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1979年03月24日(土)  わが経営を語る   山口 利昭

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19790324
 
 わが経営を語る 
 
 サンプラザ(株)山口屋
 常務取締役   山口 利昭
 昭和54年3月24日
 
 私が昭和39年に大学を出た時、実家は小さな衣料小売店を3軒もって
おりました。
 そういう時代は終ったんだ、早くスーパーに転化しなければ、という
考えのもとに、私は父の会社に入りました。専務の兄がおり、私は常務
というわけで、“わが経営”と申すのはいささか苦痛ですが、この一年
間、私なりに考えをまとめた《中期経営計画》についてお話したいと思
います。
 3軒のうち一軒の隣は《薬ヒグチ》というチェーン・ストアでして、
当時ネズミ算式にテンポを増やしておりました。
 そこで私どもも、同じことを目ざして、41年の不況期に、店舗を3軒
にしましたところ、各店それぞれ減収減益という始末です。それで気づ
いたのは、クスリと衣料品は、小品の質がゼンゼン違うんだ、というこ
とです。立地条件も異なるし、おおきな前提に対する認識が誤っていた
のです。
 その年から43年までの2年間に衣料スーパーへの転向を試みましたが、
5店舗のうち4店舗をスクラップいたしました。とにかく「やったろ!」
という気持ちで、背水の陣を敷きまして、そうなると強いもので、まず
まずの業績を上げることができました。
 翌年に考えたのは、地域をしぼる、という点です。
 大手のマーケットが、10万世帯を対象としているならば、私どもは5
万軒としよう。五つの候補地から1ヵ処を選んで出店することにしまし
た。資金繰りの困難な時でしたが、その翌年さらにもう一店舗出しまし
た。
 そして45年には、衣料品の他に、食料品・日用品を加えて《総合店舗
計画》を立てたのです。最初の店舗地に増改築するもので、設備1.5億
はほとんど借入れでまかない、初年度の売上目標は、約3.2億──私が
この世界に入って6年目のことです。
 この計画が、すべて完成しておれば、現在すでに100億ほどの規模に
なったはずです。
 ところが、この店舗は借家でして、家主の紹介で、隣接地を買いとる
予定だったのが、契約者であった母が亡くなったので、相続の問題が生
じ、さらには某大手銀行が、私どもの5倍もの価格で買収にかかったの
です。
 こうして、この計画は半分が完成した段階で、あとの半分が稼動しな
い状態となりました。
 そんな状況で、専務の兄と、常務の私との間で意見が合わなくなり、
兄は貿易会社を興し、私は私で建売会社をはじめ、以前から父は「わし
は手を引く」といって隠居しておりましたので、事実上、経営者不在と
なりました。この期間が45年から53年はじめまで続くことになります。
 流通企業の一年は、一般企業の5年間に相当する、といわれますが、
この数年の空白は重みのある年月でした。
 
 ◆ 出なおす
 
 私が当委員会に出席しはじまたのが、そのころでした。清水委員長が、
この演壇から、「ひとりひとり、とにかく隣に負けるな」といわれ、私
も「ヨソの社長に負けるもんか」という気になりました。当時の向井小
委員長にも、経営理念の話をされたが、私は答えることができず、帰っ
てからも口惜しかったのを憶えています。
 そこで、こんどは自分が社長になったつもりで、もういちどでなおそ
う、と決心しました。
 53年3月には、とりあえず内部機構の改革をするため、同族以外から
部長職一名を招き、一般社員に対しては、すべての組織の活性化を図り、
どうしたらお客さんすべてに満足を与えられるか、という二つのスロー
ガンを掲げ、社外ゼミナール参加などを試みました。
 しかし、それだけでは一向に業績は良くなりません。
 4月には、事務所に居っては経営決定できない、と考えまして、翌月
に事務部門を、ある店舗の四階に移転しました。
 そこで、まず驚いたのは、社員の士気が、いかに低下していたか、と
いう点です。大手に対しては、闘う前から負け意識があって、皆その中
にどっぷりと浸ってるんです。
 そこで私は、つぎの問題点を印刷物にして解決を図りました。
  �\峪�店舗を速やかに黒字にする。
  ��難問の衣料部門を好転させる。
  ��新入社員を募る。
  �い覆襪戮�早く食料品に転化する。
 �,砲弔い討蓮■昂遒法團曄璽爛札鵐拭次佞箸いΕ灰鵐札廛箸里發箸法�
実験的な店舗を改装しました。
 �△蓮⇔�通経路の短縮による徹底したディスカウントを続けてみまし
たが、一向によくなりません。考え方が間違っとるんですね(3年間も
やってみてダメな場合は、根本的に考え方が誤っているようです。今で
はディスカウント方式は捨てました。
 これまでの方法は、労働生産性と小品回転率を上げることが目的でし
た。
 しかし労働生産性とは、人を減らせということで、回転率は売れ筋商
品にしぼって全体の数字を上げていただけです。その結果は、お客さん
の側からみると、ますます品ぞろえの悪い店に、みずからもっていった
のです。
 これが市村さんのいう“内部管理では企業は救われない”という考え
方に一致するわけです。
 そこで、人を増やそうじゃないか、在庫も積みあげようじゃないか、
健全在庫というのはアイテム数を増加しようということです。
 この方針で、年末には不振だった衣料部門が前年比15%の売上増にと
なりました。こうしたじつれいからも、考え方しだいで業績というもの
がコロコロ変化するものだ、ということを痛感したわけです。
 ことしの新入社員のための2泊3日の研修旅行では、中堅社員に指導
させることにしたのですが、はじめ「私ら何も知らないです」というの
を無理にやらせた結果、やがて彼ら自身の目の色が変ってきましたね。
 さらに私が要求したのは、社員の入れかえです。
 つい3日ほど前のことですが、かねて問題のあった社員に対して、退
職を迫ったところ、その男が泣いて謝まるんです。「とにかく、もう一
回わしを使うてみてくれ」という。 最近の社内の雰囲気が、いつの間
にかその男を変えていたんですね。
 兄は、衣料品出身ですから、食料品への転換は反対でした。衣料品だ
けでやってるところもあるんだから、これを続けようじゃないか、と云
いつづけていたのを、時間をかけて説得しました。
 
 ◆ 点と線の未来
 
 私の《中期経営計画》では、流通業界が将来どのように変化するか、
という観点から、つぎのように大別しています。
  昭和45年まで:衣料品の時代
    60年まで:食料品の時代
    65年まで:住環境の時代
 現在、食料品スーパーが全盛であるのに、なぜ50年代で終ってしまう
のか、と申しますと、その頃には全国くまなく征覇され、飽和状態にな
る、と思われるからです。大手の大型店を点展開とすれば、われわれの
クラスは線展開、コンビニエンス・ストアは面の展開(私流の表現です
が)となります。
 さらに、エンゲル係数は変らないけれど、48年からの傾向として、外
食部門が伸びつつあり、家庭内での食品マーケットはだんだん小さくな
るとともに、60年を転機として、65年にはスクラップ&ビルドの時代に
なると思われます。
 私どもが持てる資本と人材を、効率よく活かすためには、環境と時代
の変化に適応していかねばなりません。
 こうした考えから、先に述べたホームセンターは、60年代に耐えるた
めの実験店舗としての赤字店舗の試みでした。そして、9月に出店し、
10月には一挙に黒字になりました。 この《中期経営計画》を立てた5
月の時点で、食料品の出店を決定し、現在は地元との折衝に悩んでおり
ますけれども、赤字店舗はすでになくなりました。
 
 ◆ 追われる
 
 最後に、決算月も変更いたしました。それまで2月決算でしたが、待
ちきれなかったんです。ですから私の《中期経営計画》は1月からのも
ので、約60ページになりました。
 とにかく、これを作りたい、といった私が現在、それに追われている
次第です。短期・中期・長期のなかで、とくに中期計画に追われていま
す。
 60年代には、ある地域に対して大型店は、こう来るだろうと予想し、
その地域に応じた商品の組合せ、店舗の所有形態、面積などを考え、そ
の時代の競争に耐えられる店ができるかどうかが中心の課題です。
 先だって、主力銀行の支店長と相談した折、彼は東京支店で開発部門
を担当し、あの大きなマーケットに《百ヶ店政策》を用いたそうです。
つまり100店舗もてば、一定のシェアが確保され、その結果、東京市場
においては住友銀行のイメージは定着する、というのです。そのために、
どの地域を、どのように押さえていくかを毎日地図を前に考えたしうで
す。
 私どもの場合にも、ひとつの地域で、そのマーケット・シェアをいか
に高めるか、という点を、はっきり示すならば、資金面の援助はいくら
でも致します、というわけで、これも目下の課題です。
 2年ほど前には、家主と来年の交渉をしたばかりですが、なかなか思
うようには参りません。今年度の計画も半年ばかり遅れそうです。
 大規模店舗法が変り、住民パワーがあり、まことに不確実な情勢の中
で、私の計画は進められなければなりません。
 昨年の社員研修会にさきだって、こういうことも研究しました。もし
講師が、たとえば飛行機の事故などで来れなかった場合、どうするか。
何かが起ったらどうするか、という対策が必要です。計画を立てたもの
の、もし失敗したらどう対処するか、という方法も、計画の中に織りこ
まねばならない、と現在では考えています。
 
 以上の計画がはじまった昨年3月を、私の人生の元年として、大いに
頑張りたいと思います。そして、いまお話したことが、大きな業績とし
て皆さんに、もういちど御報告できる日を、心から期待して、私の話を
終ることにします。
────────────────────────────────
「講師が、たとえば飛行機の事故などで来れなかった場合、どうするか」
という仮説は、実は5年後の悲劇として、現実のものとなっている。
→ 林 正典《わが経営を語る 19790218 JC倉敷青年会議所》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=19790218


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