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■ 青年劇場「アトリエ」パンフ掲載文。
「人を見つめる」
世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった。 覚えていなくてはいけない、世界最大の悪は「ごく普通の平凡な人間」が行う動機も邪心も悪魔的な意図もない悪、だ。
ハンナ・アーレントは言う。考えることで人間は強くなる、破滅に至らぬよう、絶望的な状況でも考え抜くことを。 思考することができるから人間なのであって、 考える能力を持っていることが人間であるとゆうことで、考えをなくすとゆうことは、人間であることを拒絶することになる。理性が必要な世界。 理性を失うことが狂気へと繋がっていることを歴史は雄弁に物語る。
フランスでは終戦後四半世紀近くヴィシー政権の役割と当時の国民の反応について語ることは、殆どタブーだった。戦勝国となったフランスは対独レジスタンスの行為だけを専ら強調し、国民の大多数がレジスタンスに参加協力したとゆう神話をつくった(1995年シラク大統領「ユダヤ人迫害における国家の罪」を認める)。そんな中、書かれた本(1979)だ。 グランベールは「不条理劇」の作家性を、この「母」のドラマに隠し入れ、人そのものを冷静な醒めた眼で書分け、「犠牲者に、なぜあなたは犠牲者なの?」と問いかける不条理を浮かび上がらせようとしている。そしてその犠牲者を作り出すのも人間であることを静かに、暗示もしている。それでも、そんな状況下でも、「人を信じる力に溢れた『アトリエ』。」 人間がどうなっていくのかは結局人間にかかっている。 あの時代、あの国で、あの状況下でちゃんと選択の余地を持てたのか。 この時代、この国で、この状況下でちゃんと選択を僕らはしているのだろうか。
忘れていはいけない、「今」を選んでいるのも、結局自分であることを。 時代に翻弄されながら、大きな意思に揺り動かされながら、 ある論理の強要に慣らされながら、ある意味現状に対する不満を呑み込んだり、文句を言ったり、諦めたり、そのことを嘲ったり、笑ったり、 登場人物たちのように豊かに「生きる」ことに貪欲でいられるのか―
遠くヨーロッパ、おフランスはパリ、 おかれた状況も、おいやられている現状も、時代も国民性も、全て違うところにあるようで、ありながら、「彼女ら」「彼ら」は非常に僕たちに似ている。 めんどくさい事はなしにする「自分」、 常識とゆう装置に価値判断をゆだねる「自分」 恋に恋する「自分」 独り占めしたくなる「自分」 思い通りにならないと嘆く「自分」 子どものことで一喜一憂する「自分」 下世話な「自分」 他人のせいにする「自分」 場の空気を一番に考える「自分」 明日やろうと先延ばしする「自分」 日曜日の夕方には憂鬱になる「自分」 支配してみたい「自分」 隠し事のある「自分」 考えるのが億劫な「自分」 手を貸す「自分」 見て見ぬ振りする「自分」 相手を思いやる「自分」 嫉妬する「自分」 知らない価値観を怖いと思う「自分」 違うと排除して安心する「自分」 誰かと繋がりたいと思う「自分」 誰かに認められたい「自分」
そして相手を識ることでしか、身近な問題と捉えられない「自分」
人を見つめ、自分を見つめる。 そして思考する。
ユダヤ人迫害のなか日記を残したエレーヌ・ベール(ユダヤ系フランス人、1945年ベルゲン・ベルゼン収容所で死去。24歳)はこう記す(「エレーヌ・ベールの日記」抜粋)。
不意に、わたしの人生がすべて消え去り、自分の中に感じる無限の可能性もそれと一緒に消滅するなんてこと… 「死」が世界に降り注いでいる。 神が課する「自然の死」と人間たちが「つくった死」、 あっていいのは一つ目の「死」だけだ。人間が人間から生命を奪う権利はない。
…当たり前のことだ。 でも、当たり前でないのはどうしてなんだろう。
白人至上主義と反対派の衝突を受けたオバマ元大統領のツイートじゃないけれど、「人は憎しみを習得する。憎むことを身に付けられるならば、愛することを学ぶこともできる。愛は憎しみに比べ、人の心に自然に生まれるものなのだから。─ネルソン・マンデラ」 そうなれないのはどうしてなんだろう。
個性煌めく登場人物と共に泣き笑い、想像力の翼を豊かに広げよう。
どうぞ最後までお楽しみ下さい。
藤井ごう
2017年09月25日(月)
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