再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 長々と話す。。。

養成所は、修了公演レパートリーを決める時期、
例年数冊の戯曲を、幕毎、景毎に配り(作家名、題名は伏せて←とはいえ、役名から思いきり察しのつくホンもあるけれど)
初見で読み、持って帰ってもらって読み分析や相関関係図を描いて提出、次の稽古でまた読み、次が配られ→初見→持って帰り→提出と繰り返す。とゆうことをしながら、最後通し読みをして、ホンを決める。今年は二本、まぁ言ってみたら『女優』の為と言われる芝居であるのだけれど、最終盤の通し読みまでして、どうも上がりきらない。
そりゃあ、ホンと役、決まってからやろう、と思っているのかも知れないけれど。

思いは伸長し過ぎると手に負えなくなる。
相手の為と言いながら、所詮自分の為でしかないことに気づいたり、
自分が思うほど、他人は自分のことなど思わないとゆう当たり前のことや、
今ある自分と、こうありたかった自分との違いに愕然としたり、
失いそうになって(自分も、他人も)初めてその大切さに気づくとゆう浅はかさに嘆いたり、
でもだからこそ現状を打破しようとしたり、向上させようとしたり、
たら、れば、はない現実に苦慮したり、
こう書き出すと、途端浅薄な気もするけれど、
描かれているのは狂おしい程愚かで、愛すべき人の行為だ。

そこにちゃんと興味を持って、
自分が扱うかも知れない←今回は確率50パーセント、文化風土違う戯曲=地図をどう見るのか、
武器となる書かれたコトバとどう対峙し、扱うのか、
片方は扱わなくなるけれど、その人物の人生とちゃんと出会っておく。
企もう、思考しよう。
そしてトライしよう。
己を表現者とするのなら、わからないことを
『よくわからない、難しい』と放ったままにしないで、掴みにいくことだ。
自分の経験にも、わからない他へもノックして。

我慢しきれなくなって、長々話す。
その後の打ち合わせに思いきり遅刻した…すみません。

11月に入って、少しだけ余裕の出た時間を今年中期全くと言っていいほど観られなかったので、映画・舞台・落語と続けざまに観て(そりゃあ栄養も取らないといけません)、舞台の余りの打率の低さに改めて呆然としてしまう。
表現する者としての、生み出す者としての、自覚のなさ…とか、
独りよがり…とか、
(そんな中で、いい作品に出会うと嬉しくなって呑みすぎるのだが)
…栄養取るには、好きな噺家の会に…

養成所でよく言うのだけれど、
芝居なんて暗くて狭い空間に人の人生の2時間をほぼ監禁状態にするのだ、せめてそれが豊かな時間であったと思ってもらわないとね。

次で決めるつもりだったけど、もう一回読むことにする。
こちらもトライだ。




2017年11月14日(火)
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