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■ 「みえないランドセル」千穐楽
「みえないランドセル」明日千穐楽。 欲を言えば切りはないのだけれど、 全員の創意工夫が実りながら、そして、 映像撮り初日、から考えれば半年(そういえば、ZOOMでディレクトした場所は沖縄の病床であった…) 山谷さんとのプロットから、関連書籍からの打ち合わせからいけばどのくらい? 一月の延期の苦渋の選択と、そのあと急ピッチに決まった今回の公演。 スタッフキャスト全員の移行はかなわなかったけれど、 新たに加わった面々の力添えもあって、 都や国の無策に翻弄されながらもここまで来た。 自由度高くそれぞれの責任で豊かになされるモノづくり(もちろん、そこには現場を支える若いスタッフ・スタッフの仕事までを受け持つ若い俳優さんの力持ちぶりに支えられてもいる) お陰様で評判もよく、この禍でなければ、後半にかけ、もっともっと多くのお客様に観てもらえ注目もされていただろう。 それは小さな小さな一歩でしかないかもしれない。 しかし、
今、本当に、やるべき、観るべき、演劇(作品)
にこだわり、模索して、結実したと思う。 苦しさを共有し、一陣の風となり、 終わりの見えない不安、閉塞感の中、 誰かの張り詰め吐けなくなった息を吐かせてあげること。 それは、三月・四月もそうあったけれど、 現場とのコンセンサス(それは「現在やるべきでない」という意見とのぶつかりだったり、心配を遡上にあげて、集団で共有する大変な作業)取りの繰り返し、 製作さんたちの「本当に強い思い」の元に現場が応えたものなのだと思う。 ビジネス上やっておかねばならないから、 責任の所在を明確にせず時が過ぎるのをただじっと待つのとは、雲泥の差だ。 この禍は本当に、 やることはやって、あとは神頼み のようなものだと、沖縄での中止→延期を経験している側としては感じる、芝居一本創ることが大きな博打のようなものだし、お客さんを考えたって、「まだ」の肌感触は強いし、舞台芸術の灯りを消さないことを大事にとはいえ、実際との乖離もある。 でも、こんな時だからこそ、「顔が見える」必要があると思うのだ。 平時「大きな顔」しているのに「カクレル」人たちを尻目に。 普段は「偉そう」に国や大きな力に「少数派の正義をぶつ」のに逃げ回る人たちを尻目に。 (「合意を形成」するというのと「決定事項を通達しただけ」は意味が全く異なる。それを文字面の変化で文脈を書き換えるような小賢しさ、汚さには本当に辟易する)モノづくりは「真摯」に「誠実」に行われるべきだ。
まずは、明日の一回を無事に。 そうすれば、自然と道は拓ける。
そんな頃、来月から始まる沖縄でのあれやこれやは、 どう考えても「緊急事態宣言」にもろに影響を受けそうだ。
2021年05月22日(土)
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