与太郎文庫
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2004年02月08日(日)  バルトークの後妻

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20040208
 
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 バルトークは28歳の時、ピアノの教え子であった16歳の少女と結婚し、
42歳で一児をもうけますが、まもなく離婚し、26歳年下の、またもや16
歳のピアニスト志望の少女と結婚します。離婚は多分、バルトークの気
むずかしさが原因でしょう。二番目の妻ディッタは晩年「ときどき自分
の存在の意味がわからなくなる」と悩み錯乱状態に陥りました。── 
《ハンガリーの音楽 20030329(土)19:00 第23回クラシックCDコンサート》
http://www.geocities.co.jp/MusicHall-Horn/6226/cd-con/concert/hungary.html
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 1909年、28歳のベラ・バルトークは親しい人にも知らせないまま教え
子のマルタと結婚した。マルタはこの時16歳である。ところがである。
この頃彼は女流バイオリニストのシュテフィ・ゲイエルにバイオリン協
奏曲第1番を熱き想いとともに捧げている。先のグリフィスの著書から
も、どうやらバルトークが二股をかけていたのは間違いなさそうだ。
 なぜ、マルタの方を選んだのか。私の知ったこっちゃないが、この結
婚、1923年には破局を迎えることになる。 ただ、1923年5月の心理学者
宛の書簡には、家庭内の動揺を示すものはない。
 マルタと別れたバルトークは既に43歳になっていた。が、再婚相手の
ディッタ・パーストリは、やはり音楽院の学生で(またしても)20歳
(!)である。── 高荻 泉《迷惑男 バルトーク 》
http://www.sun-inet.or.jp/~jui/sinfonia/essay26.htm
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「ピアノ協奏曲第三番」ってどんな曲?
 
 1945年にバルトーク・ベラ(Bartok Bela)によって作られた協奏曲です。
 希代の名ピアニストでもあったバルトークはそれまでは自分が演奏す
るためにピアノ協奏曲の類を作っていました。しかし、この曲だけは違
います。この曲は彼の妻が演奏するために書かれたのです。それも誕生
日プレゼントとして。
 非常に残念な事にバルトークはこの曲を完成させる事は出来ませんで
した。最後の17小節のオーケストレーション、ただそれだけを残して彼
は亡くなってしまいました。夫人の誕生日(10/31)を待たずして、です。
 やがて最後の17小節はティポール・シェルリー(Tibor Serly)の補筆
で完成されました。初演は1946.2.8に指揮ユージン・オーマンディ
(Eugene Ormandy)、ピアノ演奏ジョルジュ・シャーンドル(Gyorgy Sandor)、
フィラデルフィア管(Philadelphia Orchestra)に依って成されました。
本来ピアノを弾くはずだったバルトーク夫人(ディッタ・パーストリ、
Ditta Pasztory)は1960年代に入ってから初めてこの曲を演奏録音した
そうです。
── 壱丸 零弐《クラシックのごった煮 めにゅーぺえじ》
http://www.fenix.ne.jp/~ichimal/bpc3/about.html
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 Bartok,Bela  作曲 18810325 Hungary 19450926 64 19401030 America亡命
♀Bartok,マルタ    1893・・ Hungary       Belaの前妻1909結婚1923離婚
♀Ditta Pasztory Piano 19071031 Hungary 19821102 75 Bartokの後妻19230823再婚

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→ 19380116 初演 バルトーク夫妻56&30《2台のピアノと打楽器のための奏鳴曲》


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