与太郎文庫
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2003年03月26日(水)  DJS略史

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030326
 
 全同志社中高校の管弦楽運動の歩み(略史)

                 DJS名誉顧問 本宮 啓

 わが国のオーケストラ運動の黎明期(大正末期〜昭和20年)

 未だわが国にはプロの楽団が存在しない大正末期、関西では京大に続
いて同志社でも早くも大学生の間にオーケストラ運動が起こった。総合
学園である同志社はその利点を生かして、中学生の参加も歓迎され、大
正末期に同中に入学したチェロの弾ける貞方敏郎(後の同大教授、同響
顧問)をはじめ、数名の同中学生がいち早くその運動に参加した。1930
年中学にブラスバンド部が誕生し同中学生は組織的に楽器に接するチャ
ンスを得、その中から同大や京大のオーケストラに参加する者が相次い
だ。また同中(後の同高)の森本芳雄先生の優れた音楽的センスが戦前、
戦後の生徒の音楽活動に大きな影響を与えたことも見逃せない。

 同志社ジュニアシンフォニーの誕生

 1947年、戦後の同響の再建に尽力していた私が、同響の真の発展には
中・高校生から人材を育てる事が大切と思い、女子中高校の野村先生の
協力を得て全同志社の中・高校生に呼び掛けて同志社ジュニアシンフォ
ニー(弦楽合奏団)を結成した。そして毎年の学園祭や創立記念の全学
園音楽会で活躍した。高校ブラスバンドの部員がよくパーカッションな
どで協力出演してくれた。その中には後の京響の創立メンバーとして活
躍したフリュートの川瀬蛍公、クラリネットの村瀬二郎、ホルンの広野
小四郎などがいた。

 高校生だけの管弦楽団「シンフォニエッタ」誕生

 1951年、森本先生急逝後、多くの人材を送り出したブラスバンド部は
急速に活動不振に陥ったが、1956年、当時同志社高校二年の阿波雅敏が
弦楽同好会を結成し、非常な熱意と努力でその発展に貢献し、ブラスバ
ンド部に合体し、遂にこれを乗っ取るかたちで高校シンフォニエッタの
名で堂々とオーケストラ運動を展開した。1958年には学内でポピュラー
コンサートを開催し、先輩の協力を得て交響曲や組曲などを演奏出来る
までに成長したことは驚くべきことである。しかし熱心党の卒業と共に
後が続かず、1961年、現在フランスのカンヌのオーケストラでファゴッ
ト奏者として活躍している若林通夫が高三の時に指揮をしたシューベル
トの未完成交響曲を最後に、低迷状態に陥った。(*誤=阿波敏行)

 同志社ジュニアシンフォニーの活躍

 1951年、私が同志社中学教諭になり、弦楽合奏部を作り、以後はその
クラブが学外で活躍する時の名称を同志社ジュニアシンフォニーと言う
ようになった。そして昭和30年代には京都市の文化団体名簿にその名を
つらね、毎年の京都会館大ホールでの市民音楽会や円山音楽堂での土曜
コンサートや関西テレビの音楽番組などにも度々出演するなど、大活躍
の全盛期を迎えた。当時のメンバーには後にジュネーブの国際音楽コン
クールで首位になり、現在N響首席ソロ・ビオラ奏者として活躍してい
る店村真澄や、先年ウィーン、トーンキュンストラー室内オーケストラ
を率いて帰国したバイオリンの一戸露子や現在京都で一音寺室内合奏団
を主宰して活躍しているチェロの壁瀬宥雅など、多くの優秀な人材を輩
出した。しかし当時は未だクラブ内部で初心者を養成するのではなく、
弾ける人を集めての弦楽合奏団であった。

 弦楽器奏者激減 クラブ活動ピンチの時代

 昭和40年代の大半は中・高校とも人材不足で活動不振に陥った。その
原因として考えられるのは、昭和30年代は国民も未だ戦後で貧しかった
から、楽器会社もバイオリン教室を盛んにし、比較的安くて入手できる
バイオリンの製造販売に力を入れたため、バイオリンの弾ける子供が多
く育ち、入学してくる生徒にもそうした人が多かった。しかし昭和40年
代には我が国の経済力も回復したため、より高価なピアノ、エレクトー
ンの製造販売に力を入替え、そのコマーシャリズムがもろに影響を及ぼ
し、昭和30年代の黄金期に迎えた多くの弦楽器経験者の入学が昭和40年
代に激減したと考えられる。そのため中学でもオリジナルな弦楽合奏は
困難となり、1967年遂に器楽合奏部に改名を余儀無くされ、アレンジも
のでお茶を濁す状態に陥った。
 
 中学、高校管弦楽部の発足

 1974年、当時どん底状態にあった中学器楽合奏部に対して学校がブラ
スバンド楽器一式を購入、貸与してくれた。この機会に弦楽奏者を学内
で養成して、管弦楽団に発展させる方針をきめた。しかしその為には更
にファゴット、オーボエ、イングリッシュホルン、ティンパニ、低弦楽
器など多くの高価な楽器が必要であった。そこで募金運動を展開し、多
くの卒業生、父母、一般有志、企業の方々から多額の協力を得てその目
的を達成し、1977年度には正式に管弦楽部と改名した。高校では中学の
この流れに呼応して弘田敏紀、藤原享和らが積極的に人材を集め、学校、
生徒会に働き掛け、1978年度に遂に器楽同好会から管弦楽部に昇格させ
た。

 同志社中高管弦楽団結成記念演奏会(ベートーベンチクルス第1回)
 
 1978年4月22日、同志社栄光館で表記の演奏会が開かれた。私はこの
団体も1947年、全同志社中高生によるジュニアシンフォニーが出来た時
と同じ気持ちであったが、高校生は前概念にとらわれない新しい出発だ
から名称もこのように変えると主張した。しかし演奏会後、高校顧問か
らこの名称に強い異論が出され、この名称を認めない、この団体は解散
と言われたので、翌年からは元の同志社ジュニアシンフォニーと名称を
変え、高校生は部としてではなく、個人として参加する事になった。し
かし高校顧問からの要請で定期演奏会のプログラムには、主催同志社ジ
ュニアシンフォニー、後援同志社高校管弦楽部と記すようになった(第
1回〜第7回まで)。しかしそのプログラムには中学、高校、女子中高
校の校長からの祝辞が一貫して寄せられていたことがこの楽団の本質を
示していた。

 歴史に冠たる「第九」ベートーベンチクルス完成

 新興の同志社ジュニアシンフォニーは初回からベートーベン交響曲全
曲演奏(チクルス)を計画し、1978年から1986年までの9回の演奏会で
完成した。このチクルスの完成は図らずも我が国のアマチュア管弦楽団
としては初めての快挙であり、また中高生楽団で第九の演奏を実現した
のも初めてとの事であり、このためマスコミも大きく取り上げて報道し
た。この時、高校顧問の奥村先生が第九実行委員長として実務を担当し
て、積極的に係わって下さったので、この回からは高校管弦楽部の組織
参加という新しい局面に発展し、プログラムの同志社ジュニアシンフォ
ニーの下に中学管弦楽部と高校管弦楽部の、組織名を連ねるようになっ
た。
 
 大学級の実力と実績

 第九演奏の余勢をかってその後は高校生主導で運営するようになり、
秋には新指揮者就任披露特別演奏会を開催し、チャイコフスキー交響曲
第5番等の大曲に挑み、その後の定期演奏会でドヴォルザーク交響曲第
8番、遂にはマーラー交響曲第1番「巨人」、ブラームス、ショスタコ
ービッチ、シベリウス等々、一流大学並みのプログラムをこなすまでに
成長した。この発展には、第3回定期演奏会以後ベートーベンチクルス
完成までの6期間、プロとして指揮、指導をしてくれた平田泰彦氏と、
第九以後の6回にわたる大曲の指揮、指導をしてくれた稲垣宏豊氏の功
績は見逃せない。

 同志社女子中、高校管弦楽団の発足

 女子中、高校生のジュニアシンフォニーの参加者は野村女子部校長か
らの要請もあり、そっれまでは共学中学に来て一緒に練習をみていまし
たが、私が定年退職するとそれが難しくなるので、それを見越した女子
部々員の努力が成功して、1989年、私の退職の年に正式にクラブとして
発足した。翌年第一回発表会を持ち、以後毎年定期演奏会を行なう迄に
成長した。そのためかジュニアシンフォニーの定期演奏会への女子部の
校長メッセージは1992年度までとなり、女子部生徒もその時参加してい
た人が卒業するまでの数年で、1997年以後は完全に共学中、高校管弦楽
部の合同演奏会の形となって現在に至っている。
 
 同志社ファミリーとしてのジュニアシンフォニー
 
 高い理想をかかげて全同志社中高生による管弦楽団として発足したこ
の楽団も上述の経過で今日に至っています。しかしオーケストラは多く
の人が多種類の楽器で共同して作り出す最高芸術であり、弦楽器奏者育
成には時間がかかり、管楽器奏者は各パートがソロであるためブラスバ
ンドとは比較にならない練達が必要です。そのため三年制単独校ではオ
ーケストラ活動は極めて苦しく、不完全なものになるのは当然です。そ
れを乗り越え、より良い音楽をつくり出すためには単なる二校の合同演
奏会としてではなく、同志社ファミリーとして血の繋がりと一体観が必
要です。かつてのジュニアシンフォニーに女子部の野村先生が垣根を開
いて、同志社ファミリーとして御協力下さったことの意義は誠に大きい。
 部員は最高芸術追求者としての自覚と誇りを持ち、十年選手を目指し
て下さい。そして同響を含めた全学園の志を同じくする人々が協力し合
うことがジュニアシンフォニーの精神だと理解して下さい。私が長年集
めた楽器、楽譜を共学、女子部に分けましたが、これは置き場所を分け
ただけで、共有の楽器、楽譜として、お互い所有のものを含めて必要な
時に融通し合うようにして下さい。愛する音楽、愛する同志社のためジ
ュニアシンフォニーが永遠に輝くことを祈ります。
── 同志社高等学校管弦楽部・第25回定期演奏会記念誌編集委員会
《世紀を超えて 20030326 同志社ジュニアシンフォニー》P004-008
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森本 芳雄(理&潔の父)19020108 京都 19511120/49 同志社高校教諭
貞方 敏郎(英子の父) 19110101 京都 19800503/69 同志社大学教授 
 
(一部の元号を西暦年号に、あきらかな誤植を正した)
 
 ◇ 正誤訂正
 
 正=店村 真積 or 眞積(誤=店村 真澄)
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20030326 DJS略史
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20061129 無常 〜 酒席奏者と厭世観 〜
 ↑店村 真積 ↓店村 眞積
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20021212 チェリスト 〜 ドン・キホーテ群像 〜
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20011123 門庭再訪 〜 本宮 啓 先生との対話 〜
 店村 眞積 Viola 19480831 京都 /“DJS”悠爾の弟/2002 N響首席(たなむら・まずみ)
 店村 悠爾 Violin 1942‥‥ 京都 /“DJS”真積の兄“DSO”
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19641110 同響定演
 
 Key word;店村
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%C5%B9%C2%BC
 
(20091108)
 


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