与太郎文庫
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2003年12月22日(月)  右向く侍たち 〜 親の顔 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20031222
 
 小学校の恩師・金谷先生の兄上は、剣道の有段者だったので、いつも
床の間に大小の日本刀が架けられていた。
 高校生になってまもなく、先生の家をたずねると、日本刀がない。
「このまえ、Sくんが来て、えらいことがあったんや」と告げられた。
 
 小学校で隣組の少女は、いつも悲しそうに睫毛をふせていた。おなじ
町内にいながら母親の顔が思いだせないのは、父子家庭だったらしい。
 少女の父は、町内会の世話役として、ことあるごとに一席ブッていた。
(たぶん、玉音放送のときも、町内の人々をラジオの前に集めている)
 戦後は一転して、選挙の手伝いなどしていた。
 
 中学を卒業したばかりの少女が、小学校卒業時の担任をたよって相談
に来たのは、就職先に何があったのか。あるいは、定職をもたない父が、
ゆるしがたい不祥事を引きおこしたのだろうか。
 相談の途中で、先生が小用からもどると、彼女は脇差を抜きはなって
自らの首にあてがっていたという。あわてて取りおさえたものの、それ
ほどに思いつめていたのである。
 
 先生は、相談の内容は伏せられたが、絶望的な事態が推察できた。
「きみ、あんまり驚ろかんみたいやな」
「いや、彼女が不幸なことは、なんとなくわかる気がするんです」
 少女をつれて町を出ていった父親の面影は、二年前にさかのぼる。
 
 昭和二十八年三月十四日の“バカヤロウ解散”から第五次吉田茂内閣
(19530521-19541210)にいたる選挙期間中、時の人となった衆議院議員
(社会党右派)西村栄一が、全国をくまなく歩いた。
 京都市立新洞小学校の講堂における演説会にあらわれたとき、少女の
父も得意満面だった。会場の内外を出たり入ったりして、誰かれなしに
指図していた。
 
 中学生だった与太郎までが、わざわざ母校の小学校に出かけたほど、
その演説会は盛況だったのである。応援代議士は、身ぶり手ぶりで国会
でのやりとりを再現してみせた。
 
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 その人の名は「吉田茂」、当時の首相。場所は衆議院の予算委員会。
相手は右派社会党の西村栄一議員。その日(2月28日)、その時(午
後)の状況を新聞によって再現すれば以下のとおり。
 
 西村:首相は国際情勢は好転していると楽観しているが、その根拠は
   何か。
 吉田:楽観すべきだとは言わない。戦争の危機は遠ざかりつつあると、
   英米の首脳者も言っていると言ったのだ。
 西村:日本の総理大臣の意見が聞きたい。ホンヤクを承っているので
   はない。アイゼンハウアーもチャーチルも楽観説を言っていない。
   朝鮮問題(注:25年6月に始まった朝鮮戦争の休戦会談が続い
   ていた)がどうなるかで、極東に風雲の焦点が移っている。日本
   はどうすべきだとの日本の首相としての意見を聞きたい。
 吉田:(憤然として)日本の総理としての答弁をしている。
 
 着席後、吉田は西村をニラミつけて「無礼だ」。西村、大声で「何が
無礼だ。日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ。
答弁できないのか君は」。吉田、自席で「バカヤロウ」とつぶやく。
 吉田の「バカヤロウ」発言に西村が怒り、吉田は岡崎外相から何か耳
打ちされ、ニヤリとして、丁重に発言を取り消した。これで了解したの
か西村が質問を続け、吉田の答弁があって午後の審議は終了した。とこ
ろが、野党はその夜の委員会審議をボイコット、態度を硬化させ、審議
は中絶する。
 そして野党の提出した、前代未聞の「首相懲罰動議」が党内の背反が
あって2日、可決されてしまう。続いて14日、内閣不信任案が可決さ
れ、衆議院が解散した。これが歴史的な珍事「バカヤロウ解散」のあら
ましだ。
http://www.nippon-chocolate.co.jp/carpediem/uchuusi/3082.html
── 《悪口雑言・けんか・ひやかし・のための引用辞典》
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 吉田 茂   衆議院議員 18780922 東京 19671020 89 首相45,48-51
♀吉田 雪子    茂の妻 1888・・ 東京 194110.. 53 牧野伸顕の娘190903..結婚
♀坂本 喜代子 首相の内妻 1907・・(小磯)20030219 96 元新橋芸者“こりん”
 西村 栄一  衆議院議員 19040308 奈良 19710427 67 民社党委員長 2
 麻生 多賀吉 衆議院議員 19110929 福岡 19801202 69 吉田 茂の娘婿
♀麻生 和子   太郎の母 19150513 中国 19960315 80 吉田 茂の娘
 麻生 太郎  衆議院議員 19400920 福岡       吉田 茂の孫/総務大臣
 西村 眞悟  衆議院議員 19480707 大阪       元防衛政務次官

 
 このとき西村栄一の三男・眞悟は四歳、まったく記憶がないはずだ。
 吉田茂の孫・麻生太郎は十二歳だったから、小学校から中学にかけて
「ずいぶん同級生にいじめられた」と回想している。
 太郎の母・和子は、結婚六年目の母二十七歳の娘である。三女または
二女、ときに長女とも伝えられ、ながく父の首相秘書をつとめた。
 後に内妻となる「二十代前半(1910年頃?)の芸者にめぐりあって」
生ませた女児を養女にしたというような風説は、とるにたらない。
 
 思いっきり「への字にヒン曲げた口」とか「人を食った」発言など、
父系を飛びこえた“ワンマン遺伝子”が、いつなんどき「バカヤロウ」
と叫んでも不思議はないが、政治の道は遠くはるかである。
(祖父にとっても破格の臣位だったのだ)
 
 麻生太郎が西村眞悟に向って「バカヤロウ」と云う場面を、マスコミ
は待ちのぞんでいる。このような歴史的再現は「四番、サード、長島」
のアナウンスを期待した往年のジャイアンツ・ファンも、茂雄の息子・
一茂が(代打として)一度だけチャンスがあったのに実現しなかった。
 
 与太郎は、京都うまれの京都そだちだから、関西弁にはうるさい。
 誰も論じないが、大阪弁には「上品・中品・下品」の三通りがある。
(中部以東の人たちには「わっちゃくちゃ」に聞こえているらしい)。
 
 船場ことば(神戸なまり)を上品とすると、中品は全国ネットに通用
するタレント(桂文珍、上沼恵美子、明石家さんま)であって、なぜか
大阪出身ではなく、それぞれ兵庫の県北・県南と、奈良(和歌山うまれ)
である。
 東京に迎えられない芸人の「コテコテの大阪弁」や「ニセ大阪弁」は、
もともと「正調大阪弁」が話せないからではないか。おなじ関西人も、
笑って聞きながしてくれるだけで、信頼や尊敬の感情とは無縁なのだ。
むしろ(内心は)眉をひそめているのではないか。
 
 国会議員のなかには、大阪弁ならではの人気者もいないわけではない。
 辞職した辻元清美などは、みごとな成功例であるが、おおくは幼児語
のまま(それなりに親しまれて)無意識にしゃべっているらしい。
 
 地理的に近くても“塩じぃ”が「もう、よろしやろ」というところを、
西村眞悟は「ええ加減にせんかい」と怒鳴ってしまうのである。
 ここまでくれば、アクセントが原因でなく、生活観がちがうのである。
 ときに関東出身の編集者が、聞きかじりの「擬似大阪弁」を面白半分
に誇張することもあって、まことに不自然かつ不愉快だが、つぎの対談
記事は、かなり写実的にリライトされていて、臨場感がある。
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 「強姦してもなんにも罰せられんのやったら、オレらみんな強姦魔に
なってるやん」
 「社民党の(集団的自衛権に反対を唱える)女性議員に言うてやった。
「お前が強姦されとってもオレは絶対に救ったらんぞ」と。」
── 大川 豊《インタビュー 19991102 週刊プレイボーイ》1019発売
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 中学時代に、彼の父親の演説を聞いた記憶をたどってみると、当時の
野党政治家らしく、いささか武張っているが、大阪弁としては上等で、
共通語にちかい(奈良出身だから柔らかめに聞こえたかもしれない)。
 かくなる代議士の三男坊が「オレら」「なってるやん」「救ったらん」
というような幼語的文法を、いかなる集団環境で身につけたのか。
 国立大学を出て、五十歳のベテラン国会議員となっても、改めようと
しない日常的感覚は、何かにコントロールされているのだろうか。


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