

  当時40歳の外交官だった杉原は、東京の本局に3度至急電報を打って、ビザ発行を許可してくれるよう申請した。3度とも拒否された。

  彼は、ずっと後、死の前の年に、在日米軍の新聞、"Stars and Stripes"紙のインタビューに答えて、こう言っている。

  

 「私は、何とかしなければと、思いました。ユダヤ人達はもしナチスの手にとらえられたら、どれほど恐ろしい運命が待ち受けているか、と私に向かって必死に訴えました。

  私は彼らを信じました。そして、彼らを助ける以外の選択は無い、と考えました」

 「私は倫理的な見地から考えなければいけないと思いました。私が彼らを突き放せば彼らは殺される。しかし、私は命令に背いてもクビになって、帰国するだけです。選ぶ道は明らかでした」



 杉原は、1940年7月31日から28日間、日本政府が杉原にリトアニアからベルリンへの転勤命令を出すまで、手書きのビザを書いて、書いて、書きまくった。

 朝から晩まで、一人一人と面接して次々にビザを発行した。あまりの重労働に彼はみるみる痩せ、衰弱した。

 杉原の妻、幸子(ゆきこ)までもがストレスで参ってしまい、生まれたばかりの子供の面倒を十分に見てやれないような状態になったほどだった。

 しかし、それでも、杉原はベルリンへ転勤するため、領事館を引き払いホテルに移ってからも、そして、ドイツへ向かう列車に乗ってからも、最後の最後まで、ビザを書き殴り、窓越しにそれを待つ人たちに渡した。

 彼が書いたビザは合計約1600枚だったと推定される。しかし、一家族には一枚のビザで足りるので、これにより、6000人のユダヤ人の命を救ったのだ。 

 ベルリン行きの列車がついに動き出したとき、杉原はユダヤ人に向かって深々と頭を下げて謝った。 

 
「残念ですが、これ以上書けません。申し訳ない。皆さんの無事を祈ります」

 幸子夫人は今でもその時、残されたユダヤ人のショックの表情を忘れられないという。それでも、列車が動き出した時、誰かが叫んだ。

 「ニッポン、バンザイ!」

 「杉原さん、私たちは絶対に貴方のことを忘れない!」

 ユダヤ人難民は皆遠ざかる列車に向かって叫んだ。

 「また、会いましょう、必ずね!」 

 殆どのユダヤ人は、2度と杉原に会うことは出来無かった。しかし、彼を忘れる者はいなかった。

 マサチューセッツ、Farmingtonで既に隠居しているメリヤス商、サミュエル・ミンスキーさんは、杉原のビザのおかげで、母と兄弟と一緒に日本を経由してアメリカに移住出来、アメリカで父にも再会出来た。

 「皆、シンドラーの事ばかり話題にする。しかし、彼はユダヤ人を彼の工場で、ただ同然の労働力として働かせたのです。

 勿論、シンドラーを否定はしません。しかし、我々はもうひとり、信じがたい善行をただ、自らの良心に基づいて実行した偉大な人物を忘れてはなりません。」

 「杉原は、彼の行いにより、カネを儲けるどころか失ったものの方が遙かに大きいのです。彼の善意がなかったら、私は、絶対に今ここでこうして生きていられなかったでしょう」

 杉原は控えめな人で、自分の英雄的行為について、自分の兄弟にすら、何十年も話さなかった。だから、彼は日本では何の評価も受けていなかった。

  杉原は、この世を去る前年、こういった。 

 
「彼ら(ユダヤ人難民)は紛れもなく、人間なのです。その彼らが助けを求めてきたのです。私は、あれを実行するだけの決心が出来たことを嬉しく思います。日本人にとって、これは当たり前の事をしたに過ぎないのです。」 



◆コメント

 コメントは、要らないでしょう。


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