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JIROの独断的日記
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2005年07月12日(火)  「<国語世論調査>慣用句は20代以下の方が正しく使う!?」←日本語の運用能力について。

◆記事:<国語世論調査>慣用句は20代以下の方が正しく使う!?

 

 慣用句の「青田買い」や「汚名返上」を使う際、本来の言い方ではない「青田刈り」「汚名挽回(ばんかい)」を選ぶ人の方が多く、全体の4割近くに上っていることが、文化庁が12日に発表した「国語に関する世論調査」(04年度)で分かった。「やばい」「微妙」という言葉が会話の中で、若者を中心に新たな意味で使われている実態も数字で裏付けられた。

 調査は今年1〜2月、全国の16歳以上の男女3000人を対象に無作為に実施し、72.6%に当たる2179人から回答を得た。

 慣用句の言い方では、会社が学生を早めに採用する際の言い方について、本来の「青田買い」を5.1ポイント上回る34.2%が「青田刈り」を選んだ。失敗を巻き返す「汚名返上」も「汚名挽回」を選んだ人が44.1%。いずれも20代以下の方が本来の言い方を選んだ割合が高く、年代が上がるほど逆の結果に。「青田刈り」は50代〜60歳以上で11〜15ポイント高く、「汚名挽回」では40代〜60歳以上で10〜16ポイント高かった。

 言葉の意味を問う設問でも「他山の石」「枯れ木も山のにぎわい」で、本来の意味を選ぶ人は3割程度にとどまった。

 初めて調査した表記に関する意識では(1)ハガキや手紙のあて名(2)年賀状のあて名(3)ハガキや手紙の本文(4)報告書やリポートの文章――のケースで手書きの有無を尋ねたところ、四つの場合とも「手書き派」が上回り、中でも、(1)と(3)では約4分の3以上の人が手書きをすると答えた。(毎日新聞) - 7月12日21時48分更新


◆資料:「ザ・ジャパニーズ」(エドウィン・O・ライシャワー著、國弘正雄訳、1979年 文藝春秋刊)第37章「言語」より引用

 

 ひどく日本語化した漢文と、漢字がたっぷりと仕込まれた日本文とがないまぜになり、今日の表記法が生まれた。名詞のほとんどと、語尾変化をしない単語は、その起源のいかんにかかわらず漢字で表記され、大多数の動詞の語幹と形容詞も同じ扱いを受けるが、語尾変化など、漢字では書けない部分はかなで表記される。 

 世界中の表記法のうち、日常的に使われているもので、これほど複雑で厄介なものは、恐らく他には存在しまい。英語の綴字も、あれはあれで言語道断といってよいほど不規則をきわめ、第一級の世界語としては悲劇的なくらいだが、それでも日本語の表記法の厄介さには、遠く及ばない。

 かなを学ぶことは大して難しくない。(中略)他方、1850の当用漢字に、学校の課程だけで習熟することは難しく、特殊な分野の漢字を習得するためには、明らかに時間不足である。

 漢字はそれぞれが中国語の原音(二つの場合もある)に由来するひとつの読み方があるばかりでなく、同じ意味を持つ日本語の単語一つないしは二つと対応するのが常である。

 例えば、これは極端な例だが、「生」という漢字の場合には、七つの全く異なる日本語の単語をこれ一つで表すことができる。ある漢字をどう読むかを決めるものは、前後関係、つまり、文脈だけである。

 このような恐るべき表記法を持ちながらも、日本人があのように高い教育水準を達成し得たことは、彼らの教育にかける情熱の高さを示すものとして賞賛されて良い。識字能力への、この巨大な障害をのりこえる必要があったからこそ、日本人は勤勉と規律を身につけたのかも知れないのである。(後略)


◆コメント:正しい日本語を身につける努力が日本人の能力の高さの根底にあるのだろう

 

 気がつかれた方もあろうが、最初に引用した記事と2番目の文章では、焦点が異なる。

 記事で紹介されている今回の調査は、主に「慣用句の意味を正しく理解しているか」という点に絞られている。

 2番目に資料として引用したのは、駐日アメリカ大使を務めたこともあり、日本史専攻のハーバード大学教授、故・ライシャワー氏の名著"The Japanese"を、「同時通訳の神様」と呼ばれ、ライシャワー博士が来日したときは必ず通訳に指名された(ライシャワー氏は日本生まれで、流ちょうな日本語をはなすことができるバイリンガルなのだが、公式の場では、英語で発言した)、國弘正雄氏が翻訳したものである(時間が経つのは恐ろしいほど早く、翻訳の初版が出てからでさえ、すでに26年を経ている)。

 ここで引用した部分では日本語の「表記法」について書かれている。それでも、敢えて引用したのは、とにかく日本語を身につけた我々の努力をこれほど評価してくださった、海外の碩学(せきがく)がおられたことを、紹介したかったからである。

 ライシャワー博士は、日本語を知らない英語国民に、日本語というのは読み書きだけでも、多分世界でこれ以上複雑なものはないのに、日本人はそれを皆、身につけている。これだけで大変な偉業なのだ、と説明してくださっているのである。

 我々は程度の差こそあれ、この漢字とかなが混在し、それぞれの漢字の読み方は前後関係で決まる言葉を身につけているが、どうやら、これは、博士のような教養人が世界的な視点から見ると、大変なことらしい。

 だから、私たちは、子供も大人も「日本語の運用能力の向上」を軽視してはいけないのだ。

 子供は学校の授業で国語の時間は増やしこそすれ、減らしてはいけないし、朝読書を取り入れる学校が増えていると云うが、読書は絶対に必要だから、これは良いことだ。本を読んでいる奴が皆頭が良いわけではないが、本を全く読まないと言う人間で知的な人間を、少なくとも私は知らない。

 大人になってからでも、国語力を高めるのに決して遅すぎることはないのである。

 そして、日本語の能力を向上させるためには、名文を写したり、朗読するのが、ときに退屈かも知れないが、最も手っ取り早い方法であろうと思う。

  先日も書いたが、「鉄道員(ぽっぽや)」「蒼穹の昴」などで知られる浅田次郎氏は(私は最近の作家はそう言うことはしないだろうと思っていたのだが)、志賀直哉の小説をひたすら書き写していた時期があったという。

 「書き写す」というと、すぐに若い人は「『写経』ですか」と皮肉混じりに云う。この、コピー、スキャナー、OCRの時代に「文章を書き写す」なんて、と思うのだろう。

 基礎訓練は、どんな分野でも、退屈なものなのだ。

  楽器が上手くなるためには、ピアノならハノン、ヴァイオリンなら、カールフレッシュの音階教本、金管楽器ならロングトーンとアーバン金管教本など、単調な練習が、基礎力を身につけるために、どうしても必要である。

 絵描きを目指す者は、デッサンはもちろんだが、模写が非常に有効な勉強方法として定着している。

 言語は楽器の演奏や絵を描くような「特殊能力」ではなく、誰でも「一応は」使える能力だから意識しにくいが、運用能力を高めるためには基礎が必要である点では、同様である。

 そして、基礎となる正しい文法や語彙、漢字を習得するためには、それらが含まれている文章を真似る、ことだ。学ぶと言う言葉は「真似ぶ(まねぶ)」が変化したものだという説があるぐらいだから。

 正しい文章、名文が何か分からない、というひとは、国立国語研究所が一般向けに公開している、「新・『ことば』シリーズ」に書かれている日本語が、流石に国語学者達だけあって、実に、見事に正しく、美しいので、一度ご覧になることをお奨めしたい。

 例えば、「言葉の『正しさ』とは何か」という文章は、「正しい」言葉は変化しうるということを書いているのだが、その文章自体、どう読んでも「正しさの見本」のような文章なのである。ほれぼれしてしまう。見事だ。ここで、「正しい日本の美しさ」を感じ取ることができたら、しめたものだ、と思う。


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