再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 訃報にあって。。。

坪井直さんが亡くなられた。
広島での旅公演中、劇場に来られた時にお会いしたのが最後になった。
関わったどの方もそうだと思うが、喪失感がとても大きい。

オバマ元大統領が広島で核なき世界の演説をした際、
「あの事件は既に歴史の一コマであり不幸な一コマであった。アメリカではなく、人類の過ちであった。未来に向かって頑張りましょう。プラハ演説(2009年)でノーベル平和賞を取ったのだから、遊んどったらダメですよ。未来志向で、核兵器のない世界を作り上げましょう」とオバマ元大統領と抱擁を交わした坪井さん。

ここのところこのブログでも名前のあがる、
日本で初めて被爆者を扱った芝居「島」の主人公、「学」のモデルでもある。
最初にお会いしたのは、10年以上前、「島」をやるにあたっての取材である。
その後、初演、旅公演の際、お会いすることが出来た。
僕としては、坪井さんの存在とお会いできたことで、その「声高に原爆反対」に向かう「演劇的な存在」としての「学」の理解から(ある種、品行方正清廉潔白高潔な人物)、
血肉の通った悩み多きでも、バイタリティ溢れる存在としての「学」へと、作品理解を含めて大きく舵を切ることができた取材の中の、一番大きな存在だった。
ある種の方々が、東京から来た三十代のどこの馬の骨ともわからない演出と制作に、さあなにするものぞ、と外様になにがわかるんだという思いと緊張感を持っている中(それはそう、当然のことです)、
坪井さんは「東京のどこぞの若い衆」がって感じは微塵もなかった。
逆に緊張がちな我らを緩め、その大きさでとてもやさしく受け入れてくれた。取材した、のではなく、取材させられた感。目の奥の光がとても強かったのを覚えている。
それは二度と落とさせない、同じことをさせないためには末端でも関係者でなくとも「誰しもが識る」ことを大事に大切にしていたのだろうと今は理解できる。強い意志を持った方。
そしてこの若者どもは、人に「識る」きっかけを与えることもわかっていたのだろう。
その出逢いは今の「紙屋悦子の青春」までにしっかりと繋がっている。
まずもらったのは伝える「勇気」なのだったと思う。

「島」は、全くちがう初稿から何稿もある作品からある部分はエッセンスを集めて、上演台本とした初演。(この頃は意図して上演台本・自分とはしていなかったけれど)
その上での、更に加筆修正し大幅なカットをして(簡単にではなく、俳優さんが肉体化することで、言葉なくとも説得力を持つことが多くある)臨んだ旅公演。
思えば初めて「この作品を全国の方々に観てもらいたい」と思った作品でもある。
きっと、そういうことが行われていたことは今やだれも覚えていないだろうし、
だからこそ、同じ本、同じ加筆、同じカットのあるversionはもう、観ることはできないはずなのは残念だ。(誰かがその稿だけ載った台本を見ると、それが作家さんが創ったものにされてしまう危惧は大きくあるのだが…)

ただ、夏の沖縄から秋の可児への贅沢な「モノづくり」の道のりを過ぎ、
「この先」を思っていた自分へ、またしても大きな考えるべき機会をいただいた。
「識る」こと、そして演劇は「面白く」あること。
一つ一つやはり丁寧に積み上げていくしかないのだ。

幸運にもお逢いし、お話をさせてもらった一人として、大切にしたい。



2021年10月30日(土)
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