再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 愕然。。

あたためあたためしていた、
少人数の芝居が、
兎に角、仏語訳まで下訳を自分で頼んで、
その出来上がりがやはり相当に面白く、
近々で予定し、着手する前に、
版権の確認、、、
なぞ思ったら、
なんと、つい先ごろ大手に専属の契約が結ばれていた…
しかも、見つけ出されたんじゃなくて、売り込みで。。
もうしばし愕然とするしかない。
確かに、既成の戯曲(翻訳されている)が同時期に取り上げられることは多々あるし(つまりは企画の段階で時代の要請に対するアンテナが別の会議室なのに似かよることが多々ある)、そのおかげでできなくなることもあるのだが、まだ邦訳されていない作品で、更にはここまでタイムリーだと、凹む。タッチの差でもあったわけで…
諦めきれない。
信じられない!
…しかし、そもそも信じるって何なのだろうな、と全く関係のないことを思い、
佳境の『ふたたびの日は何色に咲く』の人物たちについて思う。
沖縄の『島口説』の人物たちについて思う。

人物たちが信じたいことは、
大体が裏切られるしかないのだ。(だからドラマなのね(笑))

どうしても、したいこと。
どうしても、したい作品。
それがあるからこそ、耐え得る煩雑な現状。
どうあっても、揺るがないモノ。
信じさせる、信じる、その共犯関係から出立する演劇は、騙す、騙される、関係でもある。
繰り返されるコトに騙されたフリして、
思いきりそれが、『なかったこと』にならないものかと願ったり。。(←日本人の特性)
確かなものは所詮触れ合えるくらいの距離にしかないのかもしれないのだが。


愕然とする。

もちろん、明日のモノづくりはやって来るのだけれど。

『ふたたびの日は何色に咲く』
潤沢にいかないほぼ手弁当プロデュースの中、演出部も兼ねる若手、人不足で否をせず、積極的に転換含め関わってくれる演者さん(闇も作品の一つ)、舞台の実際の機構が使用できる空間に入って、その辺りで停滞もするけれど、ここを踏ん張って、発展させ、大輪の花を咲かせよう。
チケット、まだまだあるようです。





2018年05月19日(土)
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