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JIROの独断的日記
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2004年08月12日(木) 「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けて下さい」今年もやってきた。8月12日。

◆1985年8月12日18時56分、日本航空123便、墜落。

 

また、この日が来た。

 123便のことを考えると、何から書いて良いのか分からなくなる。今だに、今日の18時56分になると、冷や汗が出る。

当時、社会人2年目だった私は、仕事がヒマな時期で、早めに会社を出て、自宅最寄りの駅近くの小さな本屋で本の立ち読みをしていた。そのとき、NHKラジオが極めて緊迫した声で、

「18時12分に羽田空港を離陸して大阪に向かっていた、日航123便のジャンボ機が離陸間もなく異常事態を東京航空管制部(所沢にある通称「東京コントロール」)に伝え、18時56分。機影がレーダーから消え、連絡が取れなくなった。同機には520名の乗員乗客が乗っている。」と伝えた。

自分も、身内もその飛行機に乗る予定は無かったし、結果的に身内に犠牲者が出たわけではないが、この第1報を聴いたときに、顔から血の気が引いてゆくのが自分でも分かった。膝が震えた。大変なことになったことは、ほぼ、間違いがなかった。実際そのとおりだった。


◆遺書を残した乗客。

 

2名の生存者を除いて、乗員乗客は皆、空に散った。死を覚悟した大阪商船三井船舶神戸支店長・河口博次さんは、手帳に遺書を記した。ここに載せさせて頂く。



『マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因はわからない 今5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様助けて下さい 津慶 しっかりたのんだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している』


河口さんの胸中を思うと、私まで、胸が張り裂けそうだ。


◆最後まで頑張った、コクピットクルー

 事故から15年経った2000年に、コクピット・ボイス・レコーダーを入手したTBSが、初めて録音された、高浜雅己機長(49)、佐々木祐副操縦士(38)、福田博航空機関士(46)の緊迫したやりとりを公共の電波に乗せた。

今は、インターネットでも聞ける。日航ジャンボ機墜落事故というサイトでは、秒刻みで、克明な会話の記録が記され、音声を聞くことが出来る。

 このときまで、高浜機長の奥さんも含めて、日本人は実際に、彼らがどれほど必死に最後まで、何とかして機体の体勢を立て直そうと頑張ったか、知らなかったといっていい。これを聴くと泣けてくる。山に激突するわずか数秒前まで、高浜機長が「フラップアップ!」と叫んでいる。

 この放送によって、多くの日本人が3人のクルーに畏敬の念を抱いたと、信じたい。


◆空への執念

 

その上に私が感銘を受けた事実がある。このときのコクピットクルー3人のお子さんは皆、父と同じ空の仕事を選択しているのである。高浜機長のお嬢さんはキャビン・アテンダントに。佐々木副操縦士、福田航空機関士のご子息はいずれも、旅客機のパイロットになったのである。なりたい、といって簡単になれる職業ではない。父から受け継いだ、「空への執念」を思うと、泣ける。

 8月12日は苦しいが、忘れることはとても、出来ない。


2003年08月12日(火) 「西部警察」ロケ中、5人重軽傷=見物人の列に俳優の車−名古屋 石原プロは解散してはどうか。

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